平成30年(2018年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月18日(木) 松永さん菊池さんと糸満市束里と摩文仁海岸線で調査・遺骨収集

今日の天気予報は、降水確率午前午後共に10%ですから、雨の心配は不要でしょう。最高気温は23度の予想で、雲の多い天気になるそうです。今朝の慰霊巡拝は、「ひめゆりの塔」、「赤心之塔」、そして「梯梧之塔」です。それではご一緒に慰霊巡拝しましょう。(^o^)

「ひめゆりの塔」

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.1

糸満市伊原にある「ひめゆりの塔」にやって参りました。奥の方に見える白い慰霊塔が「ひめゆりの塔」です。午前8時過ぎ、まだ早朝である事から観光客は私以外まだ誰も居ませんでした。黄色味を帯びたタイワンレンギョウが早春の沖縄を色鮮やかに飾っています。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.2

白い石組みで清楚さを表現している「ひめゆりの塔」です。慰霊碑又は納骨堂であるかもしれません。この「ひめゆりの塔」本体の納骨堂も平成22年頃リニューアルされました。シンボルとしてのユリの花を大きくした事により、リニューアル以前よりも印象深いモニュメントになりましたね。「ひめゆりの塔」には、教職員・学徒戦没者、女師115人、一高女104人、合計219人が合祀されています。

「ひめゆりの塔」の命名由来は、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校は併置校であったため、沖縄戦では両校生徒は同一行動をとっていたという経緯もあり、戦後真和志(まわし)村村長であった金城和信氏が中心になって、戦死した両校生徒を祀る慰霊塔建立に際しては、師範学校女子部の校友会誌「しらゆり」と、県立第一高等女学校の校友会誌「おとひめ」から名を取って、この塔をひらがなを交えて「ひめゆりの塔」と命名したそうです。こうした経緯で、戦後になって両校生徒の学徒隊を「ひめゆり部隊」「ひめゆり学徒隊」などと呼ぶようになりました。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.3

この小さな石碑が、昭和21年4月に設置された初代ひめゆりの塔です。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.4

納骨堂の前には、大きく口を開けた「沖縄陸軍病院伊原第三外科壕」があります。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.5

沖縄陸軍病院は本部・第一外科・糸数分室・第二外科・第三外科に分かれて業務を続けていました。ここはその第三外科の壕として傷病兵を収容していました。この壕は二段階になっており、沖縄戦当時は、ハシゴが設置され出入りしていたようです。

6月18日解散命令が出た翌日未明の頃、脱出直前というタイミングで米軍による馬乗り攻撃ともいえるガス弾攻撃を受け、陸軍病院関係者、通信兵、集落住民など壕内に居た96名のうち87名が犠牲になりました。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.6

ひめゆり学徒隊を引率した仲宗根正善先生が詠まれた哀悼の歌「いわまくら碑」です。
いわまくら かたくもあらん
やすらかに ねむれとぞいのる
まなびのともは

と彫られています。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.7

戦没された職員、生徒の名前が刻まれた石碑ですね。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.8

「ひめゆりの塔の記」という碑文がありました。ひめゆり学徒隊の軌跡やひめゆりの塔設立の経緯が記されています。

【ひめゆりの塔の記】

昭和二十年三月二十四年、島尻郡玉城村港川方面へ米軍の艦砲射撃が始まった。沖縄師範学校女子部と沖縄縣立第一髙等女学校の職員生徒二百九十七名は軍命によって看護要員としてただちに南風原陸軍病院の勤務についた。

戦闘が激しくなるにつれて、前戦から運ばれる負傷兵の数は激増し、病院の壕はたちまち超満員となり、南風村一日橋・玉城村糸数にも病室が設けられた。看護婦・生徒たちは夜晝となく力のかぎりをつくして負傷兵の看護をつづけた。

日本軍の首里撤退もせまった五月二十五日の夜、南風原陸軍病院は重症患者は豪にに残し歩ける患者だけをつれて手を引き肩をかし砲弾をくぐり包帯をちぎって道しるべとしてここ摩文仁村に移動した。

南に下って後は病院は本部・第一外科・糸数分室・第二外科・第三外科にわかれて業務をつづけた。第三外科は現在のひめゆりの塔の壕にあった。

六月十八日いよいよ米軍がま近にせまり、看護隊は陸軍病院から解散を命ぜられた。翌十九日・第三外科の壕は敵襲を受けガス弾を投げこまれて地獄圖絵と化し、奇跡的に生き残った五名をのぞき職員生徒四十名は岩に枕を並べた。軍醫・兵・看護婦・炊事婦等二十九名民間人六名も運命をともにした。その他の豪にいた職員生徒たちは壕脱出後弾雨の中をさまよい沖縄最南端の断崖に追いつめられて追い詰められて多く消息をたった。南風原陸軍病院に勤務した看護要員の全生徒の三分の二がこうして最後をとげたのである。

戦争がすんで二人の娘の行方をたずねていた金城和信夫妻によって第三外科壕がさがしあてられた。真和志村民の協力により昭和二十一年四月七日最初のひめゆりの塔が建ち次第に整備された。沖縄師範学校女子部と沖縄縣立第一髙等女学校の職員十六名生徒二百名の戦没者を合祀して白百合のかおりをほこったみ霊の心をうけ、平和の原点とする。乙女らは涙と血とを流してえた体験を地下に埋めたくないと平和へのさけびを岩肌に刻みながらついに永遠に黙した。

いはまくら かたくも あらむ やすらかに
ねむれ とぞいのる まなびの ともは

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.9

ひめゆり学徒隊の軌跡を記したものです。動員・撤退・解散という三タイトルに絞って解説しています。

《書籍ご紹介》
攻撃された第三外科壕から生還された一人である具志八重さんの著書をご紹介させて頂きます。

「閃光の中で」 沖縄陸軍病院の証言

長田紀春/具志八重編 ニライ社 平成4年(1992年)初版

軍医見習士官として第三外科壕で勤務していた長田紀春さんと具志八重さんの共著となっています。6月19日陸軍病院第三外科壕では米軍によるガス弾攻撃で、壕内に居た96名(うち教師5名・生徒46名)のうち、87名が義勢になりました。具志八重さんは第三外科壕から奇跡的に生還したお一人ですが、そのガス弾が投げ込まれた時の壕内の様子を生々しく活写されています。

