平成31年(2019年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月21日(月) 慰霊巡拝

今日の天気予報は曇りです。雨の心配はなさそうで安堵しています。今日も頑張ります。と言いつつ今日も非公開による調査・遺骨収集奉仕活動です。恐縮ですが作業後の慰霊巡拝を掲載させて頂きました。場所は浦添大公園です。それではご一緒に慰霊巡拝しましょう。(^o^)

「浦添大公園」

平成31年(2019年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.1

缶詰壕の案内板がありました。350m先にあるようです。今からカンパン壕と缶詰壕の見学を予定しています。それではご一緒に見学しましょう。(^o^)

「カンパン壕」

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まずはカンパン壕です。カンパン壕口はご覧のように冠水しています。雨の少ないこの1月でこれだけ水があるという事は、年間を通して壕口は水没しているのかもしれませんね。私達が歩いている遊歩道が設けられた事により、雨水の逃げ場が遮断されてしまったのかもです。と言いますのも、沖縄戦当時のカンパン壕の壕口が写された写真がありますが、それを見ると壕口は緩斜面の中途にあるように見え、壕口が雨水が貯まるような構造には見えません。

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カンパン壕の解説板です。問題なく読めますね。

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カンパン壕口の右側40mぐらいの所を撮影しています。別の壕口があると解説板には書いてありますが、ご覧のように繁る木々で壕口は見えないですね。多分この中にあるのでしょうね。

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カンパン壕の近くに缶詰壕があるとの事で、カンパン壕見学の後、更に遊歩道に沿って東に進みました。この遊歩道は前田高地の山裾に沿うように設けられています。因みにあちこちに「ハブに注意⚠」という看板があります。先日の見学でも、浦添城跡方面からワカリジーを見に行こうとしたら、かつて通行可能だった狭い山道が通行止めになっていましたが、山道であるが故に、ここの遊歩道よりも更にハブの出没頻度は高いので通行止めにしたのでしょう。この時期は、特にハブの事は気にしませんが、冬以外の時節はそうはいきませんね。(^_^;

「山川ガー」

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遊歩道山側に「山川ガー」という名の湧水地がありました。前田高地南側緩斜面には、こうした湧水地が複数箇所あるようです。山川ガーの背後の斜面は前田高地の斜面という事になりますが、良く見ると段々畑が少しありますね。野菜が育てられているようです。この湧水地は、昔はこの井戸の南側にある前田集落の飲用水として長く利用されていたようです。上水道が完備された現代では、畑の散水などに使用されている程度となっているとの事です。この山川ガーはカンパン壕や缶詰壕の直ぐ横にある為に、前田高地に陣取る守備軍の喉を大いに潤したと思われますが、前田・仲間高地争奪戦当時は、狙撃されるためこの湧水地には全く近づけず、将兵は壕内の岩から垂れ落ちる滴を口にするなどして、喉の渇きを癒やしたという話です。

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遊歩道から20mぐらい奥まった山裾に壕口があったので近づいてみました。特に解説板とかはないですね。ご覧のように金網で塞がれています。

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金網越しに壕内を観察する松永さんと豊澤さんです。

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壕出入り口付近は結構広そうですね。壕口はご覧のように土砂で半分以上塞がれています。この土砂は沖縄戦当時は無くて、戦後堆積した土の印象です。公園を整備する為に、ここに盛り土をする理由は見当たりません。と言うことで、土質、土の勾配、踏みつけられた形跡の皆無等から考慮してそう感じますし、上の写真を見てください。松永さん、豊澤さんが立っている辺りを見るとお解り頂けますが、この辺りの地表面は土で出来ています。戦後七十余年の歳月のうち、台風などの荒天で斜面上部から雨水と共に土砂も流れ落ちたと考えられます。この戦後の堆積土が無ければ、壕底面はもっともっと前の方にあったと推測されます。

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金網の中にカメラを入れて撮影しました。壕内はかなり広いですね。前田高地斜面から流れ落ちる土砂混じりの雨水により、内部はかなりかさ上げされたような印象があります。壕口は戦後の堆積した土砂で埋められたと強く語りましたが、ご覧のように壕の内部は平坦で幅が広いので、単なる食料壕というのではなく、反射面陣地としてこの壕口にも重砲や迫撃砲等の武器がすぐに運び出されるようになっていたのではないかと推測しています。

