平成30年(2018年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月24日(水) 八重瀬町安里で調査・遺骨収集、八重瀬町による遺骨発見現場調査

今日の天気予報は曇りです。降水確率午前午後が30%と20%で、本島では午前中を中心に雨が降るところがあるとの事。最高気温は19度の予報ですから、20度を割り込んでおり活動しやすい天気になりそうですね。今朝の慰霊巡拝は、「開南健児之塔」そして「魂魄之塔」「有川中将以下将兵自決の壕」です。それではご一緒に慰霊巡拝しましょう。(^o^) 

「開南健児之塔」

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.1

「海南健児之塔」です。戦没された勤皇隊学徒隊員を祀っている慰霊塔のひとつです。 塔は平和創造の森公園内の小高い丘の上にあり、背後は海ですから波音が聞こえてきそうな静かな環境にありますね。地面には砂利が敷き詰められ、両側にはモモタマナ (桃玉名)、別名コバテイシが植えられています。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.2

沖縄戦で戦没した私立開南中学校の職員4名と一期生から九期生までの274名が祀られています。沖縄戦では、在校生68名が動員されました。生徒達は鉄血勤皇隊や通信隊を組織し、第六十二師団独立歩兵第二十三大隊、同師団司令部などに配属されました。生徒達の任務は不明な点が多いそうですが、危険な任務に就くことも多くあったとされ、66名の犠牲者を出しました。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.3

沖縄戦で戦没した私立開南中学校の職員4名と一期生から九期生までの274名が期毎に記載され祀られています。

「魂魄之塔」

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.4

米須にある「魂魄之塔」です。米須霊域の中心的存在と言えるでしょう。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.5

「魂魄之塔」です。昭和21年1月、収容所に捉えられていた真和志村民は帰郷を許され戻ってみますと、地域一帯は死屍累々の場になっていたといいます。そんな光景を目の当たりにした初代金城和信村長は奥様と共に地域住民の協力を仰ぎ、まず遺骨収集から始めたといいます。二万余柱を奉じて同年2月建立された慰霊塔を「魂魄之塔」と命名しました。

最終的に三万余柱が納骨されましたが、昭和54年2月には国立戦没者墓苑に、一部の御遺骨ですが移されたそうです。摩文仁の丘や魂魄の塔がある米須、そして伊原には、全国のすべての都道府県慰霊碑がありますが、唯一「沖縄県の碑」は存在していませんが、この「魂魄の塔」が沖縄県の碑といえるかもしれません。6月23日の慰霊の日には地元民だけでなく、大勢の方々が「魂魄の塔」へ慰霊参拝に訪れるそうです。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.6

「魂魄の塔」碑文です。読めますね。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.7

平成7年(1995年)に除幕された翁長助静氏の詩が刻まれています。

「金城和信翁の胸像」

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.8

「金城和信翁の胸像」です。金城和信村長は二人の娘さんを沖縄戦で失っています。そうした事もあり、「私は生涯遺骨を背負うて生きぬく」と語られるなど、奥様と共に真和志村住民の協力を仰ぎつつ、遺骨収集に全力で取り組まれた方でした。そして「魂魄之塔」を始め、「ひめゆりの塔」「沖縄師範健児之塔」など慰霊碑建立にも尽力されました。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.9

「金城和信翁の胸像」の横には横にはハイビスカスの花が咲いていました。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.10

薄いピンク色の綺麗な花ですね。(^o^)

「有川中将以下将兵自決の壕」

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.11

「魂魄の塔」の向かいにある道路を進むと「有川中将以下将兵自決の壕」があります。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.12

昭和56年6月に建立された、石第六十四旅団戦没者を祀る「有川中将以下将兵自決の壕」です。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.13

碑文です。ギリギリ読めますね。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.14

慰霊塔の横に噴火口のように口を大きく開けた壕がありました。直径は10メートルぐらいでしょうか。手摺りがついているから降りられるという話は、数年前に参拝した時に同行者から聞いたことがあるので、壕の周囲を探索してみましょう。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.15

ザーと見て回りましたが、降りられそうな場所はありません。革靴ではなく遺骨収集の服装で本格的に探さないと駄目みたいですね。いつかしっかりした装備で挑戦します。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.16

