平成30年(2018年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月28日(日) 糸満市摩文仁で調査・遺骨収集

今日の天気予報は曇りのち雨です。降水確率午前20%午後が50%と上がります。最高気温は20度ですから雨が降らなければ作業しやすい気象状況です。今朝の慰霊巡拝は、「沖縄工業健児之塔」そして「平和の礎」「島守の塔」です。それではご一緒に慰霊巡拝しましょう。(^o^) 

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.1

平和祈念公園に到着しました。園内のエントランス広場から広い広い式典広場を見ています。沖縄戦終結の日とされる6月23日の慰霊祭は式典広場で執り行われます。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.2

県営平和祈念公園内にある「式典広場」を遠くに見ています。その名の通り、沖縄戦の組織的戦闘が終結した6月23日には、この式典広場で政府主催の沖縄全戦没者追悼式が挙行されます。式典広場の端部にある建造物は、平和之丘モニュメントです。沖縄戦当時、住民達が逃げ込んだガマを再現したという話です。また更に摩文仁之丘が遠望されます。沖縄守備軍第三十二軍は89高地と呼んでいました。牛島満司令官と長勇参謀長が指揮を執った司令部壕も丘の先端部にあります。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.3

エントランス広場から東側を見ています。白いお堂は「沖縄平和祈念堂」ですね。昭和53年(1978年)10月に竣工しました。建物の中には 高さ約12メートル,幅が約8メートルもある、人間の祈りの姿を象徴した座像、沖縄平和祈念像が鎮座しています。沖縄平和祈念像は、沖縄出身の芸術家山田真山画伯(1885~1977)が, 全戦没者の追悼と世界平和を希う沖縄県民の心を一身に担い、全生涯を捧げて制作されたとの事です。宗教や思想,政治や人種,あるいは国を超えて、すべての人が戦没者の慰霊と平和に力を合わせて行こうという事を、10本の指を合わせた合掌の形に表現されたそうです。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.4

多目的テラス広場です。公園東側は殺風景な風景が長く続きましたが、近年は急速に整備が進み、ご覧のような多目的広場や林間広場に生まれ変わりました。こんな朝早くから小学生らしき少年らがサッカーの練習に取り組んでいました。もしかしたら試合が開催されるかもという雰囲気でした。

「沖縄工業健児之塔」

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.5

「沖縄工業健児之塔」です。同塔は摩文仁平和祈念公園内の東側に位置する平和祈念資料館の東側に隣接してあります。海岸沿いの崖上にあり、背後に木々が茂っていますから海は見えないのですが、潮風と共に波音も聞こえてくる場所にあります。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.6

7本の柱は7人の武士を表し、柱横に連なりスクラムを組ませ協力を象徴していると言うモニュメントです。7本の柱にしっかりと守られていますね。ご覧のように塗装も新しくピカピカに塗られ、新装なった「沖縄工業健児之塔」の塔です。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.7

大東亜戦争中、沖縄、その他の地域で戦没した沖縄県立工業高等学校の同窓生、職員、生徒167名が祀られています。同校は、沖縄戦では、生徒97名が動員されました。生徒達は鉄血勤皇隊や通信隊を組織するなどして戦闘に参加し、88名が犠牲となりました。学徒隊の中では最も高い戦没率であったとされています。

軍の解散命令が出た後に、慰霊塔の背後にある壕内で学徒が自決したとされている事から、私も同塔背後を徹底的に調査したことがあります。その結果壕はありませんでした。あるのは亀裂です。深い所では10メートルぐいらはあるでしょうか。そんな亀裂が100メートルぐらい続いていました。亀裂の最終局面で一カ所壕がありましたが、その場所はこの「沖縄工業健児之塔」からかなり離れていますので、背後という事には当たらないと思います。調査の結果平成20年(2008年)ですが、頭骨も含めて一柱見つけることが出来ました。この「沖縄工業健児之塔」から40メートルぐらい離れた場所でした。遺品としてはかなりしっかりした鉄兜のみが見つかっています。学徒隊との関連を裏付ける遺品等は発見されませんでした。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.8

