平成31年(2019年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月24日(木) 摩文仁海岸線で調査・遺骨収集

今日も晴れ時々曇りの絶好の遺骨収集日よりです。私達の調査・遺骨収集奉仕活動も後半に入っています。頑張ります。今朝は「萬華之塔」「真和の塔」、そして「白梅之塔」の三カ所を慰霊巡拝します。また田中さん親子は本日が作業の最終日という事で、娘さんが吉井さんに「沖縄戦で亡くなられた方々を祀る慰霊塔や壕を案内して下さいますか」とリクエストしたのです。私はその話を聞いてびっくりしました。吉井さんも張り切ってご案内すると語っていました。そして吉井さんは、田中さん親子の那覇空港到着の時刻を勘案して、帰路の途中にある「沖縄陸軍病院之塔」「轟壕」を全員で慰霊巡拝する事を提案して下さいました。本日の調査・遺骨収集奉仕活動を終えてから訪問する、こちらも是非注目して下さいませ。それではまず、今朝の爽やかな天候の恩恵を受けながら、慰霊巡拝に出発しましょう。(^o^)

「萬華之塔」

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.1

この慰霊塔は真壁集落の北東に位置し、道路を挟んで反対側には「JA 糸満市集出荷場 真壁支所」という倉庫のような大きな建物があります。「萬華之塔」がある一帯は沖縄戦最後の激戦地となった地域ですが、戦後真壁部落の住民が付近に散乱していた約1万9千余りの戦没者ご遺骨を勤労奉仕により収骨し、また寄付を募り納骨堂を建てたものだそうです。また霊域には部隊単位での、或いは個人での慰霊塔・慰霊碑も数多く配置されています。その慰霊碑の多さを垣間見ただけでも、ここ南部島尻で果てた戦没者の無念が偲ばれます。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.2

最奥部にある「萬華之塔」です。「萬華之塔」塔は昭和26年8月に建立されましたが、現在の慰霊塔は二代目で平成15年に立て替えられた塔です。よく見ると新しい建物の雰囲気が少し残っていますよね。

初代の「萬華之塔」の屋根には十字架が掛けられていました。「萬華之塔」が建立された頃は、在沖米軍兵士が納骨堂をこじ開けて、主に頭骨を盗んでしまう事件が多発しました。そうした経緯もあり、真壁住民が苦肉の策として、十字架を立てて米兵による頭骨の持ち去りを防ごうとしたのです。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

最初に建立された「萬華之塔」には十字架が掛けられていたのをご存じでしょうか。下の写真がその初代の「萬華之塔」の写真です。なぜ十字架が設置されたのか?

その理由は驚くことに、米兵が頭骨に電気を入れて照明器具代わりにしたり、本国へ帰国する際の"おみやげ" にする為、納骨堂から頭蓋骨などを持ち去ってしまう事件が多発したからなのです。持ち去りが後を絶たない為、真壁の部落民は心を痛めました。苦肉の策として十字架が架けてあれば、米軍兵士も持ち去ることをためらうのではないか…。

そんな盗難防止の願いを込めて「萬華之塔」納骨堂の頭上に十字架が設置されたのです。同じ盗難防止という意味で、「ひめゆりの塔」にも、最初に建立された納骨堂に十字架がかけられていたのです。ちなみに大東亜戦争の最中の話ですが、米軍兵士は戦勝を誇示するために、日本人戦死者の頭蓋骨を、さかんに本国の家族や知人に郵送して贈ったそうです。

日本軍将兵の頭蓋骨は、要するに戦勝を祝うために、小綺麗な箱に詰められたプレゼントとして扱われたという訳ですよ。プレゼント以外にも、頭蓋骨に電球を入れオブジェとしてリビングに飾ったり、切断して灰皿にしたり、歯をペンダントにして持ち歩いたりという行為が実際に確認されています。この米軍兵士の蛮行を最初に指摘したのは、フィリピンに派遣されたローマ教皇使節団であったという記録があり、使節団はこの風習を極めて厳しく非難したという話です。「交戦国軍・民戦死者の頭蓋骨を部屋に飾っておく」という極めて悪質な蛮行は、人道上絶対に許すことの出来ない犯罪だと考えますよ。

「…日本兵などの戦死者の遺骨を記念品として持ち帰る行為が米軍の中で珍しくなかった」 という新聞記事がありますのでご覧下さいませ。

【米の大学倉庫に日本人戦没者?の遺骨30年以上も放置か】

「産経新聞」平成21年8月24日

【ニューヨーク=松尾理也】全米有数の名門大として知られるカリフォルニア大バークリー校の人類学博物館の倉庫に、第二次世界大戦の激戦地、サイパン島で自決した日本人などと記述された複数の人骨が収蔵されたままになっていることが明らかになった。

地元紙サンフランシスコ・クロニクルによると、頭骨を含む3体の人骨と、いくつかの頭骨のない人骨が木箱に収納されていたという。
木箱には、採取地として「サイパン」と明記され、「米軍の進攻の際に自決を遂げた日本人」などの説明が付されてあった。

大学側によると、これらの人骨はすでに故人となっている海軍医が1974年に寄付した。それ以前は、同医師が個人的に保管していたとみられる。

戦争犠牲者の遺骨が博物館の倉庫に収蔵されたまま、いわば、たなざらしになっていたとすれば、敬意や厳粛さを欠く取り扱いといえる。
バークリー校近くを選挙区とするナンシー・ペロシ米下院議長(民主党)の事務所は、クロニクル紙に「経緯に重大な関心を持っている」と述べた。

また、カリフォルニア州のグロリア・ロメロ州上院議員の事務所は「いわばクローゼットに骸骨があったようなもの。人間の尊厳を冒すものだ」と、日本への謝罪と遺骨の返還を求める方針を明らかにした。

クロニクル紙は、第2次大戦中に、日本兵などの戦死者の遺骨を記念品として持ち帰る行為が米軍の中で珍しくなかったと指摘。戦争犠牲者の保護を定めたジュネーブ条約違反の可能性もあると問題提起した。

これに対し、大学側は「人骨の身元が日本人と判明したわけではない。兵士か民間人か、どんな状況で死亡したのかという情報もない」とした上で、ジュネーブ条約は戦時捕虜に適用される国際法であり、身元不明のままでは条約違反とはいえないと反論している。
しかし問題を真剣に受け止め、米政府当局などと連絡を取っているという。

在米日本大使館も「厚生労働省をはじめ日本の関係省庁と連絡を取り、情報収集を行っている」と関心を寄せている。

(※サイト管理者の判断で太字部分を強調させて頂きました)

「産経新聞」から転載させて頂きました

《過去の写真ご紹介》

2017年1月26日/遺骨収集の様子no.5

昭和26年に建立された初代「萬華之塔」です。「萬華之塔」に十字架が設置された経緯は、米軍兵士による頭骨持ち去りが後を絶たず、十字架があれば米軍兵士も持ち去ることをためらうのではないか…。村民のそんな願いを込めて十字架が設置されたのでした。

手を合わせているのは、南部戦跡で累計六千柱以上のご遺骨を収集された石原正一郎さんです。石原正一郎さんは、沖縄戦も終局を迎えつつある6月18日、米上陸軍最高司令官サイモン・B・バックナー中将が、南部戦線で日本軍からの砲撃により戦死しましたが、石原正一郎さんはその砲撃の当事者であり、日本軍側で砲撃の指揮をとる立場の連隊中隊長だった方なのです。

石原正一郎さんはそうした経緯もあり、戦後沖縄に通い続け、大学生を大勢南部戦跡に連れてきて、平和学習の意を込めて共に遺骨収集にあたりました。また同時に金光教の遺骨収集にも深く関与して頂きました。石原正一郎さんは、沖縄での遺骨収集と慰霊祭参列の為に、私の推計でおそらくこれまでに70回以上沖縄に来られたと思います。

毎年6月22日に「萬華之塔」で戦没者慰霊祭が執り行われますが、石原正一郎さんは毎年その慰霊祭に参加する時には、「バックナー中将戦死之跡碑」にも必ず訪れ、献花し手を合わせていたと語っていました。

2018年1月26日/遺骨収集の様子no.6

「萬華之塔」は地元部落民等の寄付により建立されたものですが、その寄付一覧名簿です。「萬華之塔」は昭和26年に建立されましたが、昭和26年といえば、まだまだ食べるものにも事欠く時代でした。そんな状況の中で真壁集落の人たちは地域に散乱するご遺骨を収集し、寄付を募り「萬華之塔」を建立し、ずっと慰霊塔を守り続けて下さったのです。

2018年1月26日/遺骨収集の様子no.7

よく見ると「弗」という文字が見えます。「ドル」でなく「弗」ですから、何か時代を感じさせますよね。もうひとつ沖縄では米国占領時代「B円」(ビーえん)という貨幣が使用されていた時期があるんですよ。

2018年1月26日/遺骨収集の様子no.8

5円、10円とか20円の寄付が多いですね。100円もお一人おられます。これらの円は、米国占領時代「B円」(ビーえん)としての円だと思います。昭和26年の10円は現在の貨幣に換算するとどれくらいの価値があるんでしょうかね。戦後の焼け野原状態での寄付に金額では計れない温情を感じます。

よく見ると「弗」という文字が見えます。「ドル」でなく「弗」ですから、何か時代を感じさせますよね。もうひとつ沖縄では米国占領時代 「B円」(ビーえん)という貨幣が使用されていた時期があるんですよ。

「B円」 は、1945年から1958年9月まで、米軍占領下の沖縄県や鹿児島県奄美諸島(トカラ列島含む)で、通貨として流通したアメリカ軍発行の軍票です。1948年から1958年までは、唯一の法定通貨だった…。」 と、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に書かれています。

B円 について、ここでもう少し詳細にウィキペディアから引用させて頂きましょう。

【B円】

B円(ビーえん)は、1945年から1958年9月まで、米軍占領下の沖縄県や鹿児島県奄美諸島(トカラ列島含む)で、通貨として流通したアメリカ軍発行の軍票。1948年から1958年までは、唯一の法定通貨だった。日本国内で法定通貨とされた唯一の外国軍票であり、本土地域でも短期間少量流通している。

正式名はB型軍票。英語表記は、Type "B" Military Yenで、Yen B type、B-yenなどとも表記される。

正確には、連合国の共通軍票であるAMC(Allied forces Military Currency)軍票の1種であり、他の連合国にも発行権があったが、日本に駐留した占領軍はアメリカ軍主体だったため、他国の軍は円建ての軍票は発行しなかった。当初のB円はアメリカ国内で印刷されたが、末期のものは日本で印刷されたものもある。硬貨はなく、全て紙幣だった。

沖縄県、奄美諸島とB円
アメリカが占領した直後は、沖縄本島は沖縄戦による荒廃によりどの通貨も流通せず、取引は物々交換で行われていた。その他の地域では旧日本円や、久米島紙幣などの地域通貨が若干流通していた。

1946年4月15日、アメリカ軍は自らが発行するB円を公式通貨とした。その後、1946年8月5日からは若干の条件付きで新旧日本円の流通も認めた。そのため終戦直後の沖縄県や奄美諸島においては、これらの通貨が混合して流通していた。

しかし、アメリカ軍が恒久的な統治を考えるようになると、1948年7月21日に新旧日本円の流通は禁止され、B円が流通する唯一の通貨となった。このときは、7月16日から21日にかけて、日本円とB円の交換が行われた。

当初は 日本円1 円 = 1 B円 が公定レートだったが、1950年4月12日に日本円 3 円 = 1 B円(1ドル=120 B円)となり、B円が廃止されるまでこのレートが使われた。このレート変更は物価の上昇を招き、奄美諸島の本土復帰運動を加速させる結果にもなった。