「缶詰壕」

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缶詰壕の壕口です。

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缶詰壕の説明板を見つめる松永さんです。壕口が埋もれているせいもありますが、壕口はかなり小さく見えますね。

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缶詰壕の解説板です。問題なく読めますね。ただこの図面はおかしい点が多いですね。缶詰壕の実際に掘られている方向と図面を一致させると、一番左の壕口は前田高地の山の中の土中深くで終わっている事になってしまいます。そもそも配置された壕口が丸い円形の中に収まってしまうという点で、この位置関係はあり得ないので、やはり壕口の配置は要調整です。前田高地南緩斜面の山裾は凄く長いので、壕口はもっと平行に並んでいるはずですからね。ただ右側二つの壕口は、この壕の裏山にワカリジー(為朝岩)がある事からして、前田高地が終わる場所、つまり斜面が終わりで斜面がワカリジー方面に廻り込んでいますから、円形の中に収まるよう回り込んで表示されているのは適切な表現だと感じました。

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壕口の様子です。この壕口も土砂でかなり塞がれています。こちらも先ほど見学した壕口と同じように、戦後堆積した土の印象を受けますね。解説板では、敵の侵入を防ぐために壕口に岩を積み重ねたと記述されていますから、そうであるなら、余計に土砂で埋もれてしまったという事でしょうか。

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金網の中にカメラを入れて撮影しました。壕内はかなり広いですね。同じく前田高地斜面から流れ落ちる土砂混じりの雨水により、内部はかなりかさ上げされたような印象があります。壕壁面は火炎放射攻撃を受けたような焦げたような雰囲気もありますね。ただ島尻方面でこれまで見てきたような、壕壁面が火炎放射攻撃真っ黒になっているという事は無いので、それが不思議ですね。そうした徹底した火炎放射攻撃が無かったから、すでにご紹介した、「私の沖縄戦記 前田高地・六十年目の証言」を出版された著者である外間守善氏を始め、多くの将兵がこのカンパン壕や缶詰壕に身を隠していたそうですが、生還できた理由なのかもしれません。実際に外間守善氏の著作でも、壕口から米軍の爆雷や手榴弾が激しく投げ込まれ壕内は生き地獄だった‥。という記述は何度か登場しますが、火炎放射攻撃を受けたという記述はたった一度しかありません。前田高地南緩斜面は火炎放射戦車も自在に動き回れるにも関わらずです。

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予定したカンパン壕と缶詰壕の見学を終えたので方向転換し、私達は浦添城跡方面に向かいました。帰り際、緋寒桜が咲いているのが目に入りました。この緋寒桜、沖縄では国頭村や本部半島など島の北部から南部に向けて開花が進むのですよね。実に不思議な現象です。

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鮮やかですね。細い葉に赤のラインが美しいコルディリネ レッドエッジかもしれません。帰路につく私達に「また来てね」と手を振っているように見えなくもないですね。(^_^;
すでに新葉が展開しています。実際に沖縄では1月や2月が芽吹きの時節と言えるかもです。関東で言えば4月や5月頃の風景かもしれませんね。

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これは何かと言いますと、「ハブ撃退装置」ですね。前田高地ジャングル帯からこちら側の敷地にハブが入らないように作られています。金網は高さ60cmぐらいでしょうか。ステンレスと思われる目の細かい金網が張り巡らされていました。これなら赤ちゃんハブも編み目から入れないかもです。金網上部に注目です。網が折られてL字型になっているのが見えますよね。

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こちらの写真の方が解りやすいかもしれません。L字型になっている事により、ハブは金網を超える事は出来ないように見えます。但し写真奥の方は、蔓植物が金網に絡みついています。蔓植物にとっては最高の環境ではないでしょうか。こうした蔓植物が繁茂するようならハブも容易に金網を超えられるかもしれません。という事で、ハブ撃退装置の維持・管理もまた大切かもしれませんね。