「沖縄県立工業健児鎮魂之塔」説明文です。

【沖縄県立工業健児鎮魂之塔】

太平洋戦争の末期、昭和一九年三月、大本営は沖縄守備隊第三十二軍を新設し、政府は五月二二日戦時教育令を公布。米軍機動部隊の沖縄攻略に備えて、飛行場、港湾等各種陣地構築に一般市民、各中等学校生、さらに小学生までも動員した。同年十二月、軍命により第五砲兵司令部(球九七〇〇部隊)が工業学校生徒に無線・有線・暗号等の特訓し、昭和二十年二月各部隊に配属。学校では鉄血勤皇隊を組織、米軍機動部隊の上陸に備える。同年三月二三日、米軍機動部隊艦載機による空爆で沖縄戦の火蓋が切られ、遂に昭和二十年四月一日米軍沖縄本島中部西海岸に上陸。水平線まで埋め尽くす艦艇による艦砲射撃等で日米両軍による国内で唯一住民を巻き込み山野が変貌する熾烈な地上戦が六月下旬の戦闘終結までの三ヶ月間続く。日本軍は米軍の圧倒的優勢の前になすすべもなくこの最南端一帯に撤退。学徒通信兵も当該地に転戦するが、同年六月十九日米軍に包囲され、その夜、敵陣に突入を決行。奮戦空しく散華。沖縄戦で、教頭、教職員、学徒隊では各中等学校中最も多くの義税者を出す悲惨なものとなった。この実情を後世に語り継ぐため、工業学徒通信隊最期の地に慰霊塔を建立する。

尚、この塔造形の意義は、背面に建つ七本の柱(健児)が一本の大貫によって、貫(団結)かれ、がっちりとスクラムを組んで碑身(平和)を護り、碑身上部の雲間には平和のシンボルの鳩三羽を飛ばす。又、教職員や学徒隊、そして通信隊員の名前を彫り込んだ名盤台天端の三つの変形菱形板には、それぞれ赤、黄、青の三原色を彩色し、その臍(へそ)を結び台上の三点で踏張って、この地上からあらゆる戦争をなくし、世界の永遠の平和を守ることを誓うとしている。

昭和三十七年十一月建立 
沖縄県立沖縄工業高等学校 
沖縄県立工業學校遺族会 
沖縄県立沖縄工業高等学校同窓会 

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.9

「沖縄県立工業健児鎮魂之塔」への慰霊巡拝を終え、摩文仁の丘に向けて移動を開始しました。沖縄県平和祈念資料館の横を通っています。正面に摩文仁の丘が見えてきました。摩文仁の丘は沖縄戦当時89高地と呼ばれていましたから、標高が89メートルあるという事になります。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.10

平和の広場という場所から、東側海岸線を遠望しています。海岸線の先端部を少し回り込んだ辺りに、多くの避難民が投身自決したとされる慶座絶壁(キーザバンタ)があります。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.11

平和の広場に立っています。写真中央にあるのが平和の火で、その奥に展開するのが平和の礎ですね。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.12

平和の礎の様子です。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.13

平和の礎の様子です。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.14

平和の礎の様子です。石碑の間に植栽されている樹木は、シクンシ科の「クワデーサー」(和名:モモタマナ、コバテイシ(枯葉手樹))の木ですね。同じ沖縄でも離島ではクバディサーと呼ぶ地域もあるそうです。沖縄では珍しく紅葉する落葉樹でもありますね。

死者の魂を鎮める木とも言われ、沖縄ではこの木を “人の悲しみや涙を飲んで育つ木” と言われていているそうです。松永さんも「人の泣き声を聞いて成長する」と仰っていました。

クワデーサーは、葉がおお大きいことから木陰を作るという事で、沖縄では古くから村落の集会所や墓地などに植えられています。ここ平和の礎にかくも多く植栽されているのは、陽射しの強い時節に参拝に訪れた方々へ日陰を提供するという意図を持った心遣いでしょうかね。(^o^)