「沖縄戦殉職医療人之碑」

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.10

この慰霊碑はです。各地で守備軍に協力し、住民の衛生、保険、ケガなどの治療に従事しながら戦没された医師、歯科医師、薬剤師、看護婦ら50人が祀られています。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

「ひめゆり平和祈念資料館」

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.11

「ひめゆり平和祈念資料館」です。沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校生徒222人による「ひめゆり学徒隊」の沖縄戦における軌跡を詳しく解説している施設です 私も二度ほど見学させて頂きました。中庭を周回するように各展示室が配置されていますし、第三外科壕を底から見上げた形での原寸大のジオラマも見る事が出来ます。沖縄に旅行した際はぜひ一度訪ねる事を推奨したいですね。

「赤心之塔」

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.12

ひめゆり平和祈念資料館に到る手前20メートルぐらいの位置で、左手をご覧下さい。ご覧のような高さ60センチほどの小さなちいさな「赤心之塔」が見えるはずです。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.13

「赤心之塔」です。沖縄陸軍病院第三外科壕は軍が病院として使用しましたが、軍が入る前からこの壕に避難していた民間人である大田家の六人家族は、軍が使用するようになってからも第三外科壕での居住が許されていました。しかしながら6月19日の米軍による馬乗り攻撃で、ひめゆり学徒、陸軍病院関係者と共に、大田家六人家族のうち五名が戦死してしまったのです。

大田家唯一の生存者となってしまった母のトシさんは、たまたま用事があって伊原第三外科壕から出ている間に米軍によるガス弾攻撃を受けてしまい壕に帰れなくなりました。結果として三人の子供と夫、そして夫のお母さんを亡くしてしまいました。そのトシさんは戦後、「なぜその時にそこに居なかったのか。なぜ子供のそばにいてあげられなかったのか。あの時に一緒に死んでおれば良かった。」が口癖だったそうです。

トシさんはなぜ生存できたのか? トシさんは、「伊原第三外科壕」への米軍による19日のガス弾攻撃を受けた時は、偶然にも所用で第三外科壕の外に出かけていたのです。トシさんは壕に戻ると火炎に包まれている第三外科壕を目の当たりにし、子供達を助けようと壕近くに接近したところで、待ち受けていた米軍の狙撃で負傷してしまったという訳です。

トシさんの話によりますと、戦後50年間というもの、床に入ると毎夜のように三人の子供が目の前に出てくるというのです。睡眠も十分とれず辛い50年だったと述懐しています。

トシさんの語る「戦後50年間」という意味は、戦後50年を経た平成6年に、金光教那覇教会により、トシさんらご家族が参加されての初めて慰霊祭が「赤心之塔」で執り行われたのです。平成6年といえば戦後50年を経ているわけですが、その年6月19日、まさに大田家の子供達と母の命日に、20人ぐらいの縁者が集い第一回目の慰霊祭が執り行われたといいます。

事の発端は、故具志八重さんと言えば「伊原第三外科壕」の数少ない生存者の一人でした。その具志さんは金光教の遺骨収集奉仕活動にも初期の頃から参加されていましたが、平成6年の時に金光教那覇教会の林先生に、「先生こういう慰霊塔があるのですが、お祭りをして頂けませんか」と申し出たのが「赤心之塔」前での慰霊祭の始まりだそうです。

その初めての慰霊祭が無事に終わり、トシさんが参加者に向け最後の挨拶に立たれましたが、たった一言「今晩から安眠できます…」と語った後「わー」と叫ぶように泣き崩れてしまい、弟の徳元さんが代わってご挨拶せざるを得なかったといいます。三人の掛け替えのない子供達と夫の母、そして夫をも沖縄戦で失ったトシさんの胸中は如何ばかりか…。トシさんは平成7年に亡くなられていますが、平成7年以降は有志により慰霊祭が金光教那覇教会により仕えられています。

私たちの想像をはるかに超える慟哭の日々であったのだと思えます。今は亡きトシさんそして戦死されたご家族の皆様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

ご覧のように「赤心之塔」はとても小さな慰霊塔です。金光教那覇教会の林先生の話では、塔はとても小さいので祭事を立ってすると見下すようになってしまうので、ゴザを敷き座る姿勢で目線を低くして慰霊祭を執り行っているという話をお聞きしました。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.14

「赤心之塔」の裏側です。戦死された大田家の五人の名前が刻み込まれています。右側から氏名の説明をさせて頂きます。一番右が、トシさんの夫の母です。数字の十八にも読めますが、カタカナで「ナハ」さんと読みます。二番目がトシさんの夫の「一雄」さんです。一雄さんは防衛隊に招集され前線で戦死されました。三番目からトシさんの三人の子供達の名前で、「義雄」ちゃん、「繁子」ちゃん、「貞雄」ちゃんで、それぞれ当時9歳、5歳、3歳の年齢でした。沖縄戦終結時、太田トシさんは、太田家唯一人の生存者となってしまったのです。

【太田家の御霊に祈り】 「赤心之塔」で慰霊式

「沖縄タイムス」平成25年6月20日

【糸満】68年前の19日、沖縄戦で家族5人が犠牲になった大田家の慰霊塔「赤心之塔」の慰霊式が19日、糸満市のひめゆり平和祈念資料館入り口横の同塔であった。ひめゆり平和祈念資料館の島袋淑子館長ら約10人が出席。金光教那覇教会の林雅信さん(73)が祝詞を読み上げ、み霊を慰め平和を願った。

大田家は米須出身で、1945年6月19日朝、ひめゆりの塔がある伊原第三外科壕で、米軍のガス弾により、ひめゆり学徒らとともに子供三人と祖母一人が犠牲となった。その後、周辺で父親も戦死。生き残ったのは母親トシさん=享年(81)=だけだった。

島袋館長は「68年前の今日、家族が壕でどんなに苦しんで亡くなったか、胸が痛む」。21年前の最初の慰霊式から携わっている林さんは「一緒に死ねばこんな苦しい思いはしなかったとトシさんは苦しんでいた。戦争で子供を亡くした親の深い傷を癒やすためにこれからも続けていきたい」と話した。

「沖縄タイムス」から転載させて頂きました

【犠牲者の冥福祈る】 「赤心之塔」有志が慰霊祭

「琉球新報」平成25年6月20日

【糸満】沖縄戦当時、伊原第三外科壕で民間人として犠牲になった大田さん一家5人を祭った「赤心之塔」の慰霊式が19日、糸満市伊原のひめゆり平和祈念資料館前の同塔で開かれた。戦争体験の継承に関わる有志ら約10人が参加し、犠牲者の冥福を祈った。