「浦添大公園南エントランス管理事務所」

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カンパン壕や缶詰壕の見学を終え、私達は浦添大公園南エントランス管理事務所に立ち寄りました。玄関入り口にはハクソー・リッジの映画ポスターが貼られていました。ここで見学したりとしばし情報収集しました。浦添大公園南エントランス管理事務所の施設情報に寄りますと、「浦添グスクをパネルや模型などで紹介している展示コーナーがあり、浦添グスクの南側入口の県営公園の施設内の多目的室にある。グスクとは御城のことで、浦添城は、12世紀初頭、浦添一帯を統治していた舜天王の居城となったことから始まる。その後、舜天王統・英祖王統・察度王統と200余年、受け継がれた。浦添大公園は、多くの自然林が残る丘陵を利用した総合公園で、Aゾーンは、県文化財指定を受けた浦添ようどれと浦添グスクがある「歴史学習ゾーン」、Bゾーンには広場・遊歩道と遊具、Cゾーンには当山の石畳道や干支橋がある」とありました。

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「浦添大公園施設案内図」です。大の字が加えられている通り、東西に細長い広大な面積を有する公園である事が解りますね。そして崖を挟んで崖上と崖下の一定範囲が公園となっているのが見て取れます。私達が居る現在地も把握できます。

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私達が居る前田高地の公園のみフォーカスして見ました。後赤い線が引かれて、「前田高地平和之碑」辺りから立ち入り禁止区域になっているのが見えますね。恐らくハブが出るという事で立ち入り禁止区域になったのだと思います。

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その他色々掲示物がありました。

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緩やかな坂道を登っていきます。

「石畳道」

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「石畳道」です。登り終えて撮影しました。普通に滑らない様に石を敷き並べたという印象ですが、1597年尚寧王が整備したという、浦添城と首里とを結ぶ由緒ある石畳道です。沖縄戦でかなり破壊されてしまったようですが、一部往事の発掘された石畳道を基準にして復元完成させたとの事です。また遠望すると新都心のおもろまちにある、ツインタワーとして知られるマンションのリュークスタワー東西棟が見えます。嘉数高台公園で見た時よりもぐっと近づきましたね。

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石畳道の解説板です。問題なく読めますね。

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金網が見えますね。壕口があるようです。この辺りは前田高地南側の緩斜面ですから、至る所に壕があると思われます。

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ボランティアガイドの皆さんが、「この窪地にも壕口があるんですよ」と語っていました。と言われてみれば、壕口が複数ありそうな雰囲気ですよね。話は逸れますが、前出の「私の沖縄戦記 前田高地・六十年目の証言」を出版した外間守善氏によると、前田高地南側の緩斜面の窪地に志村大隊の大隊本部壕があったと記述されています。写真に写されている場所も窪地と言えばそんな雰囲気ですよね。著作では大隊本部壕を特定するような記述は窪地以外無いので解らないのですが、いつの日か大隊本部壕を探し当てたいと考えていますが、同著書によると「本部壕は攻撃を受けて徹底的に爆雷で破壊されて使用不能になってしまった」と書かれていますから、見つかるかどうか‥。

また同著「私の沖縄戦記 前田高地・六十年目の証言」によれば、「その日一日で、摺鉢状の窪地にあった監視哨壕は影も形もなくなってしまい、壕のいくつかはすっかり埋まって、前田高地そのものが変わり果ててしまった」、また「米軍は前田高地のあらゆる洞窟や壕を爆破し、閉塞していった」と述べている事から、ここ前田高地には、未だ埋没して調査されてない壕があるのかも知れません。歴史ある地だけに慎重でなければなりませんが、気になるところです。(^^;)

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坂道を登っているので目線が少しずつ高くなっています。私達が立っている地点から南南東方向を見ていますが、写真中央に緑豊かな場所が見えています。また赤い瓦屋根の横長で大きな建物が二棟、少しズレていますが見えていますね。JICA沖縄国際センターです。同センターの背後及び左側は高台となっていまして、沖縄戦当時は130高地と呼ばれた場所です。130高地の左側500m先には114高地があるという配置です。また130高地の向こう側斜面を降りて直ぐに宜野湾街道(現在の国道241号線)が、普天間と首里を一本道で繋がっています。更にその向こうは幸地と言う要衝となっています。

第二次防衛線に位置する前田高地から幸地の間を走る宜野湾街道に米軍が侵入したら首里まで一直線ですから、米軍側からみても戦車攻撃しやすく、防衛線が決壊しやすい地でしたが、日本軍は良く耐え戦いました。そうした事もありこの地一帯は、両側の高地では激戦に次ぐ激戦が展開され、正に沖縄決戦の天王山となった場所でした。