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.15

新装成った日本庭園です。いや沖縄庭園と呼ぶべきなのでしょうか。時節が冬ですから残念ながら庭園もパッとしません。いずれにしましても、昨年は囲いを作って造園工事をしていましたから、一部植栽構図等を変えて新しく作り替えられた庭園です。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.16

庭園を過ぎた辺りで沖縄県平和祈念資料館方面を撮影してみました。

「島守の塔」

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.17

島田沖縄県知事と荒井沖縄県警察部長をはじめ戦没県職員468柱を祀る「島守の塔」の全景です。写真奥のジャングル内に軍医部壕があるわけですが、島田知事と荒井警察部長の消息は、軍医部壕を出た所で途絶えているために、ゆかりの軍医部壕前に慰霊塔を建てました。私達も遺骨収集にやってくると、国立戦没者墓苑への参拝と共に必ず立ち寄るのがこの『島守の塔』です。

「島守の塔」の名称は、県下の公募で寄せられた七百余通の中の一等入選作から命名されたといいます。 塔の除幕式と第一回慰霊祭は、昭和26年(1951)6月25日に行われました。島田知事夫人の美喜子氏をお迎えし、5000人近い沖縄県民も参列して式典は執り行われたそうです。

摩文仁には50を超える慰霊碑、慰霊塔が建立されていますが、その中でもいち早く県民の浄財により『島守の塔』は建立されました。 その事からしても、20万余人もの沖縄県民を県内外へ疎開させ、また県民の食料備蓄が三ヶ月しかなかったものを、台湾から三ヶ月分もの米の移入を実現するなどした、沖縄戦前後における島田知事、荒井警察部長、そして県職員への沖縄県民の感謝の気持ちが、『島守の塔』の早期建立を実現させたのかもしれません。そして両氏は、いわゆる内地出身であるにも関わらず、戦後から現在に至るも沖縄県民の敬慕を集めていると言えるでしょう。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.18

戦没した島田沖縄県知事、荒井警察部長、県庁職員468名を祀っている「島守の塔」です。

大阪府の内省部長の地位にあった島田氏は、内務省の命による第二十七代沖縄県知事就任について、この話を断ることもできる地位にいましたが、「俺が(沖縄へ)行かなんだら、誰かが行かなならんやないか。俺は死にとうないから、誰かに行って死ね、とはよう言わん」と、神戸弁で沖縄県知事就任を即決したといいます。文官は軍人と違って、殉職を予想しての任官はそうそうあるものでは無いはずですが、島田氏は沖縄の困難な時局を背負う覚悟で引き受けられたのだと思います。拳銃と青酸カリを懐中に忍ばせ、死を覚悟しての沖縄入りと思われます。昭和20年1月31日赴任、そして6月下旬に島田知事は消息不明となりました。知事在任期間およ五ヶ月…。予期された殉職のその日まで、多くの仕事を成し遂げた五ヶ月でもありました。

一方県外疎開などの県民保護に邁進した荒井警察部長は、在任ちょうど二年で殉職されました。荒井警察部長は立場上東京で開かれる全国警察部長会議に行く機会が何度かありましたが、会議より県民疎開の仕事が大事だと、結局就任以来沖縄本島から出ることはありませんでした。ご家族は郷里である栃木県に引き上げさせていましたから、上京の機会を利用すれば家族との面会もできたにも関わらずです。また荒井警察部長は、壕を転々とする頃から不衛生な壕生活などが原因と思われる、赤痢になってしまったようです。激しい下痢に悩まされ、壕内でも横になっている事が多かったといいます。