B円だけを使用させることにより、米国民政府は、通貨の流通量を統制することができた。当時の公定レートは1ドル=360円だったが、1ドル=120B円という、日本円に比べ割高なレートがとられたのは、アメリカ軍が基地建設や駐留経費などを日本企業に支払う際に有利な条件にするためだったといわれている。

これにより日本本土から安価で資材を調達することができたかわりに、沖縄県周辺の経済は空洞化した。また、本土系企業の進出をも遅らせる理由になった。

当時の朝日新聞によれば、1953年12月25日において実際の通貨としての価値は1 B円=1.8 日本円程度だったという。

1958年9月16日から20日にかけて、アメリカドルへの通貨切り替えが行われ、廃止された。

「Wikipedia」から転載させて頂きました

「砲兵山吹之塔」

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.3

「砲兵山吹之塔」です。昭和41年(1966年)6月22日建立されました。野戦重砲兵第一連隊(球4401)、山根忠隊長以下739柱、及び配属鉄血勤皇隊員12柱を祀っています。

碑面の明治天皇御製「すえとおく かかげさせてむ 国の為 生命をすてし人の姿は」の御製は、宮内省の許可を得て、揮毫は日蓮宗総本山身延山久遠寺第八十六世一乗院日静上人(日露戦争に乃木将軍隷下部隊に陸軍伍長として従軍された)の筆によるそうです。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.4

野戦重砲兵第一連隊球第4401部隊戦没者が記載された墓誌です。写真では解りにくいと思いますが、墓誌の冒頭に鉄血勤皇隊沖縄県立第一中学校生徒の戦没者氏名が記載されています。

《過去の写真ご紹介》

2017年1月26日/遺骨収集の様子no.12

「砲兵山吹之塔」前に立つ石原正一郎さんです。昭和63年に撮影された、この写真は上掲の十字架の架かる萬華之塔の写真と共に、石原正一郎氏から頂いたものです。

沖縄戦も終局に近づいた昭和20年(1945年)6月18日、米軍沖縄占領部隊総司令官サイモン・B・バックナー中将が糸満市真栄里の高台で日本軍の砲弾によって戦死しましたが、石原正一郎さんは日本側の当時の野戦重砲第一連隊の中隊長として指揮をとっていました。そうした経緯で「萬華の塔」「砲兵山吹之塔」建立に尽力されました。そして石原さんは毎年6月22日に催されるこの地での慰霊祭には毎年必ず参列されるそうです。

沖縄遺骨収集奉仕活動で多大な貢献をされた石原正一郎さんは、金光教の遺骨収集にも深く関与して頂きました。また私も東京の千駄ヶ谷にあるご自宅にお訪ねしたり、携帯電話やメールなども無い時代でしたから、手紙で頻繁にやりとりするなど親しく交流させて頂きました。

南部視察中におけるサイモン・B・バックナー中将戦死に関わる砲撃の指揮を執った石原正一郎さんの新聞記事を、琉球新報記事群の中からから見つけましたので、ここに転載させて頂きます。

【沖縄に通い続け慰霊、収骨続ける/元砲撃隊長の石原さん】

「琉球新報」平成14年6月18日

【東京】1945年6月18日、米軍沖縄占領部隊総司令官サイモン・B・バックナー中将が糸満市真栄里の高台で日本軍の砲弾によって戦死した。57回目の命日を前に、日本側の当事者である当時の野戦重砲第一連隊の中隊長だった石原正一郎さん(85)=東京渋谷区=が中将の死について明かすとともに、44年間通い続けた沖縄への思いを語った。

石原さんが隊長を務める同連隊・球第4401部隊はこの日、真壁村(現糸満市真壁)に配備されていた。昼すぎに「真栄里の丘に米軍幹部の車が集まっている」との報告を受けた。「双眼鏡で方角と距離を確認し、14人の砲手が作業を進めた。残る砲弾は八発。すべて四キロ先の丘に向け発射。丘はがれきの山だった」と振り返る。

これまで中将は、歩兵銃で狙撃されたとの説もあった。しかし米軍側の戦死記録(米国陸軍省編/外間正四郎訳「日米最後の戦闘」)にも「日本軍の砲弾が観測所の真上でさく裂。吹き飛ばされた岩石の一つが中将の胸にあたり十分後に絶命した」と記されており、石原さんの証言と一致する。 使用されたりゅう弾砲は戦後、米軍が保管していたが、石原さんが「戦友の遺品」として返還を要求。現在、靖国神社境内に展示されている。

これまで事実を公にしてこなかったが、「私ももう85歳。事実を語り残すべきだと思った」と話す。85年には中将が倒れた高台に慰霊碑を建立。「米軍人が戦友の墓参りをする場を作りたかった」という。またドキュメンタリー作家の上原正稔さんの仲介で現在は、中将の家族と手紙のやりとりも行っている。

体調を崩す2年前まで44年間、6月には沖縄を訪れ、遺骨収集を行い、慰霊祭に出席した。「尊い命を奪われた人々の無念さを思うとやり切れない。沖縄に通い続けたのは、生き残った者として当然やらねばならないことだから」と話す。

「6月23日は、国の慰霊の日にしなきゃいかん」と力を込めて語る石原さん。今年も沖縄へ行くことはできないが、自宅で静かに手を合わせ23日を迎える。

「琉球新報」から転載させて頂きました

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.5

【沖縄県公文書館所蔵】
分類名:B0400
アルバム名:米海兵隊写真資料53
撮影地:
撮影日:1945年 6月
写真解説:
【原文】 LAST PHOTOGRAPH OF GEN BUCKNER: This is the last pix taken of LtGen Simon Bolivar Buckner, extreme right, commanding general, 10th Army, who was killed on Okinawa June 18 when hit by an enemy shell. The general is shown at a forward observation post of the USMC 6thDiv during an attack. A few minutes later, he was killed.
【和訳】バックナー中将最後の写真。6月18日に日本軍の砲撃により沖縄で戦死した第10陸軍司令官バックナー中将(右端)の最後の写真。中将は攻撃のさなか第6海兵師団の前線監視所におり、数分後に殺された。

第10陸軍司令官バックナー中将戦死について、記述されている本を二冊ご紹介します。

《書籍ご紹介》

「天王山 沖縄と原子爆弾」(下)

ジョージ・ファイファー著/小城正訳 早川書房 平成7年(1995年)初版

「天王山 沖縄と原子爆弾」(下) では、バックナー中将戦死について、次のように記述しています。

バックナー中将の戦死

(332-334頁)
しかし、その地区に散在していた日本軍の砲兵部隊は、まだ散発的にに激しい射撃を行っていた。活動的で頑健なバックナー司令官は、戦闘の第一線にきわめて近い地点への訪問を延期するようにという要請に耳を傾けなかった。彼はあらたに戦場に投入された連隊の連隊長やその他の高級将校を伴って、島の南西端の断崖や岩の多い海岸がよく見える前進観測所へやってきた。…自信に満ち、非常な努力家で、戦いに勝利を得つつあった彼は、第10軍司令官という地位がはまり役であると思われたが、数週間後には、アメリカ陸軍の指導的な地位にあるごく少数の将軍の一人として本国へ帰還し、日本本土に対する進攻においてもっと大きな作戦を指揮する準備をすることになると思われていた。

真栄里…には、アメリカ軍の射弾観測用の眼鏡にほかにもうひとつ、日本軍からの捕獲品の砲隊鏡が設置されていた。それらの眼鏡は、約1ヤードはなれた大きな2つの丸石の間に設置してあった。それは、さらに南寄りの高地にいた、日本軍の野戦重砲兵第1聯隊の最後の砲に対して掩護するためのものであった。

その野戦重砲中隊は、最後の高地へ後退する際に典型的といえるような大きな損害をこうむっていた。…アメリカ軍の連日の集中射撃によって砲手は脅威を受け、軍の誇りであった砲は破壊され、中には1発も射撃しないうちに破壊されたものもあった。今は、中隊の火砲12門のうち1門だけが残っていた…。

ちょうど午後1時を過ぎた頃、かろうじて生き残っていたこの隊の1人が北方の高地に目を向けて、双眼鏡の焦点を合わせてみると、驚くべきことに、明らかに高い地位にあると思われる敵の将校数名が立っているのが見えた。この将校たちは眼鏡で、今いる位置とは反対側、つまり東側の海岸にある牛島将軍の司令部の方向を見ているようだった。バックナー中将は、見晴らしの良い観測所に1時間ほどいて立ち去ろうとしているところだった。…射撃指揮に熟達した日本軍の指揮官が、最後まで残った砲に、重要な将校の一群という魅力的な目標に対して射撃を命じた。戦砲中隊の残りの者は、急いで洞窟の中に入った。「われわれが1発撃つと、向こうから、1千発の『お返し』を受けることがよくわかっていた」からである。

その砲からは5発発射された。…砲弾の1発が、防護用の大きな丸石にひとつにあたり、飛び散った石の破片が砲弾の破片とともにバックナーの胸部と腹部に食い込んだ。(※)出血がひどかったので、彼を救護所に後送することはできなかった。一行に随行していた衛生兵が必死になって止血に努めたが、バックナーは10分後に落命した。

※ 大方の記事には、珊瑚礁の破片となっているが、砲隊鏡の位置に配置されていた砲兵隊員は、岩石の破片が最大の打撃となったといっている。

作戦の終わる時期が近くなったからといって、決して戦死するおそれがなくなるわけではないことを最初から知っていた歩兵部隊の将兵にとって、この事件はそうした考えが正しかったことを証明する物であった。新たに戦場に投入された海兵第八師団のある人物は、「私にいわせれば、全軍の司令官ともあろう人物が、あんな前線に出てくるべきではなかったんだ」といった。(※)

※ アメリカ軍の間に、沖縄の民間人に対して残虐な行為を犯した者が生じたのは、この事件に対して復讐したいという気持ちがあったからかもしれない。六月十八、十九、二十日の三日間に計六十名を殺害した事件は、十八日におけるバックナーの戦死直後に起きており、そのすべてが同じ地区で発生している。その中の数件は、観測所のあった稜線のすぐ下の真栄里で起きたのである。

「天王山 沖縄戦と原子爆弾(下)」から転載させて頂きました

《書籍ご紹介》

「日米最後の戦闘」

米国陸軍省編/外間正四郎訳 サイマル出版会 昭和43年(1968年)初版

「日米最後の戦闘」は、翻訳に難があるという指摘もありますが、基本的に米国陸軍省の公式見解であるとも言えるでしょう。同著では、バックナー中将戦死について、次のように記述しています。

バックナー中将の戦死

(255-256頁)
米軍にくらべれば、日本軍の損害率は、しだいに高くなっていったとはいえ、米軍のほうもまた、狙撃兵を求めて南部で掃討戦にはいったり、あるいは真栄平、真壁の部落での戦闘で、かなり多数の戦死傷者をだしていた。日本軍の組織がくずれさったことで、米軍は攻撃の手をゆるめたわけではなく、これまでと同じようにはげしい攻撃を展開、日本軍のほうでは、首里戦線のときよりも、多くの損害を出していた。首里陥落後の日本軍の前線が、崩落するまでに蒙った第十軍の損害は、千五百五十五人の戦死、六千六百二人の負傷であった。