サトウキビの出荷準備が完了しているようです。よく見ないと解りにくいですが、結束されていますね。サトウキビは、刈り取った後放置しておくと糖分が変化して品質が低下するそうで、製糖工場の操業状況に合わせ、集落毎にサトウキビの集荷作業日が決まっているそうです。その予定日に合わせて農家の皆さんは収穫作業をするという話です。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.17

こちらのサトウキビはまだ若いですね。さとサトウキビの栽培は、「夏植え」「春植え」「株出し」の3種類があるそうです。夏植え、春植えは「挿し木植え」という方法で、キビの枝を挿すことで栽培します。夏植えは1年半、春植えは1年かけて栽培し、いずれも春先に収穫するそうですから、この写真の苗は昨年の夏に定植したもので、来年の今頃収獲という流れでしょうかね。

調査・遺骨収集作業開始です

本日も終日安里で調査・遺骨収集作業に取り組む予定です。それでは事故に気をつけ一日頑張りましょう。(^o^)

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.23

本日も昨日と同じ場所での作業となります。まずは独立混成第四四旅団工兵隊戦没将兵及び軍に協力し戦没された現地住民の方々が眠る「萬朶之塔」で手を合わせました。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.24

戦没者のご冥福をお祈りするメンバーの皆さんです。奥から福岡さん、金城さん、そして豊澤さんです。

メンバーの皆さんは、安里で昨日と同じ場所で調査・遺骨収集作業を継続する予定です。そうした中で私は松永さんと共に、すでに御遺骨が発見されている具志頭にある壕に出向き、御遺骨の収集作業に向けての準備を開始する予定です。

すでに発見されている御遺骨について、経緯は次の通りです。
御遺骨は昨年9月、立命館大学の学生と沖縄鍾乳洞協会のメンバーが調査のために前ヌ山の洞窟に入った際に発見したとの事。沖縄鍾乳洞協会の山内平三郎理事長が戦没者遺骨収集情報センターの中野修調査員に現地調査を要請し、中野修調査員が現地調査をした結果、遺跡の可能性もあるので、年代について詳細な検査をする必要があるとの事で、「御遺骨の年代を測定するために検体を採取する」という意味で、私達が遺骨収集する事になっています。その為の下見を今から行いますが、まずは当該御遺骨発見現場についての琉球新報記事をご覧下さいませ。(^o^)

【前ヌ山洞窟に遺骨 八重瀬 戦没者、風葬可能性も】

「琉球新報」2017年12月28日

【八重瀬】沖縄鍾乳洞協会の山内平三郎理事長(70)と理事の松永光雄さん(64)、仲里廣茂さん(72)らがこのほど、八重瀬町具志頭の具志頭体育館近くの前ヌ山で、大腿(だいたい)骨や頭蓋骨の一部を発見した。沖縄戦犠牲者の遺骨の可能性がある一方、戦前に風葬された古墓の可能性もあるとして、県平和祈念財団戦没者遺骨収集情報センターの中野修調査員(61)が18日、沖縄鍾乳洞協会のメンバーと一緒に前ヌ山に入り、遺骨の状況を確認した。

遺骨の時代については来年以降、同センターが検体を調査し判断する。

遺骨は今年9月、立命館大学の学生と沖縄鍾乳洞協会のメンバーが調査のために前ヌ山の洞窟に入った際に発見した。洞窟の中の斜面に大腿骨3本、頭蓋骨の一部、あばら骨などが並んでいるのが確認された。山内理事長は「斜面の下側には他の骨や歯などがまだある可能性が高い」と話す。遺留品などもないため、山内理事長らは骨の状態から年代を特定させる必要があると判断。中野調査員を招いた。

山内理事長は「沖縄戦当時の住民なら何も持っていない。周囲に軍装備があればすぐに兵隊の遺骨だと分かるが、何もなければ判断が難しい」と語る。

骨の状態を確認した中野調査員は「年代について詳細な検査をしなければ分からない。遺骨は、遺跡の可能性もあるのでうかつに収骨することはできない。もし古墓ならば(収骨自体が)失礼になる」と指摘した。