島田沖縄県知事が43歳、荒井警察部長が44歳で殉職されました。島田叡沖縄県知事、荒井退造警察部長のお二人は、沖縄の戦時体制下における沖縄県民の生命を守るべく、車の両輪のごとく共に力を合わせ献身的に、困難な状況下での60万県民の保護という戦時県政業務すなわち疎開政策と食糧不足対策に尽力されたのです。前任の知事時代は、色々と問題があり疎開業務がすスムーズに進まなかったようですが、特に二人が軍と協力して推し進めた沖縄県民の県内外疎開政策により、沖縄戦を生き延びた県民は二十万人にも達したのです。

島田知事は、6月9日米軍による島尻掃討戦が迫る中、「轟の壕」内で同行の県職員・警察官に対し、「どうか命を永らえて欲しい」と訓示し、県及び警察組織の解散を命じたのです。島田知事は、生きて生還しようとは考えておらず、解散を命じた以降、死に場所を求めて荒井警察部長と共に、摩文仁の第32軍司令部壕を訪ねたといいます。

島田知事は、沖縄守備軍第32軍牛島満司令官に、「行動を共にさせていただきたい」と頼みましたが、牛島司令官は「自決するのは我々だけでよろしい。知事は非戦闘員なのだから、死ぬ必要はない」と諭したと言われています。島田知事は牛島司令官が勧めた「軍医部の壕」に移動したと言います。

牛島軍司令官は6月23日に軍司令部壕で自決し、沖縄戦の組織的戦闘は収束しました。そうした中で、通説が幾つかありますが、島田沖縄県知事と荒井警察部長の二人は、所在が確認されている摩文仁之丘にあった「軍医部の壕」を25日か26日に出た後、その数日後荒井警察部長は、アメーバ赤痢が悪化して亡くなり、島田知事は摩文仁南斜面の自然壕でピストル自決したと見られています。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.19

歌碑です。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.20

歌碑です。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.21

歌碑です。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.22

「太平洋戦争沖縄県職員戦没者御芳名」です。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.23

霊域最上部には「沖縄県知事島田叡 沖縄県警察部長荒井退造 終焉の地」と書かれた塔が建立されています。沖縄戦当時、この附近に「機関銃の銃座」があったとされています。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.24

「沖縄県知事島田叡 沖縄県警察部長荒井退造 終焉の地」の塔の背面は、ご覧のような切り立ったV字谷になっています。このV字谷のどこかに島田知事と荒井警察部長のお二人が最後の時を過ごされた「軍医部の壕」があるはずです。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.25

V字谷の東側の様子です。奥まった所に壕があるにはありますが、谷に並行してある壕ですし、形状がまるで違いますので「軍医部の壕」ではありません。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.26

V字谷の西側を見ています。こちら側は壕と呼べそうな空間はありません。このV字谷も一見わかりにくいですが、慰霊祭に使用された物品が大量に捨てられていて遺骨収集をするというレベルではありません。まずゴミを片付けないことには、沖縄戦当時の地盤には絶対にたどり着けないでしょう。

私達は島田知事と荒井警察部長のお二人が最後の時を過ごされた「軍医部の壕」を見つける事が一つの目標となっています。未だ果たせてはいませんが、いつの日か必ず見つけたいと念じています。

『沖縄の島守』(田村洋三著/中央公論新社)によれば、「島守の塔」裏手にあるとされる「軍医部の壕」について次のような記述がありますので、転載させて頂きました。

【摩文仁之丘の軍医部壕内見取図】

摩文仁之丘の軍医部壕内見取図

さて、島田らを迎えたころの軍医部壕は、どんな様子だったか。大塚は著者の取材ノートに壕内の略図(挿図22)を書きながら、説明してくれた。

「あの辺には軍司令部のほか、経理部、獣医部、法務部などが、それぞれ壕を構えていましたが、軍医部の壕が一番狭く、お粗末でした。

雨が降りますと、やんでからも三時間はポトリ、ポトリと雨漏りがするので、奥の方はいつもジトジト濡れていました。
そんな所に軍医部長の篠田重直・軍医大佐以下36人が、すし詰め状態で入っていました。そこへ知事以下4人を受け入れたのですから、一層狭くなりました。