同外科壕は、もともと伊原の住民が隠れていたが、戦闘の激化により、日本軍が住民を追い出し、野戦病院として使用するようになったという。大田さん一家は、幼い子供三人を連れていたため、壕に残ることを許されたが、68年前の6月19日、米軍によるガス弾攻撃を受けて、ひめゆり学徒らと共に犠牲になった。母の故トシさんだけが生き延びた。

慰霊式は1993年から始まり、トシさんが亡くなった95年から、有志が執り行うようになった。慰霊式では金光教那覇教会の林雅信さんが祭詞をささげた。

「琉球新報」から転載させて頂きました

「梯梧之塔」

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.15

「梯梧(デイゴ)之塔」が見えてきました。敷地としては「ひめゆりの塔」に隣接する場所にありますが、お土産屋さんの駐車場の更に奥にあるので、初めて訪れる場合は見つけにくいかもしれません。

長く続けられている金光教沖縄遺骨収集奉仕活動では、遺骨収集運営委員会が主催する総勢400~500人の参加者で遺骨収集奉仕作業が実施される期間が長く続きましたが、これだけの人々が一度に集合整列出来る広場の確保に苦慮していたのが実情でしたが、「梯梧之塔」前にあるお土産屋さんのとても広い駐車場に本部を設置して活動した年が何度もありました。 お土産屋さんのご厚意により広い駐車場の一角を利用させてもらう事が可能であった訳ですが、本部テントがお土産屋さんの駐車場に設置された年は必ず「梯梧之塔」前で、遺骨収集奉仕活動最終日に執り行われる現地慰霊祭を仕えられるという、思い出深い慰霊塔でもあります

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.16

戦没された学徒58名、教職員4名を祀る「梯梧之塔」です。この「梯梧之塔」は昭和23(1948)6月に学校の校舎跡地に建立されましたが、その後昭和46年に(1971)6月に、多くの犠牲者を出したゆかりの場所に程近い、糸満市伊原に移設されたものです。

「梯梧之塔」のでいごは、赤い花を咲かせる熱帯植物で、インドが原産です。沖縄県の県の花にもなっていまして、沖縄昭和高等女学校の近くに、でいごの並木道があった事から、学校のシンボルにもなりました。校章も、でいごの葉が表現されているそうです。昭和高女は戦前、事務員を養成する学校として、簿記とかを教える商業学校だったそうです。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.17

「梯梧之塔」説明碑文です。ギリギリ読めますがテキストを起こしましたのでご覧下さい。

【梯梧の塔説明碑文】

梯梧の塔は、昭和46年6月23日、旧校舎跡より、ゆかりの地に移転。母校の校歌「梯梧の花の緋の誠」にちな んで、「梯梧の塔」として建立された。

昭和20年1月25日より約1月間の看護教育を受け、3月6日、17名(4年生)は、第62師団野戦病院(石5325)へ学徒看護隊として、ナゲーラの壕へ配属された。

4月1日、地上戦が始まるや、日を逐うて前線からの負傷兵が激増、壕の中は、まるで生き地獄、昼夜の別なく看護は続いた。4月29日学友の中から最初の戦死者が出る。ナゲーラの壕は満杯で収容できず、9名は第二分院の識名の壕へ移動した。壕の中で休息中、飛んで来た破片で学友2名が戦死。戦況の悪化で5月末、武富、米須、伊原へと後退。米軍は物量にものを言わせて猛攻撃は止むことなく、伊原の地で6名戦死。病院としての機能を果たす事ができず、6月19日、隊に解散命令が出た。

無念にも学業半ばにして、戦禍の中で犠牲になった、同窓生57名と、職員3名、計60柱(旧字)が合祀されている。勝利を信じ若くして御霊となった学友の永遠に眠る南部終焉の地に建立、恒久平和を願いつつご冥福を祈っている。

梯梧同窓会 

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.18

「梯梧之塔」・沖縄昭和高等女学校説明碑文です。ギリギリ読めますね。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.

お二方が詩を詠まれていますが、右側の詩を詠まれた藤岡豊子氏は、第62師団(石部隊)を率いた藤岡中将の奥様です。その事を教えて下さったのが、他ならぬ梯梧同窓会長照屋ヒデ様でした。 経緯をご紹介しますと、照屋ヒデ様から私宛にお手紙を頂きました。お手紙を頂いたのは今から27年前となりますが、二枚の便箋にびっしり書き込まれた文面の中に、「故藤岡中将の御令室様が参拝に御出下さいまして、丁度梯梧の花が咲く時節でございましたので、その花をご覧になりお寄せ下さいました。…」と書き記されていました。

なぜ照屋ヒデ様からお手紙を頂いたのか。その理由はお手紙を頂いたその年、今から30余年前ですが、遺骨収集を終えた翌日、有志が集まって梯梧之塔及びその周囲の清掃を行いました。その清掃の様子を金光教の遺骨収集奉仕活動では大変な功績を残された石原正一郎氏が照屋ヒデ様にお伝えしたようなのです。その結果照屋ヒデ様から清掃作業に関わる感謝の意を表するお手紙が私の所に届けられたという経緯です。文面には卒業証書を手にする事なく花の命を落とされた同窓生への追慕の念が、昨日の出来事のように鮮明に書き記されていました。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子13

「梯梧之塔」での金光教現地慰霊祭の様子です。1990年2月に撮影したものです。祭壇に安置された段ボール箱の中には、お清め作業により綺麗に清掃されたご遺骨が納められています。二昔前ともなりますと、二日間の遺骨収集でこんなにもご遺骨が発見されていたのですね。

この年の遺骨収集奉仕活動では、二つの記名遺品が発見され(三角定規と記名された認識票)、二つともご遺族の元に届けられるという印象深い出来事がありました。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子14

「梯梧之塔」での金光教現地慰霊祭の様子です。1990年2月に撮影ですから、今から26年前に撮影された写真という事になります。林先生や大庭さんをはじめとする関係者の皆様がとても若い姿で写し込まれているのが印象的ですね。この慰霊祭の時は旧私立沖縄昭和高等女学校関係者の皆様も多数参列されていました。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.19