この戦死者のなかに、バックナー中将がいた。中將は、6月18日の昼過ぎ、ちょうど、島の南西端近くにある、第二海兵師団第八海兵連隊の前戦観測所に立ち寄ったところだった。この師団は、4月1日と19日に陽動作戦を行っただけで、どの部隊もまだ実際には上陸せず、6月に入ってから、最後の戦闘に参加するための第八連隊が、はじめて上陸したのである。バックナー中將は、この海兵隊の進撃状況を、視察しているところだった。そこへ午後1時15分、日本軍の一発の砲弾が観測所真上で炸裂。こなごなに吹き飛ばされた岩石の一つが、バックナー中將の胸にあたった。中將はその場にくずれるようにして倒れ、10分後には絶命したのである。バックナー中将にかわって、沖縄作戦の上級司令官ロイ・S・ガイガー海兵隊少将が、第十軍の指揮をとった。そして六月二十三日には、ジョセフ・W・スチルウェル将軍にかわった。

バックナー中将が戦死した翌日、第九六師団の副師団長クロウデュス・M・イーズリー准将も戦死した。イーズリー准将は、前線の勇士として、全軍将兵から尊敬されていた。ちょうど、日本軍機関銃陣地のある地点を指揮していたところを、飛んできた二発の機関銃弾に、前頭部を撃たれて即死したのだ。この両将軍のいのちも、沖縄戦勝利のかげに眠る、第十軍七千以上の、尊い犠牲のなかに加えられた。

「日米最後の戦闘」から転載させて頂きました

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.6

「萬華之塔」の左側に「華之塔 砲兵山吹之塔 由来記」と書かれた碑がありました。碑も小さいですが、文字も極めて小さいので写真では全く読めませんから、テキストに起こしてみました。平成4年5月15日 沖縄復帰二十年記念として建立されたもので、「野戦重砲兵第一聯隊会 祭主石原正一郎 文責建立石原正一郎氏」と記載されていますので、石原正一郎氏が起案した文章である事が解ります。

野戦重砲兵第一聯隊会及び石原正一郎氏が、「萬華之塔」「砲兵山吹之塔」の建立に尽力された経緯と共に、真壁住民の御厚情に対する感謝の念を強く表出しています。また戦没された方々への慰霊と顕彰に心を尽くす姿が浮かび上がってくる文面です。そして金光教那覇教会の林先生も現地慰霊祭に深く関わっているのが見てとれます。少し長いですがお読み下さいませ。>

【萬華之塔 砲兵山吹之塔 由来記】

この浄財寄附者の碑は、昭和二十年六月二十三日沖縄戦終焉直後米軍占領下にあって、ここ當時糸満町三和村真壁部落の村民が、山野や田畑に累々と野曝しのままであった尊い軍官民戦没者の御遺骨を収集奉仕され、焼土と化した住むに家なき生活にありながら、占領下の通貨B円の五円、十円の尊い浄財を募り、納骨堂を建立し手厚く御屍を納め、萬華之塔と命名された建立基金協賛者の碑であり、納骨遺骨は約壱萬余柱に及ぶと聞く。このたび台風により破損した碑を真壁区長新垣正順氏の許可を受け、(合)本部砕石嘉手刈林春企画部長の御厚意と、例年山野の遺骨収集に協力奉仕を続ける沖縄在住米軍退役軍人ウイリアムJブレブル夫妻(妻邦子沖縄県民)のご協力により補修完成した。

砲兵山吹之塔建立も昭和四十一年四月遺品の火砲を米軍司令部より返還受領訪沖時、この地真壁の故金城増太郎先生、糸満市田島重男町会議員はじめ、村民一同の好意ある会議決定により無償で許可された。砲兵山吹之塔建立二十年を経た昭和六十一年十二月塔の補修工事中、左側珊瑚礁附近より発見された御遺骨もブレブル夫妻、キャップテンメンザ夫妻、篤志家栃木県高岡敏郎氏、金光教沖縄遺骨御用奉仕団等の協力を得て、二カ年にわたる遺骨収集奉仕により、数多くの遺品(球第四四〇一認識票外)と十三柱を収骨し、「諸霊安らかに」の建碑を奉献した。ここに由来を刻し縁りの遺族戦友はじめ本土同胞として、沖縄県民特に真壁村民の御厚情を永久に銘記し、深く感謝の誠を捧げる次第であります。

因に萬華之塔内遺骨は、昭和四十一年六月二十二日挙行された砲兵山吹之塔建立除幕式慰霊祭の祭主として来沖された、野戦重砲兵第一聯隊会総裁東久邇盛厚王元宮殿下(明治天皇皇孫、昭和天皇第一皇女故照宮成子内親王殿下の背の宮、今上天皇御義兄)の御意思により、占領下の昭和四十二年六月二十二日縁りの本土、沖縄生残りの戦友と米軍上陸前部隊駐屯地東風平村出身故神谷正雄氏御一家の御協力奉仕により、萬華之塔内の御遺骨を全て搬出し、那覇市日蓮宗妙光寺故新垣宣岳上人読経裡に一昼夜に及ぶ荼毘作業を営む。(偶々新垣上人御長男宣恒命は球第四四〇一部隊第六中隊衛生兵として真壁に戦死、萬華之塔に納骨され御尊父の回向供養を受く、奇しき法縁であった)

荼毘を終えた分骨二基を砲兵山吹之塔に供え慰霊祭を営み、分骨は岩水、石原両中隊長の胸に抱かれて本土に奉還され、靖國神社の特別の御配慮により境内奉納沖縄戦遺品の火砲と対面を許された。(靖國神社境内に戦没者が迎えられたのは御創建以来前例はない)この年七月十五日うら盆回に故東久邇盛厚王元宮総裁祭主となられ、本土遺族戦友により長野県善光寺忠霊殿、山梨県日蓮宗総本山身延山久遠寺に盛大に納骨法要を挙行、更に昭和四十五年六月二十二日沖縄、本土遺族戦友、真壁村民により砲兵山吹之塔、萬華之塔慰霊祭を営み、分骨を訪沖遺族戦友奉持して、和歌山県高野山沖縄戦戦没者供養塔に納骨、豪雨の中遺族戦友により盛大に納骨回向慰霊祭を挙行した。

昭和五十四年二月摩文仁ヶ丘国立戦没者墓苑完成、橋本龍太郎厚生大臣祭主の沖縄戦全戦没者追悼式典挙行時には、萬華之塔分骨を国立墓苑納骨堂に納骨した。例年の慰霊祭は、野戦重砲兵第一聯隊会総裁東久邇盛厚王元宮殿下の御意思により決定された六月二十二日を玉砕日と定め、真壁区民建立の萬華之塔と砲兵山吹之塔協賛行事として縁りの遺族戦友、真壁区長以下全区民参列、金光教那覇教会長林雅信師を祭主として二十七年間欠かすことなく挙行し、沖縄戦友は例年清明祭を営み今日に至る。

因に球四四〇一部隊沖縄県出身兵戦没者は七十八柱、配属鉄血勤皇隊沖縄県立第一中学校生徒十二柱が散華された。この砲兵山吹之塔は本土神奈川県真鶴産の原石を本土で加工し、沖縄に輸送したものである。碑面の明治天皇御製「すえとおく かかげさせてむ 国の為 生命をすてし人の姿は」の御製は宮内省の許可を得て、御製と砲兵山吹之塔の御揮毫は日蓮宗総本山身延山久遠寺第八十六世一乗院日静上人(日露戦争に乃木将軍隷下部隊に陸軍伍長として従軍された)米寿の筆になる。

碑裏面と顕彰碑の文字は石原正一郎記し顕彰碑文も起案す。砲兵山吹之塔祭主東久邇盛厚王元宮殿下は、昭和十四年対ソ連ノモンハン事件参戦時の第一中隊長殿下であり、昭和四十四年二月一日薨挙去、一乗院日静上人も昭和四十六年十二月二十七日行年九十三才の御長寿にて遷化された。

諸霊よ安らかに

平成四年五月十五日 沖縄復帰二十年記念 野戦重砲兵第一聯隊会 祭主石原正一郎 合掌 文責建立

(サイト管理者注:常用漢字にない漢字は常用漢字に変換しました。その他は原文ママ)

「華之塔 砲兵山吹之塔 由来記」碑文を起草された石原正一郎氏とは、ご自宅を訪問するなど交流させて頂きましたが、本文に出てくる「篤志家栃木県高岡敏郎氏」とも金光教沖縄遺骨収集奉仕活動で出会い、爾来石原正一郎氏同様長いお付き合いをさせて頂きました。

「白梅 沖縄県立第二高等女学校看護隊の記録」という書籍の第十章 白梅の香り永久に には、「本土の防波堤となった沖縄」という寄稿文を高岡敏郎さんが書かれています。高岡敏郎さんは昭和16年に満州に駐屯していた武部隊に入隊され、九十九里浜に駐屯する部隊で終戦を迎えられました。定年退職後、沖縄戦を知りたいと沖縄に通うようになり、その過程でご紹介した石原正一郎さんとも知り合い、また白梅学徒同期生の方々との交流も深まっていったようです。

私と石原正一郎氏と高岡敏郎氏との連絡手段は、携帯電話やインターネットの無い時代でしたから、通信手段はもっぱら手紙です。電話という便利な通信手段があるにも関わらず手紙でした。殆ど常に手紙でやり取りしました。文通といってもよい程です。昔の方は電話よりも手紙の方が、圧倒的に自分の気持ちを表すのに良い手段だと感じていたのだと思いますね。電話は邪道だと。(笑)

私の親世代でもある石原正一郎氏、高岡敏郎氏が書き記す文面は、実際に電話での会話では言い表すことのできない程の深みのある、実に含蓄ある言葉がちりばめられ、体験したからこその説得力ある文脈で全編綴られていました。

ただ一つ私が難儀したのは、送られてくる便箋の枚数が毎回半端ない数だったことです。十枚以上というのが時折ありました。皆様考えてもみてください。例えば便箋10枚の手紙をもらった場合、返す便箋枚数が1枚というのは失礼に当たると考えてしまいますよね。(^_^;

そこで文章量をかさ上げしなければなりません。10枚もらった場合は、最低でも3枚は書かねばなりません。そこで七転八倒の苦難を味わうのです。(笑)

今となっては懐かしい思い出ですが、石原正一郎氏、高岡敏郎氏が沖縄に向ける熱情は、人の心を揺り動かさずにはいない程の強さがありました。同時に私が金光教沖縄遺骨収集奉仕活動に参加し続けた事も強く影響し、子供が親の背中を見て育つように、この私もまた沖縄へと沖縄へと心が向かったのでした。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.7

我等野戦重砲兵第一聯隊は遠く明治二十三年創設せられたる要塞砲兵第一聯隊を始祖に後東京湾要塞砲兵聯隊と改称せられ日露戦後には野戦重砲兵聯隊を編成し鴨緑江旅順奉天の諸会戦に参加 (未完成(^_^;)

「馬魂碑」

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.8

「馬魂碑」です。「愛馬よ安らかに眠れ」と書き記されていました。沖縄戦では沢山の軍馬も動員されましたが、そうした戦場に果てた軍馬の慰霊碑なのですね。沖縄戦では本土から沢山の軍馬が搬送されましたが、一方で沖縄の在来馬もその多くが軍馬として動員されたそうです。ちなみに真壁にはもう一カ所「馬魂碑」がありますね。

「国を出てから幾月ぞ 共に死ぬ気でこの馬と
攻めて進んだ山や河 とった手綱に血が通う」

愛馬行進曲の一番の歌詞をご紹介しました。曲は六番までありますが割愛させて頂きます。因みにこの軍歌の作詞者は誰だと思いますか。?