2018年にボランティアによる遺骨収集を実施する際に、警察や町の文化財課の了解を得た上で検体を採取する予定だ。

「琉球新報」から転載させて頂きました

琉球新報記事にも書かれていますように、「遺骨の時代については来年以降、同センターが検体を調査し判断する」として、御遺骨は収容され年代の判定が為される事になっています。その上で収骨作業については、沖縄鍾乳洞協会理事である松永さんが、戦没者遺骨収集情報センターと相談して、私達が収骨する方向で調整して下さいました。今こうしてその収骨作業の為の下見をしているという訳です。

具志頭の御遺骨発見現場を調査

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.25

八重瀬町の社会福祉課・遺骨収集の担当者がお見えになりました。遺骨収集作業着手に向けて今から現地調査をして頂きます。私達が歩いている場所は遊歩道として整備されており、樹林帯の中を海岸まで歩いて行けるコースになっているようです。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.26

案内して下さるのは沖縄鍾乳洞協会の理事ででもある松永さんと仲里さんです。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.27

稜線を過ぎて下り道に入ると、左側には大きな岩がそびえ立っているのが見えてきました。この巨岩はその昔は、港川に帰る船の良い帰還目標になったそうですよ。かなり遠くからこの大きな岩が目視出来たそうです。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.28

稜線を過ぎ、今は遊歩道を下っていきます。遊歩道をこのまま進むと、夏は海水浴客で賑わう「ぐしちゃん浜」に出るそうです。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.29

ジャングルに入りました。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.30

巨岩が居並び複雑な地形をしていますね。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.31

ここが壕口ですね。中に入ります。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.32

壕口附近に青テープがありました。言わずもがなで青テープは、金光教の遺骨収集がこの壕で行われ収骨済みである旨の表示です。即ち私達が入ろうとしている壕は、すでに金光教の遺骨収集が行われた事を意味しています。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.33

壕口から入って4メートルぐらい進むと、割れた素焼きの水瓶が散乱していました。壕口は写真でお解りのように狭く入りずらかったのですが、この割れた水瓶がある部分は、立つ事こそ出来ませんが、10畳敷きの部屋と呼べそうな広い空間となっています。嘗てここは風葬墓であったようです。そして自然壕のようです。沖縄戦では良い避難壕として活用されたに違いありません。壕口からこの空間まで少し曲がっており、壕口に至近弾が落ちても、中に居れば安全だと思えます。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.34

更に奥に入っていくようです。坑道は下っています。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.35

坑道に缶詰の缶がありました。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.36

これは何か解りませんが金属製のようです。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.37

鍾乳石です。珍しい形状なので写真に収めました。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.38

御遺骨発見現場まで、更に奥に入って行くようです。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.39

御遺骨発見現場に到着したようです。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.40

御遺骨がある場所を踏んだりしないように、青い紐で囲っているとようです。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.41

発見された御遺骨の様子です。御遺骨は斜面にありました。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.42

一番長い骨はご存じ大腿骨です。丸い大腿骨頭もしっかり残っています。大腿骨の下に脛骨があります。大腿骨の上にある小さな骨は、腓骨と思いきや、膝下の腓骨ではなくて、腕の骨である尺骨がありますね。尺骨は肘側の特徴ある形状が残存していますので間違いありません。尺骨の上にある破片のようなものは頭蓋骨の一片です。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.43

頭蓋骨が二片あります。上側の一片は目の上部分ですね。右目側です。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.44

肋骨や手先の骨が沢山見えます。頭蓋骨一片も見えます。大きな骨は脛骨ではありませんし上腕骨でもありません。一番可能性の高いのは大腿骨ですが、両端が無いので、両端のある大腿骨と並べ見て比較しないと断定は出来ません。今は御遺骨に触れる事は出来ませんので、後日収骨すればどの部位かはすぐに特定出来ます。写真に写されている範囲については、まだ手つかずで触ってないという事でしたが、了解を得て私も少し指先で細かい骨を動かしたりして観察しましたが、細かい骨が数多く埋まっている状況でした。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.45