あの壕は九師団が台湾へ去った後、島尻へ配備された山部隊(第24師団)が掘っておいたもので、入口に機関銃の銃座がありました」

島守の塔は下に島田知事以下の戦没県職員を祀る慰霊塔、背後の数十段の石段の上に島田と荒井の終焉の地を示す石碑が立つ二段構えの造りになっているが、銃座は上の碑の場所にあった。

「銃座の後ろは坂になっていて、突き当たりに横長の二十畳敷きぐらいの大部屋がありました。天井の高さは1メートル50センチぐらいで、かがんで入らねばなりませんでしたが、そこに軍医部の下士官や兵30人ぐらいが寝起きしていました。

この部屋に降りる坂道の途中の左手、胸ぐらいの高さの位置に、もう一つの鍾乳洞に通じる人一人がやっと入れるぐらいの穴がありました。

その鍾乳洞で我々は命拾いをするのですが、それは後でお話しするとして、大部屋の右奥を左手に曲がると、幅2メートル、奥行き10メートルぐらい、天井は大部屋より低い細長い部屋がありました。将校三人はそこに居ました。島田さんたちも、ここへ入って頂きました。

両方の壁際に、どこから持ってきたのか、体の幅ぐらいの湿気よけの木製の簀の子を敷きまして、縦二列に寝ていました。

配置は一番奥から左、右に篠田軍医部長と鈴木軍医中佐、二番目が私と島田知事、三番目が県庁職員(仲宗根官房主事と思われる)と荒井警察部長…という順序になっていました。つまり私と島田さんは通路を挟んで隣り合わせでした。」

「沖縄の島守」から転載させて頂きました

「銃座の後ろは坂になっていて、突き当たりに横長の二十畳敷きぐらいの大部屋がありました。天井の高さは1メートル50センチぐらいで、かがんで入らねばなりませんでしたが、そこに軍医部の下士官や兵30人ぐらいが寝起きしていました。

この部屋に降りる坂道の途中の左手、胸ぐらいの高さの位置に、もう一つの鍾乳洞に通じる人一人がやっと入れるぐらいの穴がありました」

この大塚氏の証言は実に具体的でリアルなので、大いに私たちを喜ばせてくれるものですが、この文面を頼りに「軍医部の壕」を捜しても、残念ながらどうしても見つかりません。

いずれにしてもこれまで何度がチャレンジして徹底的に「島守の塔」周辺部の壕発見を目指して精査しましたが、「軍医部の壕」に該当するような内部構造を持つ壕に出会うことはありませんでした。

《書籍ご紹介》
島田沖縄県知事と荒井警察部長の軌跡について、更に詳しく知りたい方はぜひお読み下さいませ。(^o^)

「沖縄の島守 内務官僚かく戦えり」

田村洋三著 中公文庫 平成18年(2006年)初版

島田知事と荒井警察部長に関わる記事がありましたのでご紹介します。

【住民に「生きろ」沖縄戦時の島田知事、顕彰の動き広がる】

「産経新聞」平成27年5月2日

太平洋戦争末期に沖縄県最後の官選知事として住民保護に尽力し、本島南部で消息を絶った島田叡氏を顕彰する動きが広がっている。命日とされる6月26日には那覇市で顕彰碑が除幕され、出身地の兵庫県との交流会も予定される。国に命をささげることが礼賛された時代、住民に「生きろ」と呼び掛けた島田氏のメッセージが戦後70年を経て再評価されている。

米軍の上陸が迫る1945年1月、島田氏は大阪府内政部長から沖縄に第27代知事として派遣された。44年10月の空襲で那覇は壊滅的な被害を受け、前任者は東京に出張したまま戻らなかった。

当時、県人事課にいた板良敷朝基さん(97)は「死を覚悟して沖縄に来られたはずなのに、非常に穏やかな表情だった。この人となら運命を共にできると思った」と振り返る。

着任後、食糧確保のため自ら台湾に渡り、県民約10万人の日本本土などへの疎開を陣頭指揮。日本軍が首里の司令部放棄と南部への撤退を決めると、知事も職員らとともに糸満市の「轟の壕」に移動した。だが米軍の猛攻は収まらず、壕で県庁を解散。同市摩文仁の陸軍司令部壕に向かい、消息を絶った。43歳だった。