意外や意外、私も知らなかったので偉そうに書けませんが、大東亜戦争中に只一カ所だけ攻める米軍側の死傷者が多かった戦場。そうです硫黄島での硫黄島守備隊(小笠原兵団)を指揮した栗林忠道陸軍中将です。硫黄島の戦いは沖縄戦の二ヶ月ほど前の2月19日から陸上戦闘が始まりました。因みに栗林中将は軍歌「暁に祈る」も作詞されています。硫黄島の戦いと言えば、クリント・イーストウッド監督の映画「硫黄島からの手紙」を思い出しますが、見られた方も多いのではないでしょうか。この映画は日本軍側の視点で描かれていますが、米軍側の視点を描いた「父親たちの星条旗」という映画もありましたね。

沖縄第三十二軍司令部には、参謀部や副官部のいわゆる幕僚部のほかに、経理部や法務部など色々ある中に獣医部というのがあり、軍馬はその獣医部が管理していました。沖縄戦が開戦するまでは、獣医部は那覇市内第一高女の運動場の隅に馬繋場や水飲み場、厩舎等が設けられていたようです。沖縄戦に動員された軍馬の総数は二千頭は超えていたと言われます。大変な数ですが、弾薬、糧秣、陣地構築資材などは、その殆どが輓馬隊が行っていましたから、第三十二軍総数が十一万人余りである事を勘案すると、もしかしたら少ないと言える頭数なのかもしれません。軍隊では食料を「糧秣」と言いますが、「糧」は兵士用の食料を指し、「秣」は「まぐさ」つまり馬の飼料を指すようです。愛馬行進曲の歌詞を読むと納得できますが、正にこの時代の軍隊とは軍馬一体なのですね。

「牛飲馬食」という四時熟語があります。牛は水を大飲みし、馬は大食いだという意味だそうですから、二千頭を超える馬の飼料を確保するのも大変だったと推測されますし、馬は繊細な動物で戦場など悪環境では神経質になり病気に掛かりやすかったと言います。こうした軍馬を管理する部隊は、世話に追いまくられ筆舌に尽くしがたい苦労をされたようです。沖縄戦では軍民併せて二十余万人が亡くなられましたが、ここにご紹介したように二千頭を超える軍馬もまた、開戦二ヶ月ほどでほとんどが戦死したと言われています。こうした事を肝に銘じ改めて軍馬に対しても慰霊の念を深めていきたいですね。

「山3480部隊(野砲兵第42聯隊)終焉之地碑」

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.9

「山3480部隊(野砲兵第42聯隊)終焉之地碑」です。

【山3480部隊(野砲兵第42聯隊)終焉之地碑碑文】

山三四八〇部隊(野砲兵第四十二聠隊)は昭和十四年秋関東軍に新設の第二十四師団の特科聠隊聠隊として創設され東部ソ満国境近い東安省西東安に駐屯していたが、同十九年七月動員下令により出動し、南西諸島防衛のため沖縄本島の守備に当っていた。

翌二十年三月末より本当に侵攻した連合軍を迎えて、想像を絶するほど激しい弾雨の中で、第一線友軍の支援射撃に、あるいは対戦車攻撃に威力を発揮し再三その進撃を阻止するなど、砲兵の本領そのままに敢闘したのである。

やがて戦況の悪化に伴い、軍命令により島尻南部に後退した部隊は、ここ真壁を中心に陣地を展開してさらに奮戦するも、しだいに弾薬は途絶え死傷者は続出し各隊ごと最後の出撃を決行したがその殆どは、この地一帯で散華した。

また、輓馬部隊だけに在満時代からの数多くの軍馬も共に戦野を駆けたが、日を追って斃れる数を増し、戦火の消えたときついに一頭の姿もみることはなかった。

沖縄決戦における我が部隊の戦没者は、聠隊長西沢勇雄大佐以下二千百十余名を数えるが、部隊に配属された防衛隊員はじめ炊事や看護などに献身的に尽くされ、最後は部隊と運命を共にした人や、戦火の犠牲となった多くの住民のいたことを忘れることはできない。

これらのことが、祖国に今日の平和と繁栄をもたらすための礎石となったことを明らかにし、とこしえに御霊安かれと念じつつ、我が部隊終焉の地にこの碑を建立する。

昭和六十二年三月 野砲兵第四十二聠隊戦友会 同 戦没者遺族有志

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.10

「山3480部隊(野砲兵第42聯隊)戦没者氏名碑」です。

「沖縄連隊区司令部戦没職員慰霊碑」

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.11

「沖縄連隊区司令部戦没職員慰霊碑」です。「沖縄連隊区司令部戦没職員 慰霊碑」です。台座部分には、星マークと共に沖縄連隊区司令官 陸軍少将井口駿三閣下 祭霊外88柱と書かれています。

「独立重砲兵第百大隊(球18804部隊)鎮魂碑」

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.12

「独立重砲兵第百大隊(球18804部隊)鎮魂碑」です。

【独立重砲兵第百大隊(球18804部隊)鎮魂碑碑文】

昭和十九年六月中旬マリアナ戦線の変化に伴い、突如陸軍重砲兵学校に八九式十五糎加農砲一個大隊の動員が下命された。教導聯隊は大隊長河村秀人中佐以下三百五十有余名を第三中隊第四中隊を主幹として、富士分教所の教官及び職員を加え横須賀重砲兵聯隊に転属した。当隊は独立重砲兵第百大隊として同年七月二十一日、沖縄那覇港に上陸第三十二軍に編入、主力は第五砲兵司令官和田孝助中将の隷下に入り、北中飛行場制圧の任に就き、一部は国頭支隊に配属された。

翌二十年四月一日米軍は古今未曾有の艦砲射撃及び爆撃に援護され上陸を開始した。棚原陣地の当隊は沈着冷静に対処し両飛行場制圧に偉大な戦果を収めた。総攻撃に際しては機動的集中射撃を実施し砲兵の本領を如何なく発揮したが、間断なき砲爆撃により死傷者続出、火砲車両の損壊も甚だしく司令部命令により、喜屋武陣地に後退真壁付近に集結し、戦闘続行敵の進出阻止に当たった。

六月二十日最後の軍命令により機を失せず果敢な斬り込みを決行、全員悠久の大義に生き靖国の華と散った。本決戦に於ける当隊の戦没者は河村大隊長以下七百三十四名であるが、当隊に配属された防衛隊員学徒隊員はじめ看護炊事等に献身的に尽くし、当隊と運命を共にした人や、戦火の犠牲となった多くの住民のいたことを忘れることは出来ない。祖国に今日の平和と繁栄をもたらすため、礎石になられたこれ等の方々の御霊の安らかならんことを祈願し、当隊終焉のこの地に碑を建立する。

平成五年五月 
全国重砲会 重砲校友好会 
独立重砲兵第百大隊遺族会 

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.13

霊地の奥まった所に、ご覧のような個人的な墓標が数多く立てられている場所があります。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.14

砲弾が立っていました。1トン爆弾というのを見た事がありますが、この砲弾はそれよりも小さいですから、〇キロ爆弾という呼称なのでしょうか。?

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.15

「萬華之塔」の右側には、ご覧のような舗装された歩道があります。この歩道を60メートル程進むと大きく口を開けた壕がありますので、行ってみましょう。

「アンディラガマ」(真壁千人洞)

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.16

壕口が見えてきましたね。鬱蒼とした雰囲気です。ただ何年か前の巨大台風の被害により、倒木が多かったのでしょうか、近年は昔と比べて光が入るようになり、不気味な雰囲気は和らいでいます。実際にご覧のように樹林の外側に光が見えますからね。昔は全く見えなかったんですよ。最も曇りの日や雨の日は、相変わらず暗くて怖い雰囲気になりますので、見学する場合は曇りや雨の日は避けたほうが無難です。

ちなみにこのアンディラガマから南南東方向に150メートルぐらい行った場所に、第二十四師団野戦病院分院だった「アンガーガマ」があり、私も松永さん、吉井さんと共に、一度最奥部まで調査したことがあります。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.14

アンディラガマ(真壁千人洞)の壕口が見えてきました。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.17

それでは中に入ってみましょう。但し一つ注意しなければならない点は、この壕内には絶滅危惧種のコウモリが生息しているとの事です。コウモリの巣であるコロニーに強い照明を当てるなどは厳禁ですからね、その点は注意しなければなりません。因みに私は最奥部まで入った事はありませんが、全長250メートルぐらいあるそうです。最奥部には水源もあるとの事です。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.18

20メートルほど入った所で入り口部分を撮影しました。かなり大きな開口部であるのが見てとれます。擬装するのは困難だったでしょう。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.19

壕入り口付近には、ご覧のような遺品が沢山置いてある場所があります。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.20

壕内の壁面はご覧のように火炎放射攻撃を激しく受けたのか、煤で真っ黒です。不気味でおどろおどろしい程の黒さと言えるでしょう。昨年はこの盛り土のようになっている場所から左側に回った結果、奥に続いているはずの坑道がない事が判明したので、今日は小山の右側に坑道があるか探してみます。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.21

右側に回るとやはり坑道がありました。壕口からすでに30メートルぐらい入っているので、これ以上前進するのは危険だとは思いましたが、あと20メートルを限度に前進して見ることにしました。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.22

鍾乳石の間を潜るようなイメージで不思議と空間が続いています。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.23

立って歩くことは出来ませんが、屈んで歩ける程度の高さはありますね。もう少し前進してみましょう。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.24

少し狭くなってきましたが、まだ前進できます。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.25

狭い坑道になってから20mぐらい前進しました。もっと奥まで行きたいという思いは募るのですが、ここで引き返しましょう。このガマはご覧のようにガチガチの鍾乳石から成る石灰岩の空洞です。大昔この空洞に水が流れていたと言う事になります。この空洞は見ての通り落盤の危険性も無く、また最奥部に水源があるとの事ですから酸欠の恐れもありません。という事で、まだ先に行きたい思いは強いですが、万が一事故を起こしたら社会に大変な迷惑を掛けてしまいます。

またこのアンディラガマ(真壁千人洞)には絶滅危惧種のコウモリが生息しているようなのですが、少なくとも私が前進した位置20mぐらいまでの範囲では、飛翔や威嚇がなかったので巣は無さそうです。いずれにしても、この壕の全長は250mぐらいあると言われています。見て解る通り、壕内は恐ろしい程の火炎放射攻撃を浴びて真っ黒けです。この黒さ加減は、「独立高射砲27大隊本部壕」と双璧を為すものです。更に奥はどの様になっているのか‥。慰霊行脚という意味で、いつの日か状況が許せば、松永さんにガイドして頂きながら、南部戦跡遺骨収集会の全メンバーで見学したいと念じています。私が沖縄遺骨収集奉仕活動から引退する数年内にぜひ実現したいです。

「萬華之塔」前の道路を東に100メートル程行くと、小高い樹林帯となっている丘がありまして現在真壁公園となっています。その丘の頂上には昔日の古城である「真壁グスク」があったそうです。

真壁グスクの発掘調査を実施した市教育委員会によると、出土したグスク土器、外国産陶磁器、鉄器、古銭等を調査した結果、14~16世紀の三山分立時代に南山城の出城として築かれたグスクである事が判明したそうです。地元では「寺山」と呼ばれ、南側のグスク入り口近くには真壁神宮寺が建っています。

その真壁公園の一角に「真和の塔」がありまして、この塔は平成21年ですから、今から10年前に慰霊巡拝で初訪問しています。同塔が地図に掲載されていない事から、探し当てるのにかなりの時間を要したのを覚えていますが、二度目である今回は久しぶりの再訪という事になります。

「真和の塔」は第五砲兵団司令官和田孝助中将指揮下の各砲兵隊の戦没者150名が祀られています。軍砲兵部隊は首里戦線でも比較的残存率が高く、島尻の新陣地即ち具志頭、八重瀬岳、与座岳、国吉、真栄里に至る最後の防衛ラインの、主に真壁と真栄里に布陣した砲兵部隊は、島尻の戦いでも正確な砲撃で米軍を圧倒する場面もありましたが、戦車や火炎放射攻撃で迫る米軍に圧倒され、また砲門などの兵器も破壊され尽くし、やがて他の部隊と同様、砲兵部隊もまた斬り込み玉砕で散華されました。