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上掲写真に写されているJICA沖縄国際センターより少し左手にある浦添市立前田小学校をアップで捉えました。学校の裏手が崖になっていて、学校の校庭から屋根よりも高い所までの高さがありますから、結構な急斜面となっています。学校校舎の少し右側当たりが、130高地と呼ばれる高台でしたから、その急斜面に幾つか迫撃砲隊などの構築陣地が設けられており、恐らく棚原や嘉数高地の戦いでは砲支援を、また前田高地の戦いでは同高地と連携しながら、米軍に砲撃を浴びせたものと思われます。

4月30日から始まった145高地の奪回作戦では、130高地付近に歩兵第三十二聯隊第三大隊が配置につき、左翼に306聯隊第一大隊が、右翼に歩兵89聯隊第二大隊が、幸地の右側にある146高地目掛けて突入していった地でもあります。また5月3日から準備が開始され翌4日からの全軍上げての反転攻勢では、130高地の向こう側を通って歩兵第三十二聯隊第一大隊(伊藤大隊)が、綿密な偵察や米軍による阻止弾幕を逆利用しながら前線を浸透させ、目標地点である棚原まで奪回するという戦果を上げたのはご承知の通りです。

《書籍ご紹介》

「沖縄戦 二十四歳の大隊長」 陸軍大尉伊藤孝一の戦い

笹 幸恵著 (株)学研パブリッシング 平成27年(2015年)初版

伊東元陸軍大尉ご自身の著書をぜひ読ませて頂きたいと念じていますが非売品という事で断念。また笹 幸恵氏の著書という事で迷わず購入。しかしながら予想通り、戦記物にしては文体が優しく、戦場の息を呑むような臨場感が伝わってこないのが残念です。それはともかく、「二十四歳の大隊長」というタイトルにも惹かれました。大隊長と言えば平時は少佐ですが、大東亜戦争末期は将校の任官が追いつかずこうした事態になったのでしょうか。いずれにしても、この若さで800名の将兵の命を預かる‥。その重圧たるや想像するのも難しいですね。

歩兵第三十二聯隊第一大隊は、沖縄戦関連では必ず同隊の戦いぶりが出てきますが、更に驚くのは伊東孝一陸軍大尉は、実戦は沖縄戦が初めてと言うのにも驚きました。世に机上の空論という言葉がありますが、伊藤大尉は予科士官学校を卒業して歩兵第三十二聯隊に入隊して以降、研究熱心という性格も手伝って、徹底して戦略や戦術を研究したという経緯があります。世界史を紐解き有名な戦争を分析し続けたのです。そうした机上ではありますが、実地を想定する真剣な学びが、沖縄戦と言う実戦の場で当意即妙に生きたと言う事でしょう。

平成31年(2019年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.31

坂道を登り終え、前田高地の稜線が見えて参りました。写真右側には、解りにくいのですが「浦添城の前の碑」が見えてきました。

「構築壕見学」

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ここが壕口です。中をご覧になると解りますが、ここは自然壕ではなく構築壕です。それではご一緒に中に入ってみましょう。

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壕に入ってすぐの様子です。一人の人間が伏せてやっと通れるぐらいの狭い通路になっています。この部分は監視の為の口であると思われる事から、露見を恐れこの出入り口から小銃や機関銃での攻撃はしなかったと思われます。であるが故になるたけ狭い方が好都合であったと推測されます。砲弾が直接的に中に入らないよう、入り口は少し曲がっていますね。

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中から見た壕口の様子です。天井面が若干の煤で黒くなっていますが、火炎放射攻撃を受けたような形跡はないですね。

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壕口から少し入った所から四方に坑道は伸びており、こちらは右側の坑道です。かなり狭い坑道ですね。後で奥に行ってみましょう。

平成31年(2019年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.36

やがて立って歩けるぐらいの空間になってきました。

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壕壁面の様子を見る松永さんです。壁を見ると所々凹んでいますが、柱を立てて補強した跡ですね。

平成31年(2019年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.38

壕に入ってから、左に折れると更に大きな空間を持つ場所に出ました。豊澤さん吉井さんと天井の高さを見て頂くと、高さがかなりあるのが見て取れますね。立派な構築壕です。因みに第三十二聯隊第二大隊の本部壕は、米軍による爆雷攻撃で破壊され使用不能になったと、外間守善氏の著書に書かれているとすでに書きましたので、この壕はご覧のように、しっかりと沖縄戦当時のまま維持されていますから、本部壕ではないようです。