旧日本軍は「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓から、住民にまで集団自決を強要していた。だが島田氏は県庁を解散した際、県警察部職員の山里和枝さん(88)に「米軍は女性と子どもには手を出さないから、最後は投降しなさい。必ず生き抜いて、戦後の沖縄のため尽くしてほしい」と言い残したという。

戦後、戦没職員とともに「島守」とたたえられた島田氏。主人公にしたドラマの影響もあり、有志でつくる団体が2013年から顕彰碑建立への協力を呼び掛け始めた。

賛同の署名は3万に上り、建立のため沖縄県内外から600万円以上の寄付が集まった。島田氏が学生時代に野球に打ち込んだことから、那覇市の球場近くに建立される。那覇市で開かれる兵庫県との市民交流会には、井戸敏三知事も出席する方向で調整している。

「産経新聞」から転載させて頂きました

【終戦間際の沖縄県警察部長荒井退造 職に殉じた「栃木の偉人」】

「産経新聞」平成27年6月11日

郷土史研究家が功績伝える

終戦間際、戦況が厳しくなった中、沖縄県警察部長として県民の疎開を進め、沖縄では知らない人がいないと言われる荒井退造(たいぞう)(1900~45年)。最後は職に殉じ、沖縄本島最南端に当時の知事とともに石碑が建てられたが、出身地・宇都宮ではほとんど知られていない。荒井の偉業を伝えるため、20年研究してきた宇都宮市の郷土史研究家、塚田保美(やすみ)さん(83)が13日、同市内で講演する。

講演は13日午後1時半、同市竹林町のトヨタウッドユーホームすまいるプラザ「オトスクホール」で開かれるが、反響は大きく、既に予約で満席となった。

■7万3000人を県外疎開

荒井は旧清原村出身。旧制宇都宮中学校(現宇都宮高校)を卒業後、苦学して高等文官試験に合格。内務省官僚として警察の要職を歴任した。そして、昭和18年7月、沖縄県警察部長に就任。現在の県警本部長に当たる重責で、沖縄が戦場になる危機が迫っていた。県民の疎開に取り組んだが、当時の知事は状況を楽観視し疎開に消極的だった。塚田さんは「それでも荒井の信念は変わらず、最悪の事態を想定して動いた」と話す。

「まつげに火が付いてからでは遅い」。状況を打開するため19年6月、県庁職員、警察官の家族700人を疎開させて機運を高め、第2、第3次疎開を実現させた。10月の沖縄大空襲、12月の知事の突然の上京、転任と事態は混迷。20年1月にようやく新しい知事に島田叡(あきら)(1901~45年)が赴任した。以後は島田と二人三脚で奔走し、20年3月までに7万3千人を県外に疎開させた。

4月1日には米軍が沖縄本島に上陸。県外疎開が不可能になった状況でも戦闘が激しい島南部から北部へ15万人を避難させた。「合わせると20万人以上を救ったことになる」と塚田さん。6月9日には警察警備隊解散となるが、「警察官の職務は忘れるな」と訓示した。「その後も毎日のように警察官が避難誘導中に殉職している。荒井の訓示に忠実だった」。塚田さんは警察官の行動に感銘を受けたという。

日本軍の抵抗は沖縄本島南部へと追い詰められていく。荒井は赤痢が重くなっていた。6月26日、島田に抱えられるように、島南端の摩文仁(まぶに)の森へ入っていく姿を目撃されたのを最後に2人の遺体は見つかっていない。