「真和の塔」

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.26

「真和之塔」が奥まった所に見えますね。公園に入ってすぐの所にありますから、見落とす事はないと思われます。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.27

「真和之塔」です。昭和41年(1966年)3月に建立されました。同塔は第24師団の第5砲兵団司令官和田孝助中将指揮下の野砲兵第24連隊及び野戦高射砲第81大隊の戦没者150名が祀られています。軍砲兵部隊は真壁と真栄里に布陣しましたが、その布陣のゆかりの地である真壁に慰霊碑を建立したという事でしょうね。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.28

慰霊碑碑文です。テキストにしましたのでご覧下さいませ。

【慰霊碑碑文】

昭和20年5月下旬新垣・与座岳・真壁の線に放列陣地を敷いた第五砲兵団司令官和田孝助中将指揮下の野砲兵第24連隊及び野戦高射砲第81大隊の将兵は優勢なる米軍の砲爆のもと勇戦奮闘その火砲を全部破壊されるも怯まず全員白兵斬り込みを敢行して壮烈なる最期を遂げたり。 ここに南方同胞援護会の助成を得てこの塔を建て永くその偉烈を伝う

昭和41年3月 財団法人沖縄遺族連合会

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.29

「真和之塔」のすぐ裏のジャングルを見ると、すぐに急傾斜の岩場になっているのが見えますね。掘られた陣地壕があるのかないのか判然としませんが、周囲がほとんど平坦部なだけに孤立しているように見えるこの丘は、集中的な攻撃に晒されたに違いないという印象を持ちました。

今日「真和之塔」を慰霊巡拝したのは、数年前に具志頭での調査・遺骨収集作業中にメンバーが、野戦高射砲第81大隊将兵が身につけていたと思われる認識票を発見した事によります。日本軍の認識票は単なる識別番号みたいなものですから、個人が名前を彫り込むなどしない限り、身につけていた将兵の氏名を追跡する事は叶いません。但し所属部隊は判明するケースが多いです。

その認識票に書かれている記号・番号を、参加メンバーが沖縄から帰ってから精力的な調査を行った事により、所属部隊名が判明したのです。発見された認識票の持ち主は、この慰霊塔に祀られている野戦高射砲第81大隊の兵士だったのです。福岡さんは、この部隊の編成地である福井県鯖江市嶺北忠霊場に「福井県平和祈念館」があると聞いて、何か情報が得られるかも知れないと車で出かけて行ったりもしました。結果として新たな情報は得られませんでしたが、それにしても驚くべき行動力です。

こうした経緯もあり、今こうして認識票の兵隊さんが所属していたであろう部隊の慰霊碑に向かってご冥福をお祈りした次第です。長く遺骨収集をしてる立場の責務として、こうしたきめの細かい慰霊活動はとても大切だと感じています。

《書籍ご紹介》

「沖縄の最後」

古川成美著 河出書房 昭和42年(1967年)初版

著者の古川成美氏ですが、大東亜戦争が始まった昭和16年に大学を繰り上げ卒業し、その二ヶ月後学徒兵として中部第24部隊に入営するも教育要員として学校勤めに戻され、今の高校生にあたる青少年の教育に打ち込んでいましたが、昭和19年(1944年)当時28歳で、「七月二十日午前九時、福井県鯖江ノ聯隊二入隊セヨ」と召集令状が来たとの事。そして配属先が独立高射砲第八一大隊、球一二四二五部隊と決まった‥。

「沖縄の最後」冒頭の記述を一部抜粋しましたが、この本は出版後一年で8刷に達するベストセラーとなったようです。また再販を重ねる内に、内容文の一部更新しているとの事です。私が購入した書籍は第一刷となっていました。またその後高級参謀であった八原博通氏より、1000枚に及ぶ沖縄戦手記の提供を受け、昭和24年(1949年)に「死生の門─沖縄戦秘録」を出版しましたが、こちらも重版を重ねたようです。因みに「死生の門─沖縄戦秘録」は読めば一目瞭然、八原博通著「沖縄決戦 高級参謀の手記」とほぼ同じ内容なのだそうです。登場人物を架空の名前にしてストーリーに加えたようです。

著者の所属する部隊である独立高射砲第八一大隊は、中頭郡読谷村にある北飛行場で防空任務に就きました。初戦は昭和19年10月10日の対空戦闘の参戦でした。そして沖縄戦開戦、以降北飛行場、前田、翁長、小波津、与那原、そして慰霊塔「真和之塔」のある真栄平までの転戦の様子が筆致鋭くリアルに描かれています。著者は真壁部落の東側の小高い丘の斜面にあったトーチカで負傷し、傷病兵の悲惨さをなめ尽くして沖縄戦を生き抜かれた方です。

「白梅之塔」

林に囲まれた静かなたたずまいのこの地は、観光化された「ひめゆりの塔」とは違い、実に清楚で慰霊塔らしい雰囲気を醸し出していますね。 白梅同窓会の方々が定期的に清掃しているとの事ですから、いつの時も清潔な雰囲気が維持されているのかも知れません。このような「乙女らの祈りの場」という雰囲気を、いつまでも大切に維持していただきたいですね。

この「白梅之塔」は、県立第二高等女学校校長以下、職員生徒、同窓生105名を祀っています。二高女の生徒46名は、3月6日東風平の国民学校に設営された陸軍病院に動員されました。そして3月24日、生徒達は今の八重瀬町富盛にあった第二十四師団第一野戦病院に配属され、負傷兵の看護にあたる事になったのです。以降戦局の悪化と共に、新城分院や東風平分院などに移動し看護活動を続けましたが、6月4日解散命令を受けて以降は、戦野を彷徨う事となり、多くの犠牲者が出てしまいました。

解散命令が出た以降も、この国吉の壕で看護活動を続ける生徒も居ましたが、6月22日米軍にガソリンを流し込まれたり、火炎放射攻撃などの馬乗り攻撃をされて、職員を含む36人が犠牲となりました。この馬乗り攻撃は、6月18日バクナー中将が、真栄里部落で、日本軍の砲撃による流れ弾に当たり戦死した後という事もあり、米海兵隊第二師団によるその攻撃は、徹底的であり残虐的であったようです。この頃の米軍は怒り狂ったように、付近にいた住民に「日本軍に司令官の位置を通報した」として射殺したり、白旗の代わりに手を挙げて出てきた者まで銃撃するなど、軍民問わず徹底的な殺戮が行われたようです。

「白梅之塔」

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.30

県道54号線から別れて200メートルも行かないうちに「白梅之塔」が現れます。ここは真栄里になるんですね。「白梅之塔」はそんな木立に囲まれ静寂な雰囲気の中にがありました。参道の両側には常緑高木であるモクマオウ(木麻黄)が植え込まれ、実に清楚で霊域らしい雰囲気を醸し出していますよね。このような「乙女らの祈りの場」という雰囲気を、いつまでも大切に維持して頂きたいです。それから、いつ来ても感ずる事なのですが、清掃が行き届いています。「白梅之塔」に慰霊巡拝した際に、偶然清掃員の方が居て清掃作業をされていたので、立ち話的に色々と聞いてみましたら、やはりキチンと定期清掃を行っているという話でした。

国吉・真栄里地域には、五基の慰霊塔が建立されています。日本軍が最後の防衛線として設定した八重瀬岳、与座岳、国吉、真栄里ラインに重なる事もあり、小さな集落にこれだけ慰霊塔がある事からしても、国吉台地が与座に連なる防衛陣地の要衝であったかが解りますね。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.31

「白梅之塔」全景です。此処に立つと不思議と清楚なイメージが沸いてきますね。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.30

「ひめゆりの塔」は、沖縄県立第二高等女学校職員生徒戦没者を祀る慰霊塔です。沖縄戦に学徒として動員され戦死した22名の白梅隊員をはじめ、戦争が原因で亡くなった教職員12柱、同窓生113柱、計149柱が合祀されています。「白梅之塔」は何時来ても生花が供えられ絶えることがありませんね。それに千羽鶴も。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.32

手前が「白梅之塔碑文」です。奥の方に「沖縄県立第二高等女学校職員生徒戦没者名碑」です。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.33

「白梅之塔」碑文です。チラチラして読みにくいので、テキストに起こしましたのでご覧下さいませ。

【白梅之塔碑文】

沖縄県立第二高等女学校の四年生56人で編成された白梅学徒看護隊は、昭和20年3月6日第二十四師団(山部隊)の衛生看護教育隊に入隊し、補助看護婦としての特別集中教育を受けていた。

米軍の艦砲射撃が激しくなった同月24日から、東風平町富盛の八重瀬岳にあった同師団の第一野戦病院に軍属として配置され、昼夜別なく傷病兵の看護に専念した。

戦況は日毎に悪化し、同年6月4日遂に白梅隊に解散命令が下り、隊員は散り散りになって戦野を彷徨し、一人またひとりと戦火に斃れていった。 その場所は殆ど不明である。

また、解散後この地に後退した山第一野戦病院に、再び合流した一部の白梅隊員は、同年6月21、22の両日に亘り、米軍の猛攻撃を受け無念の最期を遂げた。この辺一帯は、白梅隊員の最も多くの犠牲者が出た所である。

塔は、戦没した白梅隊員及び沖縄戦で戦死、或いは戦争が原因で亡くなった教職員・同窓生149柱の鎮魂と、世界の恒久平和を祈念して昭和22年1月に建立した。毎年6月23日の「慰霊の日」に祭礼が行われる。

平成10年6月23日 
沖縄県立第二高等女学校 白梅同窓会 

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.34

台風の影響でしょうか、見事に倒れた木がありました。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.35

現在の慰霊塔は四代目で平成4年(1992年)6月に建立されました。塔の形は「壕の中から太陽を求める。日の光を求める」といったイメージで制作されたとの事です。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.36

初代の「白梅之碑」で、昭和22年1月に建立されたものです。この碑は「戦没された学友たちの供養は私達の責務」として、先生方、同期生、そして同窓生などの尽力と協力により、建立されると共に第1回目の慰霊祭が執り行われたのです。

この碑は当初国吉集落の南の丘の上にありましたが、昭和26年に現在の敷地に移設され、同時に現在のような立派な「白梅之塔」が建立されました。ちなみに現在の塔は三代目です。現地に行かれましたらぜひ、この初代「白梅之碑」を探してみて下さい。すぐに見つかると思いますよ。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.37

碑の裏側を見ています。元教諭金城宏吉さんが詠んだ詩が刻まれています。金城宏吉さんは沖縄戦当時の引率教員のお一人で、教え子の亡骸を見つけようと、自決之壕での遺骨収集もされた方です。

戦後三十五年目の卒業式

沖縄県立第二高等女学校の白梅学徒同期生の間で、「卒業証書を頂けないだろうか」という話が、戦後三十年を経て持ち上がったそうです。そうした経緯もあり、金城宏吉先生の指導を仰ぎながら、6月23日に亡くなった学友たちの墓前白梅之塔で行うという方針が定まりまして、沖縄の「ウスーコー(法事)」は、三十三回忌をもって終わりますので、白梅隊ご遺族の心情にも配慮しつつ、昭和52年の三十三回忌明けの二年後となる昭和54年(1979年)に、戦後三十五年目の節目に、白梅学徒同期生の卒業式が執り行われたそうです。

「白梅 沖縄県立第二高等女学校看護隊の記録」という本の中に、その三十五年目の卒業式の様子が書き記されていますので、引用させて頂きます。(^o^)

《書籍ご紹介》

「白梅」 沖縄県立第二高等女学校看護隊の記録

白梅同窓会編著 クリエイティブ21 平成12年(2000年)初版

【戦後三十五年目の卒業式】 東恩納 道子(旧姓・東恩納)