「梯梧之塔」の背面はジャングル帯になっているのは以前から知っていましたが、どのような地形になっているのか知りたくて、北側のジャングルに少しだけ入って見ました。特に雑草が生い茂っているという状況ではなく、スッと写真の様に崖の端部まで到達しました。写真中央部はすでに下っている場所です。よく見るとコンクリートブロックが二つ置かれているのが見えますね。もしかしたら拝所のような場所なのかもしれません。その拝所とみられる場所まで降りてみました。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.20

拝所と思われる場所まで降りてみますと、やはり北側は急な崖になっているのが見てとれます。島尻一帯では、こうした断崖が幾重にも連なっているのが見てとれますよね。これはこの地域一帯の石灰岩で構成される平坦面が、活断層活動により切断された傾動地塊となっているからであり、結果として南側が緩やかな傾斜となり集落が発展し、北側の断層崖の崖上にグスクが立地するという共通性があります。「梯梧之塔」近くのグスクといえば、東側500メートル程先に米須グスクがありますね。米須グスクの崖下には湧き水もありますから、グスクとしては好立地だったと思われます。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.21

途中でご覧のようなものが仕掛けられていました。ハブを捕獲する装置ですよね。写真左側から入るようになっています。目をこらしてみましたが、ハブは入っていませんでした。

調査・遺骨収集作業開始です

今日は糸満市束里での調査活動です。本日は調査のみに限定し、本格的な遺骨収集作業は後日実施するという流れになります。束里のこの現場は、戦没者遺骨収集情報センターから情報を頂き、すでに地権者や教育委員会などへの手続きが済んでいる場所なので、私達のグループも一度入ってほしいと連絡があったため取り組ませて頂く事になりました。諸手続が済んでいる現場という事についてですが、これは私達のために手続きを済ませて下さったという訳ではあまません。近年に他の団体もこの現場に入っている事からして、他の含意があって依頼されたと見るのが妥当です。私達は色んな団体に入ってもらいたいのだと理解しました。

喜屋武一帯は第9師団が昭和19年12月に同地域から台湾に抽出後、第24師団(山部隊)が第9師団の後継として同地に展開しました。比島レイテに於ける戦況などから、沖縄島での開戦の火蓋は昭和20年の桜の咲く頃と想定され、米機動部隊との戦闘に備える膨大な砲弾や軍需品は、戦術変更に備えて本島の北部と喜屋武を含む南部島尻の二カ所に分置集積されていました。また兵士の居住地として島尻にある自然壕の活用や崖下に沢山の構築壕を築城隊が掘り進めた経緯があります。そしてまた島尻は、沖縄戦末期には米軍による掃討戦の殺戮現場ともなりました。そうした経緯もあり、喜屋武は戦後多くの遺骨収集団が入山した地域でもあります。金光教の遺骨収集に限っても束里地域に4回入っています。

あらゆる団体が入った地域だから御遺骨の発見は期待できないのでは…。と思うのが一般的ですが、これは一面では当たっています。道が出来るぐらい色んな団体が入った場所に再度入っても意味があるのか…。一般論として、こう考えてしまうのは無理もありません。そうした調査され尽くした場所よりも未踏の場所を見つけた方が発見率は高まるだろうと誰もが考えます。ごく限られた数日しか遺骨収集に取り組めないのが一般的ですから、発見率の高そうな場所を希求するのは自然な取り組み姿勢だと言えるでしょう。

話が少しわき道に逸れますが、金光教の遺骨収集でも、毎年初参加の方が大勢居ました。そして意外なことに、初参加の方がご遺骨を発見する確率は思いの外高いのです。ベテランさんを尻目に、毎年そうした「初参加で発見」という光景を目の当たりにしていましたから、それは何故だろうといつも考えていました。プライドあるベテランとして、初心者の方のご遺骨発見を嫉妬の対象にしてしまったのでしょう、思考習慣になってしまった程ですから。

遺骨収集を続けていると、それは即ち他の参加者が見つけた発見現場の遺骨収集作業を続けていますと、戦没者が隠れていた、或いは潜んでいた場所の傾向というのが自ずと見えてきます。「こうした場所に隠れていたのか」とか、一つの発見傾向が視界の先に見えてくるのです。結果としてそうした体験から得られたノウハウとも言える戦没者が居そうな場所を自分も同じ目線で探すようになるのです。ノウハウが賢固に昇華していくとでも呼ぶのでしょうか、ベテランさん程そうした傾向が強くなり、良くも悪くも体験から得られた、その人固有の同じ目線で地面を見続けることになるのです。

ところが初参加の方は、そうした縛りがありません。ベテランさんとは違った自由な目線で見ます。新鮮すぎてオイオイというような目線も時折見かけましたが…。(^_^; この新鮮な目線こそがご遺骨発見に繋がるのではないか…。そう考えた私は、遺骨収集において発見率を高める一つの手立てとして、「色んな目線で見る」事の重要性を指摘したいと思います。

同じ現場を見るに、若い人お年寄りの人、男性女性、背の高い人低い人(目線が高い人低い人の意)、腕力のある人無い人(腕力に任せて大きな岩を次々に移動する人しない人の意)、短気な人暢気な人、同じ作業を続けても飽きない人すぐ飽きる人、遺骨収集初体験の人ベテランの人、等々数え上げれば切りがありませんが、色んな目線で現場を見る事こそが発見率を高めると確信するに至ったのです。金光教の遺骨収集でも、同じ地域に何回も入っていますが、その都度毎にご遺骨が発見され続けるのは、違う目線で見るからに他ならないと思うのです。

多様な目線がご遺骨の発見率を高めると書き進めてきましたが、そしてそれは又、集団の多様性についても全く同じ事が言えるのです。例えば、私は長く金光教の遺骨収集に参加させて頂きましたが、これまでに二回だけですが沖縄県遺族会が主催する遺骨収集に参加させて頂きました。県遺族会は金光教のように宗教団体ではありませんから、その点は大きく違いますが、遺骨収集をするという点では全く同じ目標であり、同じ成果を目指していると考えていました。

ところがですね、朝集合して夕方解散するまでの間に、細かい点で両者に沢山違いがあるという事に気づいたのです。新鮮な驚きを感じた程でした。その違いの詳細は割愛させて頂きますが、金光教、県遺族会、共に同じぐらい長く遺骨収集を続けている団体です。長く続けている間にごく自然に、金光教方式、県遺族会方式という独自のやり方が育まれていったのだと思います。