人間が横になっている姿をイメージして頂ければ納得して頂けると思いますが、一番重い大腿骨や脛骨が最も移動していないと仮定すると(大腿骨と脛骨が折り重なっているので、大腿骨も20センチ以上下に落ちたと思われますが)、少し離れた場所にある頭蓋骨の位置を考察しますと、この写真の中にも頭蓋骨の一片がある事からして、露出している頭蓋骨片合計4片の位置を観察しますと、頭蓋骨が二個並んでいる写真について、この二個もすでに下側に移動している可能性があります。つまり頭は大腿骨の位置よりも上にあったのではないか。

傾斜面ですから、傾斜面の上側が頭があるのは寝る時のリラックスした自然な状態の姿だと思います。そして更に細かく言えば、大腿骨の上側には小岩が飛び出ていますから、そこは寝るには身体が痛いですし、頭蓋骨二片がある側に細かい骨が集中してありますから、全ての骨は傾斜面に沿って下に落ちた事は間違いないので、亡くなられた方は、傾斜面に垂直に居たというのではなく、傾斜面に対し例えば30度とか40度ぐらい斜めの姿で寝ていたと結論づけて良いと思います。

この亡くなられた方は、傾斜面に自然な姿である頭を上側にして寝ていたと仮定すると、細かい骨がほとんど全部足下側に落ちて、しかもかなり土砂に埋もれた状況にあるというのは、この傾斜面は雨が降ると雨水が流れると推測されます。戦後73年ですから、大雨を伴う台風だけに限定しても、年3回×73年=219回も、もしかしたら傾斜面を雨水が流れ、細かい御遺骨を下側に流したと言えるでしょう。

また御遺骨のあるこの場所は、地表に近いと推測されます。その証拠として、土の部分にはあちこち樹木の根も見えています。後の写真で説明していますが、暗黒の壕内から外の光が見える場所もあります。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.46

日本軍将兵が携帯した缶詰の缶です。御遺骨のほど近い場所にありました。この御遺骨が日本軍将兵であるかどうかは現時点で断定は出来ませんが、この壕内に将兵が居たというのは間違いないでしょう。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.47

写真のピントが少し外れて見にくいですが、これも金属的な物のようです。劣化状況も上掲の空き缶と同じぐらいですから、やはり沖縄戦当時、この壕内に持ち込まれたというのが妥当だと思えます。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.48

写真は石垣を写しています。人為的に石を積み上げたと思われます。しかも内側から、つまり壕内側から積んだとしか思えない形跡です。写真左下に割れた瓶がありました。また写真左上に注目して下さい。光が差し込んでいます。何カ所か光を感ずる場所がありました。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.49

壕を出て帰路につく前に、上掲写真の光が差し込む場所を外から確認・特定しようとしましたが、ちょっと無理でした。ただ岩が連なっている場所の隣はほとんどが平坦になっているので、雨が流れ込むとおぼしき場所は無数にある事が判明しました。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.50

仲里さんが、ご覧のような大きな鉄片を見つけました。艦砲砲弾の破片でしょうかね。こんなのがぶっ飛んできたら…。

再度書かせて頂きますが、琉球新報記事にも書かれていますように、「遺骨の時代については来年以降、同センターが検体を調査し判断する」として、発見御遺骨は収骨され年代の判定が為される事になっています。その上で収骨作業については、沖縄鍾乳洞協会理事である松永さんが、戦没者遺骨収集情報センターと相談して、私達が収骨する方向で調整して下さいましたので、明後日からの収集作業では、御遺骨周辺の土砂を全て外部に運び出しフルイに掛けて、遺留品などの残置物や状況データも含めて全てを戦没者遺骨収集情報センターに提出したいと思っています。

沖縄戦戦没者御遺骨か風葬骨か?