(ここまで省略)
1979年6月23日、戦後三十五年目の私たちの卒業式が行われました。開式の言葉は、西平一男先生、司会の仲田史子さん《現・東(昭和17年入学)》の声が、塔の庭に優しく、そして静かに、緑の梢の蝉時雨の中に消えていきました。

日出ずる国 みんなみの み空も海も か青なる

懐かしい校歌。しっかり歌っているつもりなのですが、なぜか声になりません。金城先生の張り詰めたお声…。

「卒業証書 安仁屋 俊子 右ハ本校所定ノ学科ヲ…」

卒業証書

稲福全栄校長先生(戦没)が、あの激戦の中を大事に持ち歩かれた校印で、朱色も鮮やかに押印され、「安仁屋俊子」、「上原春江」と戦没した白梅隊員の名前が読み上げられ、御遺族の方が正面に進まれる。いくらか腰の曲がったお父様。そして、白いおぐしのお母様。証書の娘の名をジーッと…。赤いバラをお着けになった胸を震わされ、一筋の涙を1945(昭和20)年3月23日、貴女たち自身で手にした筈の卒業証書の上に。

例年にならい「仰げば尊し我が師の恩」の歌で、広い講堂を在校生に送られ、昭和二十年三月六日、地久節といわれた皇后誕生日が、私たち二十年卒の卒業式でしたが、前年の十・十空襲で、那覇市は九十パーセントが全焼し、私たちのモダンなコの字型の校舎も全焼。空襲後、校長先生方でやっと決めた二十年三月二十三日でした。その前日二十二日の夜中十二時まで、東風平の山部隊との交渉をされた金城宏吉先生の願いも空しく、二十三日から米軍の艦砲射撃が始まりました。今にして思えば、卒業式などできる筈がありませんでした。

時は過ぎました。そう、三十五年も…。

塔に眠る貴女たちと一緒にやる筈だった卒業式。遠く東京から肥後秀子さん(現・肥後)、四国の松江富貴子さん(現・戸梶)と鈴木ヤス子さん(現・久保)、鹿児島から須賀米子さん(現・大川)、福島シズエさん(現・平井)、悦田淑子さん(現・川路)たちが、宮古の大嶺信子さん(現・砂川)、八重山からは大山喜代さん(現・大山)、備瀬秀子さん(現・新垣)渡嘉敷スエさん(現・宮良)たちが出席し、涙、涙で証書を頂いて…。

式はゆっくりと時を刻み、万感の想いを込めて『仰げば尊し』

「白梅」から転載させて頂きました

「わが国の守りは私たちの手で」と健気な決意も新たに、みずから進んで看護隊に志願し、非業の死を遂げられた白梅隊員と共に挙行された念願の卒業式…。

同期生の念願であった卒業式の挙行を待っていたかのように、沖縄県立第二高等女学校の校章や三角定規、そして糸巻き、櫛などが見つかったそうです。これら校章などの遺品は、摩文仁に近い大渡の壕から発見され、これらは同校同窓会会長大嶺勝子さんに届けられましたが、なんと三十五年目の卒業式の前日だったそうです。

校章をその他の遺品を発見したのは、石原正一郎さんという方で、金光教の遺骨収集にも参加されており、私も随分とお話をする機会がありました。

ちなみに石原正一郎さんは、米上陸軍最高司令官サイモン・B・バックナー中将の、南部戦線での戦死に関わる日本軍の砲撃を指揮した野戦重砲第一連隊の中隊長だった方で、戦後は沖縄に通い詰めて遺骨収集に取り組み、すでに南部戦跡で累計六千柱以上のご遺骨を収集された方なのです。

石原さんによる沖縄県立第二高等女学校の校章や遺品を発見し、同校同窓会長にお届けした経緯などが「沖縄・白梅の悲話」(読売新聞大阪社会部編)に記載されていますので転載させて頂きます。

本文では、発見された校章に関する説明や、石原さんの人となりや遺骨収集に掛けるその思い、そして戦没された女子看護隊の純粋さ、至高さに寄せる慈愛に満ちた哀悼の念などが記載されていますので、ご覧下さいませ。

《書籍ご紹介》

「沖縄・白梅の悲話」

読売新聞大阪社会部編著 昭和55年(1980年)初版

【沖縄白梅の悲話】

(107ページ)
沖縄の悲劇を語り継ぎたいという思いを抱くのは、沖縄の人たちばかりではない。

この沖縄シリーズ第一章『白梅』で、沖縄県立第二高女の三十五年ぶりの卒業式を待っていたかのように校章「白梅」が摩文仁の壕から見つかった、と書いたが、発掘されたのは、それだけではなかった。三角定規、おはじき、糸巻き、それに櫛もあった。

白梅隊員、上原初代さんのお宅で、まるで宝物のように大切に守られているこれらの品々を見せてもらったとき、三浦美佐子さんも河内さんも、あの戦いの様から考えて、まさに貴重品ともいえる、これら五つの遺品をだれが、どうして発見したのか、知りたかった。上原さんは「この人が、私たちのために持ってきて下さった、と聞いておりますが」と一枚の名刺を示した。

帰阪してすぐ、河内は東京で、その人、石原正一郎さんに会った。六十二歳。マユが太い。早稲田大学出身。沖縄で玉砕した野戦重砲兵第一連隊の元大尉である。

渋谷区千駄ヶ谷のマンションで、石原さんは、太く、低い声で、校章に、女子学徒兵に寄せる思いを語った。

石原さんは、昭和四十一年から、沖縄南部地区で収骨を続け、その数はすでに六千柱。四十六回沖縄を訪れている。三十三回忌の年、五十二年以降は、野戦病院を重点に収骨した。病院の中で自決させられた兵は、さぞ無念だっただろう、引きずってでも壕から出していたら助かっただろうに、という思いが強かった。

与座、八重瀬岳から摩文仁まで、二十カ所近い病院壕には、まだ数多くの遺骨があった。そして、そのまわりから、櫛、手鏡、裁縫箱、おはじき、鉛筆……少女の持ちものがいくつも出てきた。

「私はね、戦友がね、彼女たちにたとえ、包帯のひと巻きでもしていただいたのだ、心をなぐさめていたのだ、と思うようになりました。そうしますと、あの娘さんたちの小さな、ほんとうに細々としたお品が、もういとおしくてたまらなくなってきましてねぇ、ありがとうございます、ありがとうと口にしながら集めたんです。 校章もそうです。摩文仁に近い大度の壕から出ました。大きな石を二十人がかりで引き揚げました。その下に大人のご遺骨と、校章がありました。そばには少女の歯がありました」

石原さんは、すぐその校章などを同窓会の大嶺勝子会長に届けた。卒業式の前の日だった。「日本の戦史に、彼女たちのことは、全くといっていいほど出てこないんですよねぇ。まして、白梅隊は知られていない。それが残念でならなかったです。

私は必ず、六月二十三日、沖縄の終戦の日、白梅之塔にお参りしています。収骨に連れていっている大学生にも必ず、お参りさせています。若者が手を合わせてあげたら、あの人たち、きっと喜ぶよねって」

河内は、白梅の校章が結びつけてくれた石原さんとの出会いに、百万の味方を得た思いだった。石原さんはつぎつぎと遺品を見せてくれた。名刺ぐらいの鏡はところどころはげ落ちていた。鉛筆は二センチくらいまできれいに削られていた。胸が熱くなり、思わず語りかけていた。

―――ふるさと、沖縄から遠く離れた、平和な時代の東京で、二人の男が、いま、あなたたちのことを思い、偲んでいるのですよ―――と。石原さんは、両手を合わせていた。

沖縄南部で十五年間に六千体も収骨、これからも体の動く限り続けてゆくと石原正一郎さんは、南部の大きな地図をひろげて、日本の沖縄に、まだどれだけの遺骨が眠っているのか、熱っぽく話し始めた。

県の記録によると、昭和三十年までに県民が収骨した数は十三万五千二十三柱。それから四十五年までの十五年間に県は、さらに、二万九千七百六十八柱を納めたという。そして五十一年三月には、未収は、対象十八万八千百三十六柱のうち、二千百九十九柱になったと説明した。しかし、石原さんら民間の手で、五十年から今日まで、六千五十七柱が収骨されている。数が合わない。

「海洋博の年ですけど、摩文仁が心ない人たちの手でね、汚されているのがたまらなくなりましてね、ジュースやビールの空き缶がいっぱいなんですよ。清掃しようということになってね、黎明の塔から北側斜面から入ったんですよ。そしたら、山のような御遺骨ですよ。百三十七柱収骨しました。何万、何十万人という観光客の足元に、それだけ眠ってられたのです。それがいまの日本ですよ。

戦後三十五年たちますとね、もう御遺骨は、三十センチ、四十センチものわくら葉の下にあります。
まず、それをとりまして、地表を出すんですけど、その地表も風化しているんです。お骨のまわりを三メートル四方、掘りまして御遺品を捜すんです。お名前がわかるものは、なんとしても、御遺族にお渡ししたい。それが私の念願なんです。これまでに、百ほどの遺品をお届けしました。その百の御遺族のお顔を忘れることはできません。沖縄には、まだ、お名前がわかっているのに、肉親の手に帰れない遺品が何万とあるでしょう。これだけ豊かな日本が、なぜ、それをしてあげられないのか。考え方の問題じゃないと思うんですよ。日本人の生き方の問題じゃないでしょうかねえ」

石原さんは、自費で、時には、心臓の発作で救急車で入院したり、骨折したりしながら、山野に、壕の中に入ってゆく。

「私たちが山野でね、十日前後でね、多いときには何百柱ですよね。三十三回忌には二千柱ですよ。もうないとは言わせません。それを数字をあげろ、なんて役人は言いますけどね。厚生省のお役人なんか、ハブがこわいのか、山野には決して入ってきませんよ。壕内の収骨しか予算がないとか言いましてね。いま、南部ではあちこち採石しているんですけど、もう一回ブルドーザーがくれば、というところに四柱もあったりするんです。かつてね、沖縄の人たちは、占領下の食うや食わずの時代に、るいるいたる遺骨を集めて下さったんです。真壁村にある万華の塔にはね、だれだれ三円、だれだれ五円と寄付した村人の名が刻まれていますよ。塔は十字架なんです。米兵が、納骨堂からシャレコウベをとっては、電気を入れて、おもちゃにしたらしいんです。村人がなんとかしなければと考えたのが十字架を立てることだったんですね。あの戦争で、村も家も、家族も失ったあの人たちが、どんな気持ちでお骨を守って下さったか。私たちはおこたえしなければなりませんよ」

石原さんの太く、低い声も、また、一つの沖縄の声であった。

「沖縄白梅の悲話」から転載させて頂きました

「白梅学徒看護隊自決之壕」

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.38

「白梅之塔」の右側にある「白梅学徒看護隊自決之壕」です。ちなみに、ここから百数十メートル離れた場所に「白梅之塔 上の壕」という壕があります。沖縄戦当時、両壕は単に「上の壕」「下の壕」と呼ばれていたみたいです。目の前にある壕は、開口部はかなり大きいですね。偽装は難しかったと思います。この病院壕では解散命令が出た以降も看護活動を続けた生徒も居ましたが、6月22日米軍にガソリンを流し込まれたり、火炎放射攻撃などの馬乗り攻撃をされて、職員を含む多くの学徒が犠牲となりました。

この馬乗り攻撃は、6月18日バクナー中将が真栄里部落で日本軍の砲撃により戦死した後という事で、米海兵隊第二師団によるその攻撃は徹底的であり残虐的であったようです。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.39