戦後、摩文仁の丘(同県糸満市)には島守の塔が建てられ、2人の終焉の地を示す碑がある。

■顕彰へ機運高まる

塚田さんは約20年前、荒井の長男、紀雄さんが書いた「戦さ世(ゆう)の県庁」(中央公論事業出版)を手にする機会があり、荒井が宇都宮高校の先輩であることを知った。「細々と研究を続けてきたが、世に出す機会がなかった」。平成25年の「宇高同窓会報」に寄稿する機会が巡り、大きな反響を得た。「宇高だけの誇りではない。栃木県の誇り」。そんな声も寄せられ、出身地・宇都宮で荒井を顕彰する機運が高まった。塚田さんは「荒井の名を残すため何をやるか、これからの課題」と話している。

「産経新聞」から転載させて頂きました

摩文仁清掃作業(ボランティア活動)

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.27

本日は沖縄県が主催する摩文仁清掃作業の予定日だそうです。ご覧のようにボランティア活動に参加する方々が大勢集まっていました。もう少し近づいて見ましょう。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.28

若い方が多いですね。ほとんどが男性ですが、女性も散見されます。摩文仁に散在する膨大なゴミを片付けるという目的に、手弁当で集まった方々ですからね。本当に頭が下がります。また堆積したゴミの下から沖縄戦戦没者のご遺骨や遺品などが出土されんことを祈りたいですね。

戦没者遺骨収集情報センターにご遺骨をお届けしました

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.29

具志頭で収集されたご遺骨を今朝、遺骨収集情報センターにお届けしましたが、引き渡しの際に写真を一枚撮影させて頂きました。遺骨収集情報センターの所長と田中さんです。

調査・遺骨収集作業開始です

今日は昨日と同じ摩文仁海岸線での調査・遺骨収集作業となります。今日が最終日ですから、どうしても気が緩みがちです。無事故で終わるように慎重に取り組みましょう。

摩文仁之丘で調査・遺骨収集作業

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.30

まずは皆さんで献花し戦没された方々に手を合わせました。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.31

今朝は忘れずに集合写真を撮らせて頂きました。集合写真は本日が最終です。後列右から吉井さん、松永さん、福岡さん、そして前列は田中さんと娘さんです。娘さんは尊い体験が出来ましたかね。だとすれば嬉しいです。松永さんが事前に戦没者遺骨収集情報センターや関係諸機関との調整を済ませて頂いたお陰で、今年も調査・遺骨収集作業がとてもスムーズに行えました。改めて感謝感謝です。

また吉井さん、福岡さん、田中さんなどベテランさんにより、プロフェッショナルな取り組みが出来ているのもまた事実です。私達はごく自然に高度な取り組みをしていますが、それは他と比較していないから気づきにくいだけで、私達参加メンバーは、皆さんが抱く志に比例するかのように、年々技量や御遺骨を見る眼力を増している事は間違いありません。

これからも戦没者遺骨収集情報センターの御協力を仰ぎながら、誰にも看取られる事無く戦場に果てた戦没者の鎮魂に取り組ませて頂きましょう。

いやはや、すでに今日の作業が終わったかのような文面ですが、それでは今日も頑張って取り組ませて頂きましょう。(^o^)

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.32

さあ傾斜面を降りていきます。序盤かなりの急傾斜ですから要注意です。年を重ねるほど下り局面は要注意です。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.33

ホッ、少し傾斜が緩くなりましたね。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.34

崖下に降りていきます。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.35

隠れるのに絶好な壕があったので降りてみる事になりました。壕口から中に入るにはロープが必要でしたので、ロープを固定し降りていきました。最初に降りた松永さんの偵察状況から、全員降りる事になりました。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.36

福岡さんが降りています。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.37

壕内に降り立つと、左右に進める事は判明しました。とりあえず私と松永さんで右側に進んでみる事にしました。すでに松永さんが先行しロープを同時に引っ張って下さっていますので、ロープに沿って私も進みます。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.38