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地面を見ますと、それ程大きくはない岩がゴロゴロ転がっていますね。米軍による艦砲砲撃により崩れ落ちたのでしょうかね。前田高地の陣地構築は沖縄戦が始まる前ですから、地面も歩きやすいように、武器や砲弾を置きやすいように、現状よりもキチンと地面を均して整地したと思いますね。

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ここは行き止まりのようです。

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更に曲がって行き止まりとなり、ここが最奥部という事になりそうです。吉井さん豊澤さんが色々と話をしています。

平成31年(2019年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.42

やはり行き止まりは、落盤ではなくここで坑道の構築を止めたみたいですね。

平成31年(2019年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.43

補強柱があった場所を写しています。通路を広く取るために、柱部分は壁に埋め込んだのですね。手間は掛かりますが、柱は両眼に設けねばならず、この方が約40cmぐらいは通路を広くとれますね。そうした細かい加工が可能なように、ここ前田高地の地下は、摩文仁のようなガチガチの石灰岩ではなく、結構崩しやすい岩盤であるという印象です。だからこそ一見強そうに見える岩盤にも関わらず、しっかり補強柱・梁が連続して組み込まれているのだと思います。山の中に向けて深く構築する陣地は、一般的には爆撃に脆弱な出入り口付近のみ補強柱・補強梁で強化するのが一般的ですからね。

平成31年(2019年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.44

ここは例えばろうそくとか、灯油ランプとかを置いたのでしょうかね。上側が煤けているので間違いないと思います。

平成31年(2019年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.45

陣地構築時のドリルの穴が空いています。機械的なドリルを用いれば、面白いほどガンガン崩せたと思いますが、問題は残土ですよね。土ではなく砕いた岩という事になるでしょうけど、岩盤は砕くと堆積がぐっと増えますよね。おまけに搬出する岩盤を、壕口の外に捨てるというような事はしません。敵にここに構築壕がありますよと教えるようなものですからね。という事で、搬出された岩盤は、陣地の近くに偽装して捨てたと思われます。このような残土を外に運び出して偽装しながら捨てるという一連の作業が、大変な労力となったと思います。改めて築城隊の皆さんのご苦労を、構築壕に入って改めて感ずる次第です。

平成31年(2019年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.46

ここも通路になっています。幾つか分岐しており、作りかけの坑道も見受けられます。

平成31年(2019年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.47

福岡さんは、やはり探し出しましたよ。(笑)
地面に金属探知機を当てるとピーピー鳴りますね。金属的な遺品が相当埋もれているという印象です。

平成31年(2019年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.48

直ぐに発見しました。三八歩兵銃の銃弾ですね。

平成31年(2019年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.49

と言うことで、皆で掘り出しました。(笑)

平成31年(2019年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.50

金属探知機をかざして遺品を探す福岡さんと豊澤さんです。

平成31年(2019年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.51

ご覧のように、金属的な遺留品が出てきますね。

平成31年(2019年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.52

キャー! ハブの皮がありました。ハブはこんな所で脱皮するのでしょうか~。(^_^;

平成31年(2019年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.53

更に前進するとやはり別の開口部がありました。こちらも直撃弾を避けるため、入り口が少し湾曲しています。

平成31年(2019年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.54

壕口の様子です。人が一人出入りできるという大きさですね。

平成31年(2019年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.55

壕の外の様子です。外の目標地点を幾つか把握し撮影しましたが、ここではパスです。この壕口は前田集落側にあります。斜面の勾配はご覧のように比較的急傾斜です。壕口内部壁面が綺麗なのも、火炎放射戦車等がここまで上がって来られないという事かもしれません。

平成31年(2019年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.56

坑道に戻りますと、福岡さんらが熱心に遺留品を探しています。

平成31年(2019年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.57

ピーピー鳴っています。

平成31年(2019年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.58

少し変形していますが、坑木の柱と梁を固定する金物でしょうかね。

平成31年(2019年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.59

それにしても、地面には小石がゴロゴロと散らばっています。艦砲砲撃時の振動などで崩れ落ちたのでしょうか?