現在は壕口にコンクリート製の階段が設けられていますので、容易に降りていく事が可能です。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.40

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.41

壕内天井部の様子です。壕内空間を広くするために鍾乳石の先端部が切り取られているのが見て取れます。戦後70以上経過して、ガソリンを流し込まれるなど、激しい馬乗り攻撃を受けた様子を物語る岩面の黒い煤も年々色褪せて来ていますが、それでも往時の全てを焼き尽くす火炎放射攻撃の激しさを今に残しています。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.42

「頭上注意」の表示が見えます。路面部分には砂利が敷かれています。この壕は国吉さんが熱心に取り組んでいましたから、国吉さん引退の今、何処かのグループがその志を引き継ぎ、遺骨収集に取り組んで居られるのかもしれませんね。それにしても、大変な労力時時間の間を要する作業に見えます。そのご苦労に頭が下がりますね。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.43

階段を降りきったところで撮影しました。「白梅之塔」製作にあたり「壕の中から太陽を求める。日の光を求める」というコンセプトを、この写真を見ると印象深く感じられますよね。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.44

砂利が敷いてあるのでとても歩きやすいです。昔砂利が敷いてない時に入った事がありますが、岩だらけで大変でした。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.45

更に奥に進んでみましょう。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.46

この辺りが一番奥になるでしょうかね。この辺りもしっかりと砂利が敷かれています。これだけ整然と砂利が通路に沿って敷かれているという事は、推測するに遺骨収集の為に敷いたのではなく、この壕内で修学旅行生などを対象とした平和学習を安全に行う為に、足下の安全を考慮して砂利を敷いたという事なのかも知れません。推測に過ぎませんが。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.47

立ち入り禁止の場所がありました。ここは換気口と言うべきなのでしょうか。比較的大きな開口部がある場所です。米軍による馬乗り攻撃では、この開口部から爆雷や手榴弾を投げ込まれた可能性は極めて高いですね。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子47

「白梅之塔」から道なりに100メートルほど坂道の公道を登り、左に折れて「山形の塔」や「眞山之塔」を横に見ながら更に森の中に進みますと、「白梅之塔 上の壕」の碑文が見えてきます。碑の奥には壕があります。

遺骨収集の様子48

「白梅之塔 上の壕」の碑文です。ここでは文言としては「竪穴」と表現していますね。壕とは呼べないレベルの縦穴だったのですね。白梅学徒看護隊の生徒さん達も下の壕は病院壕という事で、この縦穴に来ては睡眠をとっていたと記述されていますね。

遺骨収集の様子49

ここがいわゆる「上の壕」です。壕の真上から撮影しています。下に降りるのにちょっと大変なのでここから撮影させて頂きました。壕の様子が余りわからなくてすいません。

以前降りて壕の中に入ってみた事がありましたが、それほど深くはなく、もしかしたら壕と呼べないぐらいの浅い壕でした。縦穴という視点で見てもみましたが、いずれにしても狭い空間でしか無かった印象です。しかしながらこの付近では壕らしき壕は他に見当たらず、睡眠をとるなど稀少な隠れ場所だったのでしょう。

(ご覧のように縦穴とも呼べないくらいに破壊されていますが、もしかしたら米軍の攻撃で大きく破壊されたか、軍備品の備蓄倉庫だったと言いますから、備蓄砲弾等が攻撃で誘爆したという可能性もあります。吹き飛ばされた側の土石がほとんど見当たず平坦になっていましたからね)

「南禅廣寺」

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.48

「南禅廣寺」です。昔は、この辺りの壕には大蛇が住みついて人々に危害を加えるので困っていたそうで、国吉村のある人が中国で学んだ念仏を唱える事で封じ込めたそうで、この寺を建て祈願が続くようにしたといいます。地元の方は国吉の寺(クニシヌティラ)と呼ぶみたいですね。この寺は「白梅学徒看護隊自決之壕」のすぐ横にあります。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.49

先ほどの壕内で立ち入り禁止の場所がありましたが、上から見るとここですね。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.50

開口部の真上から撮影しました。建設足場に使うジャッキが設置され、岩底を支えていますね。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.51

なるたけ奥を撮影しています。これが限界ですね。ジャッキアップしているのが見えます。そうするのもやむを得ないほど岩の厚みが薄いですね。爆雷を投げ込まれたような場所は、岩盤がかなり緩くなっている可能性があるので、下に堆積している土砂の多くが戦後崩落したものかもしれません。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.52

門前から見る「南禅廣寺」です。ネットで調べますと、このお寺で国吉集落の旧暦行事である寺ムヌメー(物参り)が執り行われるようですね。寺ムヌメーは集落の発展や区民の健康を祈願する旧暦行事で、旧歴9月9日(10月23日)に神事と合わせて行われているみたいです。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.53

本土の人は「あっススキだ」と仰るかもしれませんが違いますよ。サトウキビの花穂なんです。私も最初間違えてしまいました。それはともかく幻想的で綺麗ですよね。(^o^)

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.54

ご存じのようにサトウキビは沖縄県特産である黒糖の原料という事になります。イネ科サトウキビ属の植物で、沖縄の方言では「ウージ」と呼ばれるそうです。THE BOOMが歌う「島唄」の歌詞にも、「ウージの森であなたと出会い、ウージの下で千代にさよなら‥」という部分がありますよね。

サトウキビは沖縄県の基幹作物になっているそうで、農家の7割以上が栽培し耕地面積の約5割、農業生産額の約2割を占めるという、沖縄の基幹作物となっているそうです。サトウキビは沖縄で一番多く栽培されているという事のようです。これは意外でしたね。それはともかく、この幻想的なサトウキビの花は、12月頃から咲き始めますが、糖度が増しましたよ~、収穫してくださ~い!という合図なんだそうで、この花が咲くとサトウキビの収穫が開始されるそうですよ。(^o^)

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.55

因みに、こちらはお馴染みのススキです。断っておきますが、この写真はススキを貶める為に掲載した訳ではありませんからね。(笑)

調査・遺骨収集作業開始です

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.56

作業開始に先立ち、戦没者の鎮魂を願い手を合わせました。m(_ _)m
昨日は西側から司令部壕トイレ開口部に向けて前進しましたが、本日は東側からトイレ開口部に向けて出発します。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.57

集合写真です。今日もよろしくお願いします。(^o^)
沖縄や東南アジアで、これから遺骨収集奉仕活動に取り組んでみたいとお考えの方は、写真に写されているベテランさんの服装を真似てみてください。ヘルメット、上下の服装、リュックサック、手袋、膝当て‥。とても参考になりますよ。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.58

本日の作業が開始されました。今日も頑張って取り組みましょう。(^o^)

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.59

福岡さんです。福岡さんは、剪定作業に用いる大型のハサミである「刈り込みバサミ」をいつも持参しています。ジャングルを前進するのにも重宝ですし、下草刈り的な作業も抜群の効率性を発揮しますよね。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.60

前に進むのではなく、下に進もうという話になりまして、深く耕していく事になりました。(^o^)

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.61

田中さん親子が力強くクマデを打ち振っています。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.62

こんな感じでしばらく作業を続けて遺品が出るか様子を見ます。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.63

少しですが遺品が出始めましたね。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.64

こちらでも少し出ているようです。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.65

遺品が少しでも出てくると気合いも入ります。(^o^)

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.66

御遺骨も少し発掘されました。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.67

小銃弾や手榴弾も出てきました。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.68

結構あちこちで発掘されるクレオソートの瓶が出てきました。大きさを見て頂く為に無線機を横に置いてみました。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.69

広範囲に雑草が無くなり地肌が露出してきました。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.70

順調に掘り進んでいます。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.71

同じく馴致様に掘り進んでいます。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.72

福岡さんから「ちょっと来て欲しい」との声があったので、声のする方向に向かいました。福岡さんの正面に壕口があるようです。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.73

壕口から少し入った所で撮影しました。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.74

まだ降りられそうです。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.75

ご覧のように隙間も結構ありますね。酸欠の心配は無用なようです。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.76

見えている底面が底になるかもです。降りてみましょう。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.77

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.78

結構広いです。まだ横に進めそうなので前進してみましょう。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.79

うわ~。空き缶で一杯ですね。この空き缶は位置的に見て、摩文仁高地にある展望台から沖縄師範健児之塔に向かう階段通路を少し進むと、摩文仁司令部壕海岸口に向かうために階段が分岐している部分がありますが、その辺りから投げ捨てると、写真この位置に落ちてくると思われます。後でまたご紹介しますが、この壕の上に行くとびっくりするぐらいの空き缶が捨てられています。

話が少し外れますが、この摩文仁高地南斜面1kmぐらいの広域に捨てられた超膨大な空き缶について何時も思うのです。捨てられた事自体は憤慨するものの、別の視点で見ますと驚嘆しきりです。

それは平和祈念公園が完成した頃は沖縄戦に参戦された方は勿論、大東亜戦争に関わった戦争関係者の方々がご健在でしたから、摩文仁之丘に設けられた各県の慰霊塔に慰霊参拝しようと、列をなすように訪れたのではないかと推察致します。慰霊参拝に訪れた方は、一本二本と喉が渇いて飲料水を飲まれたと思います。つまりお一人一本ないし二本を消費しました。そこから訪問人数を逆算すると、信じられないぐらいの膨大な人々が平和祈念公園へ慰霊巡拝に訪れた事になります。

世代交代が進んでいる事を加味しても、今日各県の慰霊碑前に立ってみて下さい。修学旅行生を除き、土日曜祭日であっても参拝者は本当に疎らです。こうした現状に思いを馳せる時、昔の大挙して摩文仁に馳せ参じた人々の熱情に驚嘆するのです。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.80

根が降りてきています。かなり下に潜りましたが地上は近いようです。福岡さんの居る所の上部に開口部がある様です。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.81

上を向いて開口部がありますね。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.82

更に深いところがありました。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.83

ここにも開口部がありました。隙間だらけですね。ナパーム弾攻撃かガソリン攻撃には脆弱な壕だと思えます。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.84

福岡さんと一緒に遺品がないか探してみましたが何もないですね。これだけの目立つ壕なのに遺品が無きに等しいというのは不思議です。すでに調査済みではあると思いますが、人が居たという痕跡も見当たりません。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.85

二人で調査を終えたので出入り口に向かいます。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.86

福岡さんが出入り口から出る所です。広い壕ですが、人が出入り出来るのはここだけのようです。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.87

皆さん頑張っています。徐々に調査が進んでいます。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.88

つる性植物も厄介ですが、草や木の根もまた厄介です。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.89

ご覧のように根が凄い事になっています。伸びた根が作業の進捗を遅らせています。壕内と違い露天は、こうした点で本当に大変です。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.90

吉井さんです。御遺骨や遺品が少しですが、出続けています。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.91

皆さん休まずに本当に頑張っています。脱帽です。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.92

万年筆の一部が出てきましたね。清掃してみたところ、残念ながら記名はありませんでした。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.93

作業をしている西端はご覧のようにゴミがかなり出ています。ゴミ部分については、ゴミの下が沖縄戦当時の地盤という事になります。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.94

スーパー袋に入ったドリンク付きの昼食弁当‥。こんな感じのゴミが大半です。お弁当容器が散乱する、こうした場所では鳥の骨がありますので、発見される小さな骨には要注意です。ゴミの層はかなり厚そうですね。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.95

ゴミが絡み、根が絡み‥。大変です。(^^;)

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.96

皆さん頑張っています

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.97

膝蓋骨ですね。吉井さんが見つけられました。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.98

蚊の攻撃が凄いので蚊取り線香を焚いています。線香を置くステンレス台は現地調達です。(笑)