ご覧のようにかなり奥深そうです。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.39

「手伝って」という声がしたので、私も壕口に戻りまして、田中さんと娘さんが降りるのを手伝う事になりました。娘さんが降りる所ですが、ご覧のように狭く、そして足場が悪いです。足を掛ける場所が無いので、男性でもギリギリ何とか降りられるという状況ですから、皆さんで協力して田中さんお二人に降りてもらいました。ちなみに当然の事ながら、上がる時は降りる時よりも楽勝な筈です。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.40

吉井さん、田中さん、娘さんは左側に行って下さるという事になりました。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.41

田中さんは早速作業を開始しました。金属探知機が結構ピーピー鳴るので、遺留品が出てきそうです。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.42

娘さんもすぐに着手しました。体験三日目ですから、グングンと要領を飲み込み手際が良くなっている印象です。やはり若さですね。覚えるのが早いです。(^o^)

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.43

私はその後、右側に進んだ松永さんの後を追いました。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.44

かなり奥深い壕ですね~。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.45

やっと松永さんに追いつきました。松永さんが居られる辺りだけでも、相当な人数が収容できるのは明かですね。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.46

まだ奥がありそうですね。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.47

ワオッ、今度は少し降りねばなりません。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.48

戦没者遺留品が集められています。こんな大きな壕ですから、未発見とは思いませんでした。やはり他の団体が収骨作業をしたのですね。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.49

松永さんの前にも遺留品がありますね。眼前に見える多くの岩も集められているという雰囲気です。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.50

ここにもこんなに遺留品が集められています。この壕内で亡くなられた将兵はかなりの人数になるかもしれないですね。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.51

電線のより線ですね。一本一本が太いですから、電話線とか通信線では無いかもしれません。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.52

この写真は外が見えるという状況を写しています。写真中央やや下側に外の風景が見えています。この壕内では風を感じていましたから、隙間があるとは感じていました。ただ岩の隙間があるものの、人間の出入りできるような隙間までは無いようです。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.53

更に奥に進んでいきます。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.54

歩兵が小銃弾を入れる弾薬盒(弾薬パウチ)の一部ですね。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.55

更に奥に進みます。

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また降りていきます。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.57

更に降りていきます。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.58

ここが最奥部です。これ以上先には行けません。どうでしょうか。断定は出来ませんが、印象としては壕口から50メートルぐらい来たと思います。

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帰路につきました。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.60

岩肌が煤で黒くなっています。ここで調理をしたのかも知れませんね。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.61

軍靴の靴底ですね。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.62

広い空間もありますが、ご覧のような狭い部分もあります。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.63

白いのはロープです。壕口に近づいて来ました。

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皆さんが作業しているのが見えて来ましたね。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.65

吉井さんと福岡さんが作業しています。

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田中さんと娘さんが作業しています。

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大きな革製品が見つかりましたね。

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福岡さんが作業しています。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.69

御遺骨も見つかっていますね。勿論取りこぼしというレベルのようです。銃弾やお金もあります。

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吉井さんが作業しています。

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娘さんが作業しています。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.72

田中さんが作業しています。

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福岡さん狭い所で作業しています。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.74

床面に穴が開いています。開口部が狭くなったのではないか…。もし入れれば新発見に繋がるかもしれません。これは宿題という事で来年調査します。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.75

オオゲジが居ました。足先まで全長15センチぐらいありそうです。意外と逃げません。私達を珍客として見ているかのようです。

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福岡さんが作業しています。

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遺留品が少しずつ増えていますね。

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ヒェーッ。娘さんが、アクロバット的に張り付いて作業しています。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.79

松永さんが発見された遺留品を見つめています。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.80

皆さんが発見した遺留品などについて色々と話し合いました。この壕にもう一度入り、しっかり取り組んでみようという話になりました。それでは時間が来たので作業終了です。戻りましょう。

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壕から順番に出ます。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.82

とても大きな壕でしたね。全員無事に出ましたから、これから公園まで帰ります。

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さあ一列縦隊で帰ります。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.84

上り勾配になってきました。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.85

凄い場所を登って行きます。

2018年1月28日/遺骨収集の様子no.86

公園に出ました。平坦部が見えますね。(^o^)

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