平成31年(2019年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.60

この部分だけ煤で黒くなっています。部分的ですから、ここで火をたいて調理したという事も無きにしも非ずですね。

平成31年(2019年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.61

壕に入って最初の分岐点を右に進むと、今撮影している場所に来ます。こちらは行き止まりとなっていました。まだ掘り進める予定だったと言うような雰囲気ではあります。

平成31年(2019年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.62

最初に入った壕口です。出入り口の地面を掘った形跡がありますね。こちらの壕口も、火炎放射攻撃でやられたという状況ではないですね。

この構築壕で発見した遺品等は、全て壕内壁際の足で踏みつける事のない場所に置いてきました。

平成31年(2019年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.63

別の壕に入ります。すでに写真には壕口が写されています。左手に更に大きな出入り口があるので、そちらから入る予定です。この壕は公園で知り合ったボランティアガイドの皆さんが教えて下さいました。公園内のごく普通の緩斜面にありましたから、ここはどなたでも見学が可能と思われます。

平成31年(2019年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.64

ここが出入り口のようです。開口部は横長で大きいですね。壕に入るのは初めてていう方も、きっと怖くないと感じるはずです。中に入って解ったのですが、開口部に柵などされず自由に出入り出来るようになっているのは、壕が深くないので酸欠事故とかの恐れがないから見学自由にしているという印象を受けました。それではご一緒に中に入ってみましょう。

平成31年(2019年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.65

中は結構広いです。ただ奥行きがあまり深くないので、入り口から攻撃されたら脆いですね。

平成31年(2019年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.66

軍靴の一部が散乱しています。御遺骨も見えますね。御遺骨については白く油が抜けた印象ですし、手に持って観察はして見ましたが、場所柄古墓があってもおかしくない場所柄なので、元の場所に戻しておきました。

平成31年(2019年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.67

この丸っこい骨は飴色をしている事から、沖縄戦没者の御遺骨ですね。膝の膝蓋骨かもしれません。右側端部が膝蓋骨底です。前歯も三本あります。もう一つ骨がありますが、特徴がなくて、こちらは部位特定はちょっと無理ですね。

平成31年(2019年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.68

松永さんと豊澤さんが居る更に奥に、まだ狭いながらも空間があるようです。この辺りも良く観察すると細かな遺留品が散在しています。

平成31年(2019年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.69

松永さんと豊澤さんが、激戦が展開された前田高地の、この小さな壕内で亡くなられた将兵の様子などを、色々と想像し話し合われていました。壕を含めたこうした元戦場の只中にあって、膝を交えての静かな会話は、聞いていて「なるほどな~」と感嘆する事もしばしばです。

壕に入って只見て、それで終わりというのではなく、入って感じた事を皆さんが率直に吐露する‥。これは悲しくも戦場に果てた、悲嘆の戦没者に寄り添うと言う意味で、とても大切なプロセスです。

この陣地壕はその昔古墓であったと考えられ、発見した遺骨・遺品等は全て同じ場所に置いてきました。

平成31年(2019年)1月21日/沖縄遺骨収集の様子no.70

あちこち見学して無事に浦添大公園南エントランス管理事務所に戻って参りました。朝からの遺骨調査・収集作業を終えてからの見学だったので、老体には若干きつかったですが、いつの日か前田高地をメンバー全員で慰霊巡拝したいと願っていました。そして本日遂に実現の運びとなったのです。私達は、激戦の地であった嘉数高地に続いて、手榴弾を投げ合ったり銃剣で差し違えたりと激烈な肉弾接近戦が展開された、ここ前田高地で非業の死を遂げられた日本軍将兵及び米軍将兵の鎮魂を祈って参りました。

右から地元のいつもいつも大変にお世話になっている松永さんです。いつもありがとうございます。そして豊澤さん、福岡さん、吉井さんです。田中さん親子が居られないのが唯一残念なのですが、「多くを語らずとも、志を同じくする者が集い、共に汗を流す…」事の素晴らしさをサイト管理人は何時の時も認識しております。ペコリ。

誘い合ったわけでもないのに、ごく自然に集った私達はきっと不思議な縁で結ばれているのだと思います。そうした目に見えない尊い絆に思いを馳せる時、沸きあがる感恩の念に胸が一杯になる次第です。これは私達が鎮魂を願う沖縄戦戦没者側の目線にたっても、きっと同じ思いに至っているに違いありません。私達は不可能を可能とする能力を持ち合わせているのです。これからも戦没者遺骨収集情報センターのご指導を頂きながら、戦没者慰霊と鎮魂の志を共有しつつ、未だ南部戦跡一帯に眠るご遺骨発見に邁進して参りましょう。(^o^)

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