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.99

御遺骨も少しですが出ています。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.100

腕や足の骨で両端がしっかりしている骨が無いので少し不安もありますが、内部が空洞で無い事から人間の御遺骨だと見ています。鳥の骨も混ざっていますが、最後に分別する予定です。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.101

指輪が出てきました。良く見つけましたね~。(^o^)

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.102

作業場所の全景はこんな感じです。壕内作業と比べて露天の作業の快適性は天候に左右されますが、雨でなければ露天作業は凄く快適ですね。概ね気温は15度から20度ぐらいですから、汗を流す事自体が快適に感じます。(^o^)

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.103

福岡さんが頑張っています。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.104

皆さん頑張っています。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.105

豊澤さんのパワーで、岩がグングン崩されていきます。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.106

豊澤さん、田中さん親子が頑張っています。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.107

福岡さんが頑張っています。少し出ているようですね。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.108

まだゴミと格闘していますね。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.109

福岡さんの場所から出た小銃弾と御遺骨です。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.110

これまでに発見された遺品です。未使用の小銃弾が多いのに驚いています。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.111

小銃弾が多いですね~。未使用の弾が多いです。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.112

右はお馴染みのクレオソート丸の瓶です。この瓶は結構な確率で発見されますね。左側の瓶も医薬品に属する瓶なのでしょうか。こちらの瓶は始めて見るかもしれません。珍しい形をしています。

クレオソート丸は、現在でも正露丸(征露丸商標もあります)として販売されていますね。その成分のクレオソートは明治36年(1903年)に陸軍軍医学校の教官が偶然発見したもので、主にブナ属の植物からタールを蒸留して抽出した油状の成分だそうです。陸軍では本来脚気の予防を期待して軍隊薬として将兵に配布したものでした。日露戦争での陸軍の脚気死亡者は何と二万七千人に上り対策が急がれていました。脚気は当時死に至る怖い病気でした。

脚気は今でこそビタミンB1不足から発症する事が解っていますが、当時はまだビタミンという概念が無い時代でしたから、菌による病気だと推測されていました。クレオソート丸を飲ませていた被験者の便から、各種の菌が検出されなかった事から、脚気菌も死滅しているに違いないとされて、戦役中に大量配布されたものです。

脚気菌はそもそも存在しませんが、クレオソート丸服用によるチフスや赤痢に対する効果、浄水されていない水を飲んでの水あたりや、消化器系伝染病の予防等に効果がある事が明らかとなり、陸軍では日露戦争から多用されました。明治39年(1906年)装備品としての配給を廃止したとの事ですから、こうして発見されるクレオソート丸の瓶は私物か、もしくは衛生隊が大量に在庫していたという事でしょうかね。いずれにしてもクレオソート丸の瓶の発見頻度は凄く高いです。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.113

田中さん親子です。朝から凄くエネルギッシュに活動しています。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.114

バケツリレーならぬ、フルイリレーで効率よく遺品の発見に努めています。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.115

役割を交代しながら作業すると疲労も少なく済みますね。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.116

作業終了時刻が近づいてきました。動く動作も速くなっています。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.117

豊澤さんも掘り進めましたね~。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.118

作業終了です。現時点での発見された遺品の数々です。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.119

現時点での発見された御遺骨です。若干動物の骨も入っていますが検証・精査は後日にします。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.120

急斜面を登っていきます。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.121

実は田中さん親子は本日が最終日でした。三日間本当にお疲れ様でした。(^o^)
帰り際に「沖縄陸軍病院之塔」と「轟壕」に立ち寄る事になりました。吉井さんの話では慰霊塔を訪ねるのは、田中さんの娘さんが希望されたそうで、それを聞いた私も感動しました。お若いのに‥。遺骨収集奉仕活動に参加するだけでも驚きなのに、戦没者を慰霊したいが為に最後の時間を利用して慰霊塔などに立ち寄りたいなんて、本当に頭が下がる思いで胸が熱くなります。戦跡に詳しい吉井さんも心から感心したみたいで、張り切ってご案内するとやる気満々です。(^o^)

「沖縄陸軍病院之塔」

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.122

「沖縄陸軍病院之塔」です。昭和39年「沖縄陸軍病院戦没職員の碑」として建立され、平成6年「沖縄陸軍病院之塔」として再建されました。病院長広沢文吉軍医少将ほか軍人、軍属、医師、薬剤師、看護婦等43名が祀られています。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.123

調査・遺骨収集作業を終えた私達も手を合わせ、戦没者の鎮魂を祈りました。m(_ _)m

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.124

「山城の本部壕」と呼ばれる壕です。田中さんの娘さんは、当然の事ながら初めて入る壕です。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.125

壕口があまりに大きいので解りにくいですが、すでに壕に入っています。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.126

皆さんが立ち止まり、吉井さんがお話をしている様です。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.127

比較的急坂を降りて平坦になった場所で、吉井さんが、自身が立っている背後に砲弾が炸裂し、この辺りにあった炊事場付近で死傷者が出たという話されています。

《過去の写真ご紹介》

2017年1月26日/遺骨収集の様子no.20

この写真は米軍迫撃砲弾が落下した際に、負傷したり死亡した方々の場所を明示した見取り図です。吉井さんは4番の近くに立っているはずです。

見取り図の出典は「閃光の中で 沖縄陸軍病院の証言」長田紀春・具志八重編/ニライ社 によるものと思われます。見取り図はギリギリ見えますね。9番が迫撃砲弾着弾点です。左側2番の所で、橋本伍長、兵一名即死、宮原軍曹重傷。4番の所で、中林伍長即死、軍属炊事婦二名即死。5番の所で、院長負傷。と書かれています。着弾点は壕の天井の無い窪地部分でしたので、遮る物がなく広範囲に砲弾破片が飛び直撃したと思われます。

《書籍ご紹介》

「閃光の中で」 沖縄陸軍病院の証言

長田紀春/具志八重編 ニライ社 平成4年(1992年)初版

同著の中に、6月18日午後7時頃にあった直撃弾による将兵の死傷の様子が描写されています。廣池病院長もこの直撃弾により死亡されました。一部転載しご紹介します。

(51頁)
その時である。轟然たる爆発音と同時に閃光がひらめき、砲弾が壕内入口の広場の隅に落下し炸裂したのである。

そこは炊事をしていた場所であり、付近にいた兵隊や炊事婦が、この直撃弾で一瞬にして死亡された。中林伍長、炊事婦三名の方が即死し、近くにいた橋本伍長も戦死、宮原軍曹も重傷を受けて戦死された。

病院長は着弾地点より少し離れて立っておられましたが、右足を破片で負傷して倒れられた。直ちに創傷の応急手当を受け、奥の病床に運ばれて看護を受けられたが、傷の状態は急速に悪化し、浮腫が進行していった。

全身状態も良くない。佐藤少佐、西平中尉は容態を見守りながら、爆傷からの瓦斯壊疽と診断し、この上は大腿部からの切断手術以外に方法はないと判断した。

手術は受傷後五~六時間たった夜中に、急造の板床の上で両軍医の執刀で行われた。しかし翌十九日になると容態は更に悪化し意識混濁が続いた。

「進め、進め」等と頻りにうわごとを言われたが、午後になって力尽き、遂に息を引き取られたのである。同夕刻、僧侶出身である伊藤上等兵が読経を上げられた後、壕より北へ三十メートルのところにある岩の近くに丁重に埋葬された。

「閃光の中で 沖縄陸軍病院の証言」長田紀春・具志八重編/ニライ社から転載させて頂きました

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.128

壕は結構広いですし、奥深い事が見て取れますね。爆撃で崩落するような壕ではありませんが、如何せん壕口が広すぎるのが難点でした。実際に開口部に迫撃砲弾が着弾して、6人ぐらいの将兵が死傷したとされています。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.129

先頭に立つ吉井さんの、その奥に進むと湧水地がありますので、ここでは飲料するには困りませんでした。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.130

壕の一番奥にある湧水地に到着しました。近年は虎ロープが張られ立ち入り禁止の場所となっています。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.131

説明をされている吉井さんと、聞き入る皆さんです。この池は沖縄戦当時は川のように流れがあったという話です。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.132

吉井さんが話し終え帰路につきました。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.133

ご覧のように、開口部はがま口のように大きいです。開口部分に大きな木が横たわっていますが、これは当時無かったとみて間違いないですね。この木を視界から消すと壕口は更に大きく見えます。

「轟の壕」

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.134

続いて轟の壕にやって参りました。車を止め砂利道を歩いて行きます。あと少しで壕口に到着します。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.135

さあここから降りていきます。この開口部も壕口と言えば壕口ですね。一回目の壕口というべきかもです。ここが摺鉢状の周縁だとすると、二回目の壕口は摺鉢の底の部分にあります。とても小さい壕口です。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.136

茶色い根のような物がぶら下がっていますが、気根ですね。茎や幹から空中に出ている根を気根と呼ぶそうです。ガジュマルが木根を活発に出すのが知られていますね。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.137

階段斜面の中間地点ぐらいの所まで降りて参りました。拝所がありますね。平和ガイドの方々は、轟壕を地下三階の建物に例えているようです。今私達が到達した場所が地下一階と呼ぶそうです。人がやっと通れる坑道口の右手が地下二階、そして川が流れている低地が地下三階だそうです。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.138

ここに拝所がありますので、そこで私達も手を合わせ戦没者の鎮魂を祈りました。m(_ _)m

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.139

いつも気になる碑ですが、ちょっと意味が解りません。(^^;)

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.140

摺鉢の底に到達しました。ここが第二の壕口と言えるかもです。壕口はビックリするぐらい小さかったのですが、近年だと思いますが、開口部直径が少し広げられましたね。恐らく修学旅行生が通行しやすいように広げたものと思われます。実際昔は着ている服が壁面に接触して汚れてしまうのではないかと心配するぐらい狭かったです。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.141

最初は結構な急勾配です。滑らない様に気をつけましょう。黒い管は農家の給水パイプです。轟壕は川が流れていますからね。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.142

あと少しで壕底に到着です。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.143

轟壕の壕底に到着しました。ここ轟壕は地元の方々はカーブヤーガマと呼ぶそうです。カーブヤーとはコウモリの事で、昔はこの壕内にコウモリが沢山生息していたそうです。川が流れている場所ですね。吉井さんはすでに川下の先に行っているので先へ進みましょう。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.144

壕底に降りてから、少し川下に進むと拝所らしき場所があります。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.145

天井に注目です。つららと呼んで正解なのか解りませんが、一杯垂れ下がっていますね。左側のつららは折られているのが見えます。沖縄戦当時怪我をしないように欠いたのだと思います。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.146

轟壕でも色んな出来事がありました。吉井さんは、避難民が数百人避難していましたが、6月上旬。島田知事や荒井警察部長、仲宗根官房長等県政首脳がこの壕に到着した事、そして壕内で県庁の解散式を行った事。6月15日の夜、島田知事は摩文仁の司令部壕に向かい出発した等の事を話されていました。また兵隊が入り口から民間人が出入り出来ないように規制したために、餓死者が出る事態になったそうで、宮城さんという方が兵隊を説得し、かつ米軍とも交渉して壕内に居た避難民を救ったという話もされていました。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.147

轟壕の見学を終えました。壕口に向かっています。

平成31年(2019年)1月24日/沖縄遺骨収集の様子no.148

作業した後なのでお疲れと思いますが、二カ所の慰霊巡拝お疲れ様でした。田中さんの娘さんにとっても、印象深い平和学習となった事でしょう。沖縄の南部戦跡での、広い視野を育む遺骨収集奉仕活動の体験や、壕に入っての往事の人々が抱いたであろう苦難に思いを馳せる体験を通じて、彼女の未来における人としてのあるべき姿に反映される事を信じていますよ。(^o^)

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