海外での戦没者遺骨収集はどうか解りませんが、少なくとも沖縄での遺骨収集では、沖縄戦戦没者御遺骨か風葬骨か? という問題は、常について回る諸問題と言えるでしょう。金光教の遺骨収集でも、「風葬墓及び風葬骨については、県民の心に関わる問題なので、触らないようにご注意下さい」との書き出しで、一項目設け風葬骨の特徴を列記して、参加者に沖縄には戦没者御遺骨とは違う御遺骨が捜索地域に存在するので、触ってはならない旨記述されていました。

また金光教の遺骨収集では、発見された御遺骨について、収骨作業を開始する前に、必ず班長やベテランさんによる、戦没者御遺骨なのか風葬骨なのかチェックが入りました。そして班長やベテランさんでも判定しがたい現況の場合、本部に無線連絡して(昔は携帯電話が無い時代でしたから、各班は本部と無線機を使って連絡を取り合っていました。無線中継所も設けていました)、本部のベテランさんに判定してもらったり、場合によっては本部テントからベテランさんが現地に来て判定をしていました。

そして事前説明会でも、風葬墓及び風葬骨について注意を喚起するなどしていましたが、残念ながらこの問題は金光教の遺骨収集でも、常に抱えていた避けがたい問題でした。沖縄戦戦没者御遺骨に混ざって、ごく僅かですが風葬骨が本部テントに届けられていたと、林先生が率直に述懐しておられました。

発見された御遺骨が、沖縄戦戦没者御遺骨なのか風葬骨なのかという問題について、今こうして振り返ってみると、私が参加し始めた30年以上前などは、その判定は比較的容易であったと感じます。昔は沖縄戦戦没者御遺骨であっても風葬骨であっても、それぞれ固有の特徴が発見された御遺骨にしっかりと表出されていたのです。両者の差が余りに大きいために判定間違いもごく僅かしか起こり得なかったのです。

時は流れ沖縄戦終結から73年が経過しました。近年では沖縄戦戦没者御遺骨と風葬骨の、それぞれ固有の特徴が相似しつつあるといいましょうか、両者の境界線が不明瞭になりつつあると認めざるを得ません。昔の私は沖縄戦戦没者御遺骨と風葬骨の判定について、絶対的な自信がありました。しかしながら、近年はその判定に於いて、自信が持てないケースが増えて参りました。御遺骨が雨露に当たる、つまり露天にあった御遺骨、また壕内でも埋没骨についてそれは顕著です。

今回立命館大学の学生と沖縄鍾乳洞協会のメンバーが発見された御遺骨を、明日から収骨作業をさせて頂くに際し、ここで下見させて頂いた御遺骨について、私なりに見解を述べさせて頂きます。遺骨収集で最も大切な点はと問われれば、観察力を磨くという点に尽きますからね。

目の前にある御遺骨が沖縄戦戦没者であるか、風葬骨なのか、或いは古代の人骨であるのか等の疑念がある場合は、ボーと見て漠然とした判断で終わりにするのではなく、しっかり観察し推測するという事は、自らの観察力・洞察力を磨く格好の良い機会になります。ですから遺骨収集作業に於いては、そうした視点をいつも頭の隅に置いて、しっかり作業に取り組ませて頂きますし、結果を松永さんを通じて戦没者遺骨収集情報センターにお伝えする手はずとなっています。

その上で、発見されている御遺骨の特徴について、収骨前の現時点における私なりの見解を述べさせて頂きます。
1,御遺骨は極めて発見しづらい場所にあった。
2,壕口から約40メートルも奥まった場所に風葬墓は設けない。
3,缶詰の缶等があり兵士又は避難民が居住した可能性がある。
4,発見御遺骨は風葬骨の特徴と若干違う。

それでは各個に説明させて頂きます。

1,御遺骨は極めて発見しづらい場所にあった。
私達は壕口から一緒に順序よく並んで中に入っていきました。写真を撮る関係で、私が一番最後になるのが通例ですが、今回も私が一番最後に入って行きました。

入ってすぐに広い空間があり、そこは割れた素焼きの水瓶が散乱している事から、風葬墓だったと思われます。外部からの直接的爆風を避けられる場所として、将兵や避難民も大勢この空間に居たに違いありません。この空間で何枚か写真を撮影しました。先行する人達はすでに見えませんが、人がやっと通れるような坑道を進んだのを見ているので、私も少し遅れて坑道に入って行きました。少し下り坂になっており、狭い坑道を下りながら10メートルぐらい下ったでしょうか。そうすると若干広い空間に出ました。