これは個人の集合体たる団体レベルで見ても「目線が違う」と言えるかもしれません。色んな団体が同じ場所に入る事の大切さを実感した貴重な体験でもありました。

金光教の遺骨収集では老若男女、色んな目線を持つ方々が全国から参集され御遺骨発見に本領を発揮されました。金光教の遺骨収集が終了してしまった今、少数精鋭で取り組まねばならない私達は、「一人で何役もの目線を持つ!」 こうした視点で遺骨収集に取り組みたいですね。

誠に回りくどい話になってしまいました。ご遺骨発見に至るのは、場所に依るのではなく心持ちにあるのだという観点を指摘したかったのですが、本日取り組ませて頂くこの束里でも新鮮な初心者という目線を持ちつつ、ベテランの味わいも玩味して調査しようと思います。

前置きが長くなってしまいました。それでは松永さん、菊池さんと共にしっかり本番に備えて調査しましょう。(^o^)

束里での調査作業

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.22

松永さんと菊池さんです。本日は三人で活動します。よろしくお願いします。曇り空ながら雨が降る心配はないのでその点は安心です。転倒事故等に気をつけ頑張って取り組みましょう。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.23

ジャングルに入って40メートルぐらい進むと、他の団体による御遺骨発見現場がありました。崖下の裾野が広がり始めているというような場所の岩陰でした。私達も線香を手向け献花し手を合わせました。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.24

さあ本格的なジャングルにはいって参りました。倒木も結構あります。倒木は結構くせ者ですから要注意です。

当ウエブサイトには、未体験ながら遺骨収集をやってみたいという方、実際に今年遺骨収集をやる予定だという方々が訪れて下さいますので、この場でジャングル内での移動中の注意事項を簡単に列挙させて頂きます。ケガをすることなく、無事に作業を終えて帰還するというのも、とても大切な目標であるからです。

まず第一に登山と同じように、ジャングルを前進、移動する際は自分のペースで歩くことが大切です。これは遺骨を探している最中も同じ事が言えます。自分のペースだからこそ、自分の思考のペースになるのです。自分の思考であるからこそ、冷静な分析力、判断力を維持し得ますし、午後になるとかなり疲れを実感するようになりますが、自分のペースだと少なからず疲労を抑制出来るはずです。それは結果として転倒事故などを防ぐ手立てとなりますからね。

ジャングルでは、手の届く範囲に木の枝や、蔓らしきもの(根だったりします)が沢山あります。前進する際にそうしたものを利用すると、迅速に移動出来たりしますので、ついつい手で掴み、体重を預けたりしますが…。枯れ木や枯れた蔓だったりしたら、そのまま見事に転倒してしまいます。これは遺骨収集をされた方なら、二度や三度の体験があるはずです。体験してないなんて絶対に言わせませんよ~。(笑)

またジャングルとはいえ、足下は大石小石の上を歩いているようなものです。特に摩文仁海岸線ではそうした傾向にあります。この浮き石もくせ者です。岩がゴロゴロしているだけでなく、そこに落ち葉等が堆積していて、そうした見えない場所の浮き石が本当に危険なのです。浮き石に足を取られると、これまた見事にもんどり打って転倒することになります。これもまた、体験してないなんて人は居ないはずですよ~。(笑)

枯れ木、枯れ蔓による転倒を防ぐには。??
枯れ木に掴まることによる転倒を防ぐには、木の幹(沖縄では木の幹と思っても根だったりしますが…)にすぐに体重を預けるのではなく、一度グイグイと幹を強くゆすり、枯れ木や枯れ蔓でない事を確認してから、エイッと体重を預ければ大丈夫です。安全確保のために、逆に一切の木の幹や蔓に掴まらないというのは、確かに安全かもしれませんが、遺骨収集においては移動がとても非効率となりますので、グイグイと引っ張ってみて、安全が確認された木の幹にはどんどん掴まり、要領よく体重を預け効率よく移動しましょう。

また浮き石で転倒を防ぐには。??
それはやはり、木の幹や蔓に掴まる場合と同じように、すぐに全体重を乗せないようにするのがベストです。落ち葉などで路面が被覆されている場合は特に警戒しなければなりません。具体的には特に岩場に於けるジャングル行では、腰を少し落とし大股ではなく小股で歩きます。少しオーバーにいえば、「すり足、差し足、忍び足」のような歩き方がベストです。(笑)

これは端から見ておかしな歩き方に見えるかもしれませんが、見栄えなんて気にしていられません。こうした歩き方にすれば、浮き石に足を乗せても、浮き石が動き始め「アッ浮き石だ」と感知した段階で、まだ完全に体重を預けていませんから、転倒には至らずよろけるレベルに留まる可能性が高くなるのです。

以上「自分のペースで歩く」、「枯れ木や枯れ蔓であるか体重を預ける前に確認する」「小股で、且つ重心を落とした姿勢で歩く」というのを心に留めて行動してみて下さいませ。こうした注意を払ったにしても転倒をゼロには出来ませんが、転倒回数は減らせるはずですし、何よりも骨折に至るような深刻な転倒を抑制出来るに違いありません。即ちこれは大難を中難に、中難を小難にする方策です。

ちなみに私は毎年10日以上遺骨収集に取り組んでいますが、3回から5回程度ですが、運が悪ければ骨折に至るという深刻な転倒を必ず体験します。また深刻でない軽微な転倒は毎年十数回体験するといった所でしょうか。毎年この数値でだいたい安定しています。(笑) ですから、上掲記事のように、転倒しないためにはどうしたら良いか…。などと偉そうな話は出来ないというのが実態です。何十年とジャングルに入っているから転倒などしないと言ったら大間違い。(笑)

この「骨折に至る可能性のある深刻な転倒」とは、転倒により激しく身体が地面に倒れ込み、その際に片手または両手で地面に手をついてしまう。つまりこれは身体が倒れ込むと無意識に手をつこうとするので防ぎようがありません。手をついた岩場との関係で、或いは手にどれくらい体重が掛かっているかにより、そうした状況下で手がねじれるような事があれば、確実に手首や上腕骨、橈骨・尺骨の骨折に至るでしょう。骨粗鬆症でないからギリギリ骨折は回避されているというのが現状でしょうか。

また深刻な転倒として、もんどり打つと言うのでしょうか、浮き石に足を取られて大きく空を切るように転倒する際、背中から岩場に落っこちるような姿勢で転倒する事も多いです。毎年1回ないし2回は、この背中から落ちるような深刻な転倒を体験します。残念ながらゼロという年は無いと記憶しています。

幸いにこれまで骨折や捻挫は一度もありませんが、この好結果はそうした深刻な転倒の際に、リュックサックを背負っていたというのが一番の危機回避の理由であったと自認しています。リュックサックが衝撃を吸収してくれたのです。またもう一つ危機回避の理由を上げるとすれば、こうした激しく深刻な転倒をする際は、転倒に任せる、即ち逆らわないという点を強調したいと思います。転倒はアッというような一瞬の出来事であり、そうであるが故に転倒が始まったら転倒に任せる、回避しない逆らわないという事ですね。

悲しいかな加齢と共に、軽微な転倒、深刻な転倒共に増える傾向にあります。年々身体の柔軟性は無くなり、肉体は衰え筋力も減少の一途です。若い頃は一日ジャングルを歩き回って疲れが出ても、気力でカバー出来ましたが、今は駄目です。午後にはドッと疲れが出て歩く足も上がりません。これまで三十数年無事故で来ましたが、これからも無事故で行ける自信は全くありません。ですから一つの手立てとして、肉体の老化は如何ともしがたいですが、精神こそは思い込みを排除し、常に初心を忘れないようにするなど、精神だけは若い頃のような新鮮な状態になるよう心がけたいと念じています。

余談が長くなってしまいました。それではご一緒に束里のジャングルに入ってみましょう。

束里で調査

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.25

調査が始まりました。写真手前に白い岩が目立ちますが、上掲のご遺骨発見現場にほど近い事から、この辺りも当該団体が調査しているものと推測されます。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.26

切り立った岩も多く、複雑な地形をしています。左側が崖下になりますが、こうした複雑な地形は守備する側には好都合であったと推測されます。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.27

急峻な崖であるのが見てとれますね。写真手前部分から下に降りていけるのですが、今回はパス。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.28

通路のようになっています。もしかしたら交通路だったかもですね。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.29

菊池さんが将兵が居そうな壕を見つけました。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.30

壕入り口には戦没者遺品が集められていました。小銃弾もありますね。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.31

松永さんも壕を見つけ内部を調査しています。結構大きいですね。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.32

更に奥に入りました。上にそのまま出る事が出来るとの事。出入り口が二カ所ある壕という事になりますね。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.33

束里の崖の勾配がよく解る写真ですね。例えば首里戦線以北にある、嘉数高地や前田・仲間高地、そして島尻では最後の防衛ラインと言われた与座、新垣、国吉、真栄里ライン、また「魂魄の塔」から喜屋武岬灯台まで連なる断層崖も同じなのですが、この地域一帯の石灰岩で構成される平坦面が、活断層活動により切断され傾動地塊となっているからであり、結果として崖の南側が緩やかな傾斜となり集落が発展し、北側の断層崖の崖上にグスクが立地するという共通性があります。

ちなみに私達が調査しているこの場所から同じく崖に沿って東側方面に350メートルほど行くと崖上に「束辺名グスク」があるようです。「束辺名グスク」としての遺跡は、ごく僅かしか残されていないみたいですが、機会があれば訪ねたいですね。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.34

奥まった穴が開いているようです。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.35

藪でよく見えませんが、蛸壺のようになっています。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.36

ちょっと解りにくいですが、ここも人が隠れるには十分な空間があります。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.37

ここも壕ですね。内部は入れる十分なスペースがあります。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.38

崖に沿って少しずつ西側に移動しています。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.39

数人が入れそうな大きな壕がありました。この辺りではこうした規模の壕はほとんどありませんね。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.40

壕内部を調べている松永さんです。結構広いですね。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.41

遺品が見つかりました。革製品のようです。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.42

ビックリです。松永さんが見つけたのですが、ネズミと思われる頭蓋骨が出てきました。マングースではないかと言ってみましたが、ちょっと小さすぎるようです。ジャングルでは野生動物の遺骨も結構見かけますが、頭蓋骨はまず見られません。私もこれまで一度も見た事がありませんから、恐らくいち早く腐植してしまうものと思われます。それだけに極めて珍しい頭蓋骨だと、松永さんも私も感心しました。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.43

大きな岩の背後を見ています。所々窪地もあり作戦行動するには良い場所だと感じました。写真は菊池さんが、ここは作戦通路だったのではないかと推測しているようです。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.44

崖の高さも少しずつ低くなって参りました。この場所は入山した場所から西側方向に100メートルぐらい移動したでしょうか。しかしながら、この100メートルという感覚は、ジャングルを歩いての感覚ですから、実距離はもっと短いかもしれません。実距離はジャングルの外に出てみないと解りません。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.45

また壕がありました。崖上からの攻撃には絶好の場所です。入って見ましょう。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.46

松永さんが入りまして、中は結構広いという話です。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.47

数人入れる空間がある事が判明しました靴遺品がありました。収骨済みという雰囲気ですが、やはり将兵が中に居たと思われます。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.48

ここも作戦行動するには良い場所ですね。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.49

崖が緩くなってくるに従って、岩場が少なくなり、ジャングルというよりは藪のようになって参りました。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.50

松永さんが窪地のような場所を調べています。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.51

松永さんは午前中のみで作業を終えるという話ですから、一度外に出る事になりました。下に道路が見えています。この辺りは、崖もごく僅かという程平坦に近くなっていました。

お昼ご飯ですよ (^o^)

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.52

今日の昼食を頂く、「すば処 いーばる家」さんです。松永さんが連れてきて下さったのですが、場所は糸満市照屋で、私も初めて訪れるお店でした。定食を頂きましたが、とても美味しかったですよ。(^o^)

「すば処 いーばる家」さんのむかい向かいにある小高い丘は、その昔は照屋グスクがあった場所で、日本軍の構築壕も何本か掘られている場所です。この小高い丘に一番最初に来たのは、他でもない故国吉勇さんと遺骨収集情報センターの吉田さんと共に参りました。国吉さん曰く、「三日間探したが見つからない」と嘆いていましたが、其の理由は構築壕の壕口が二つあるうちの、一カ所は発見しているのだそうですが、もう片方の壕口がどうしても見つからないのだそうです。その壕口を探してほしいとの説明でしたが、私達は国吉さんが見つけられないのに、素人同然の私達に見つかるわけが無いと思いましたが、私達も後日探し回った経緯がありました。案の定見つかりませんでしたが、構築壕を調査したり見学したりと、色々と勉強になりました。

午後は菊池さんと二人で調査作業です

午後は菊池さんと共に摩文仁海岸線で調査作業です。(^o^)

「沖縄師範健児之塔」慰霊巡拝

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.53

昭和25年(1950年)6月に建立された「沖縄師範健児之塔」ですね。沖縄師範学校の野田貞雄校長ほか、戦没職員17名、生徒289名、計307名を祀っています。私達はまず「沖縄師範健児之塔」で手を合わせました。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.54

「平和の像」です。この像は、九死に一生を得て戦場から生還した沖縄師範学校生であった大田昌秀氏、外間守善氏、安村昌享氏らが、後に自らの戦場体験を綴った「沖縄健児隊」を刊行し、それが松竹により映画化された際の印税などを元に、大田氏が中心となって製作建立したものだそうです。像は彫刻家野田氏の作で、向かって右側の少年が「友情」を、中央の少年が「師弟愛」を、左の少年が「永遠の平和」を象徴しているとの事です。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.55

「平和の像」の後ろ側に回るとご覧のような風景になります。小さな壕なのですが開口部は結構大きいです。壕口は東を向いています。壕口は海上に展開する米軍からは見えません。また米軍機が上から見ても壕口があるとは絶対に見えないはずです。そして階段のある側は巨岩がそびえ立っていますので、「黎明之塔」がある上部からも壕口は全く見えないという実に素晴らしい場所にある壕だと解ります。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.56

「平和の像」の下の壕内の様子です。ブロックで仕切られた内部は納骨堂になっています。菊池さんがまだ見たことがないという話でしたから説明させて頂きました。

摩文仁海岸線で調査作業

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.57

「沖縄師範健児之塔」のある場所から、摩文仁之丘山上にある「黎明之塔」等に至る階段通路です。この階段を少し上がった場所からジャングルに入りたいと思います。

今日も基本的に調査作業です。事前にイメージしたルートを歩きます。多少の微調整はありますが、何時の時も必ず目標とする点から点までは歩ききり、点と点を連結して線として繋げます。こうして頭の中に情景と共に高低差も含めた地図を作り続けるのです。こうした頭の中での地図作りを30年以上続けていますので、摩文仁海岸線については、まだ空白の場所は多いですが、かなり地図らしくなってきました。(^o^)

その上で壕など後日調査するに能う場所を見つけながら歩き、そして崖上に登る避難ルートとも呼ぶべき場所を見つける努力をします。避難ルートは多く把握しておく程安心できますからね。いつでも滑落事故などが起こりうると覚悟していますから、危機管理としてそうした危急に備えておく必要があります。またこれら避難ルートは、後日近道としても活用できるメリットがあります。

そして更には実地検分をして土地勘や距離感を磨くというのが本日の目的です。目で見た事、身体で感じた事など、全ての情報を頭の中にインプットします。針の穴を通すほどの集中力で取り組んでいますから、これらは容易には忘れる事がありません。何年経っても記憶として脳裏に残ります。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.58

ジャングルに入ってしばらく進みますと、トラロープが張ってありました。この辺りは私も金光教の遺骨収集で二度ほど入っていますが、金光教はこのようなロープは使用しませんから、他の遺骨収集団体が張ったものと思われます。この辺りはジャングルに入りやすいので、戦後は数多くの個人・団体が入山し遺骨収集に取り組まれたものと思われます。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.59

地面が岩場ではなく、土壌質となっているために、アダンは無いのですがご覧のような蔓植物が繁茂しており、前進するには、なかなか大変ですね。(^^;)

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.60

地面が腐葉土を含む土壌質となっているのが見てとれますね。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.61

巨岩の下にご覧のような隠れ場所がありました。摩文仁には大勢の将兵や住民が避難していましたから、こうした壕と呼べない危険な場所にも多くの人達が身を隠したものと推測されます。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.62

ここを登らないと前進できないようです。登りましょう。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.63

トラロープがまだあるので、ロープに沿って進んでいます。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.64

周りに通行する場所がないので、この穴になっている通路は大勢が通行したかもしれません。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.65

竪穴のような壕です。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.66

ここも二人入れるぐらいの空間がある壕です。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.67

巨岩の裾を歩かないと前進できないようです。何とか突破しましょう。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.68

岩肌が煤で黒ずんでいる様子です。ここ摩文仁之丘、沖縄戦当時は89高地と呼ばれましたが、守備軍司令部が摩文仁にあると知った米軍は猛爆を加え、摩文仁之丘を白い石灰岩の山に変えてしまいました。この黒ずんだ煤は、往時のその名残だと思われます。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.69

ここにも黒くなった岩肌があります。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.70

ここま崖下という状況の場です。岩肌が真っ黒ですね。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.71

すでに気づかれたと思いますが、空き缶の山が出来ていました。高さは優に二メートルはあります。恐らく戦後上にある「黎明之塔」などに慰霊参拝された方々が購入して飲んだ飲料缶を販売業者が捨て続けたのではないかと推測されます。すでに50年とか60年経過している為か、山に足を踏み入れるとズブズブと缶が潰れて沈み込んでいきます。

また「勇魂の碑」と書かれた看板がありました。「勇魂の碑」と言えば、「黎明之塔」の少し手前にある碑ですよね。説明文なのか、「沖縄戦に於いて第32軍司令…」と書かれていますので、現在の碑文とは違っていますね。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.72

上から空き缶を投げ落としたのでしょう。広範囲に空き缶が散乱しています。私達はこの岩穴を通って前進しました。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.73

再び樹木や植物が繁茂している場所に出ました。崖下ですから土壌質ですし水気もあります。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.74

基本的に左に崖を見ながら、歩きやすいルートを進むという感じです。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.75

少し解りにくいですが、この辺りもゴミが驚くほど捨てられています。全てのゴミが、崖上から投げ落とされたものと推測されます。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.76

結局この岩の割れ目は通れませんでした。右側から大きく回って前進する事となりました。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.77

樹木や植物の繁茂が半端なく、どうしても歩きやすい崖の麓に来てしまいますね~。(^^;)

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.78

小休止です。(^o^)
菊池さんです。年齢は結構なお年なのですが、身体と頭脳は10年も若く見えると言えるでしょう。菊池さんは金光教の遺骨収集にも長年参加されていましたが、故国吉勇さんとも繋がっていましたし、他の団体の遺骨収集にも積極的に参加されていたとの事で、洞察力も確かで複眼的な見方が出来る方です。御遺骨発見の体験も多くお持ちで、長年の体験を十全に生かして取り組まれています。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.79

さあ調査作業再開です。このブッシュを強行突破します。(^^;)

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.80

やはり崖下に戻ってきました。とてもじゃないけど前に進めません。1時間で50メートル進めないようだと、夕方までに目的とする地点まで行き着きませんから、ここからは崖下を中心に前進しようと思います。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.81

V字の隙間がありました。楽チンです。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.82

急勾配になってきました。岩肌が露出しているので、歩きやすいですからグングンと登れました。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.83

壕ではなく岩のトンネルになっています。このまま前進しましょう。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.84

再び歩きやすい平坦な場所にでました。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.85

二年前に設置したナイロン紐を発見。(^o^)
少し解りにくいですが、写真には斜めに白いナイロン紐が写っています。10年ぐらいは持たせようと、結構丈夫なナイロン紐なのです。このナイロン紐は、二年前の平成28年第43回を数える金光教の遺骨収集最後の収集地域という事で私が展開したナイロン紐なのです。このナイロン紐を辿ると、平和祈念公園の国立沖縄戦没者墓苑付近の崖上に登る事が出来ます。長さ200メートルぐらい展開していまして、第43回の遺骨収集調査・収集作業地域には入っていません。あくまで本来の場所が二日間で収集され尽くした場合は、参加者が手持ち無沙汰になる可能性がありますので、その場合に備えて予備の収集地域として確保して置いた場所でした。ですから、第43回の遺骨収集調査・収集作業では、ほとんど利用されませんでした。

このナイロン紐についてですが、戦没者遺骨収集情報センターの了解を得て設置してあります。その昔ナイロン紐が設置してあった為に、警察による実況見分や自衛隊による不発弾処理班の方々がスムーズに行動できたという経緯があり、その後はむやみやたらにナイロン紐を展開するのは好ましくありませんが、必要に応じて設置する分については問題ない、寧ろ推奨するという見解を頂いていますので、私達も自身の判断でその都度必要に応じて設置させて頂いています。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.86

平成28年第43回金光教沖縄遺骨収集奉仕活動の際にもご紹介したゴミ山です。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.87

菊池さんの前のこんもりした部分は、すべてゴミです。崖上から落とされたものと推測されます。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.88

V字谷を上から撮影しています。落っこちたらほぼ死にますね。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.89

根ではないので、地面を這う枝とでも呼ぶのでしょうか。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.90

崖部分を登っています。あと少しで公園内に出ます。二人とも事故もなく調査作業終了となりそうです。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.91

無事に公園内に入りました。午後に踏破したルートを検証しようと「黎明之塔」に向かっていますが、途中遊歩道右側にあるガジュマルの木を撮影しました。よく見るとガジュマルだけの木ではなくて、元々他の木があったところに、ガジュマルが絡みついたという状況です。ガジュマルは「締め殺しの木」とも呼ばれていまして、写真は締め殺すように他の木に巻き付いているのがよく理解できる写真ですね。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.92

「黎明之塔」附近に到着しました。同塔の東側方面、先ほど私達が歩いたルートを俯瞰しています。写真手前から奥の方に歩きました。写真右側部分をよく見ますと、山の陰などから稜線が三本走っているのが見えるでしょうか。これら稜線の山裾を東西に将兵や避難民が行き来したと思われますから、今後の宿題として捉えたいと思います。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.93

「黎明之塔」附近から西側方面を見ています。写真中央部は心なしか平坦部になっていますが、この辺りは摩文仁のハンタ原と呼ばれた場所です。平坦な場所はそれほどありませんが、雰囲気としては原っぱという雰囲気ですよね。また上掲写真の続きですから、この写真にも三本の稜線が写されています。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.94

帰路につきました。「黎明之塔」の近くに第三十二軍司令部壕があるので立ち寄りました。この階段の下にあります。遊歩道及び階段が新設されて歩きやすくなっています。以前は一人で来るのが怖いぐらいの暗い雰囲気でしたが、確実に明るい雰囲気となりましたね。

2018年1月18日/遺骨収集の様子no.95

第三十二軍司令部壕です。壕口はここと稜線北斜面にもう一カ所、そしてトイレとして利用した壕口があり、更に垂直坑道口があるという配置でした。私達も内部に入ったことがありますが、あまり大きくはない壕だと感じました。この壕口も沖合に浮かぶ米艦船から砲撃を受ければ、壕口から20メートルぐらいに居る将兵は死傷する可能性があります。また稜線北斜面の壕口も戦車砲は直接的には打ち込めませんが、登坂してきた兵士による火炎放射攻撃は真面に受けてしまいます。そうした点を加味すれば、垂直坑道からの攻撃も実際にありましたし、壕内の安全地帯はかなり狭いなと感じたわけです。

またこの司令部壕内では調理するスペースはありませんから、崖下にある壕で調理して、飲料水を含めて運び上げていました。司令部壕から、私達も入った事のあるその下の壕までの距離は直線でおよそ100メートルです。下の壕から水場としてのチンガー(金井戸)までは更に50メートル先にあります。

崖上の司令部壕から下の金井戸まで、沖合に浮かぶ米艦船から、少なくとも三分の二ぐらいの範囲で見えていたはずです。見えている範囲については、常に機関砲の照準を合わせられていた可能性があります。こうした状況から摩文仁之丘の木々が砲撃で全て吹き飛ばされ白い石灰岩の山であった事を考えると、司令部壕への飯上げや水の運び上げは、沖縄戦末期になる程命がけであったと思われます。

沖縄戦を詳細に書き記した『沖縄決戦』(八原博通著)によれば、「小径を下りつくした脚下の海岸には直径十数メートルの泉があり、その傍らには巨大な奇岩に囲繞された洞窟がある。泉は命の綱とたのむ唯一の給水源で、洞窟は炊事場になっている。戦況急迫した場合、果たして山上の洞窟と断崖下の生命源が連絡を保持し得るや否や…」と書かれています。

私達は手を合わせ、自決された牛島司令官や長参謀長、そして戦没された将兵のご冥福をお祈りしました。

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