降りきったその場から、私は左方面に行きました。と言いますのも、右側には行けないように見えたからです。左側方面に進むと二手に分かれてはいるものの、すぐに行き止まりである事が見てとれます。「アレッ先行するメンバーが消えた」と私は感じました。途端に私は焦りました。進むべき坑道が無いなんてあり得ないと必死に探しました。

必死に探しましたがありません。どうしても探す事が出来ませんでした。焦った私は「松永さーーーん、どこーーー」と叫びました。手を耳に当て静かにすると、「こっちだよー」という声が、降り立った場所の右側から聞こえてきました。エーーッと私はビックリしました。どう見ても右側には行けるような隙間は無かったのです。でも声がする以上は、道があるはずですから、姿勢を低くしてあちこち見渡しましたら、進むべき坑道がありました。15メートル程進むと松永さん達が御遺骨の前に立っており、無事に合流出来ました。(^o^)

つまりこう言う事でした。ヘッドライトで照らすと、そこはデコボコした岩が連なっているだけで、通路があるなんて全く感じられません。ヘッドライトつまり、目の上から照射する光による陰の発生では、岩の壁面しか無いと見えてしまうのです。ですからヘッドライトを用いて普通の感覚でその壁面を見ると、更に奥に進める坑道があるなんて全く感じない筈です。

この私達が入っている壕口に、金光教の遺骨収集で収骨作業を終えた場所として表示する青テープが巻かれていたと書きましたが、恐らく推測ですが、壕口から入ってすぐの風葬墓辺りで亡くなられた戦没者の遺骨収集はしたものの、更に奥にある現在松永さん達が居る場所の、立命館大学の学生と沖縄鍾乳洞協会が見つけた御遺骨は、私が坑道を見つけられなかったのと同様に進むべき坑道が発見出来なかったので御遺骨に到達出来なかった…。そう感じます。

私が先に進めなかったこの場所が、先に進む坑道を見つけるのが如何に困難であるかを表すものとして、後日談ですが、次のような事態が発生しました。26日朝から発見されている御遺骨の収骨作業を開始しました。昼食のために、全員一度壕から出ました。そして午後の作業をする為に、皆さんが壕口から入って行きましたが、私が迷った場所で皆さんも先に進めなくなっており私に声が掛かりました。

この様に極めて例外的な構造の洞窟壁面であり、ヘッドライト光では認識不可の解りにくい場所であったという事です。壕口は目立っているので、金光教の遺骨収集以外の他団体もこの壕の入ったと思われますが、私が迷った場所から先には、如何なる団体も入ってなかった…。更に進める坑道があるなんて知り得なかった。という事かも知れません。戦後72年を経て初めて、昨年9月立命館大学の学生と沖縄鍾乳洞協会のメンバーが現場に到達した。さすが洞窟探検のプロは違います。到達すれば誰でも発見出来るぐらい目の前に御遺骨が散乱しているのですからね。そうとしか考えられません。

道に迷いやすい方への御提言
遺骨収集に参加される方で、「ジャングルで道に迷いやすい。洞窟で方向感覚を失い焦った」などの感想を持つ方も多いかも知れません。私も例外ではなく住宅街などでも道に迷いやすいタイプだと自認していました。遺骨収集を始めた頃の私もその傾向が見事に出てしまい、とても道に迷いやすくジャングル帯で一人になるのがとても怖かったです。

御遺骨を見つける事に集中するあまり、気づけば周りに誰も居ないという事態が良くありました。こうした場合例外なくパニックに陥りました。向かうべき方向が全く解らないのです。しばらくウロチョロすると、班員が散在する場に出るのですが、あの方向を見失ったパニック状態というのは言葉で言い表せない恐怖感を伴いますよね。

しかしながら現在はそのような状況から脱し、ジャングル帯で方向感覚を失いやすい曇天や雨天の日でも、道に迷わなくなりました。同じく方向感覚を失いやすい洞窟内でも迷わなくなりました。近年は単独でジャングル帯に入る事も多いですが、単独行でも不安はありません。なぜ克服できたのか! 完璧ではありませんが、その秘訣をご紹介します。道に迷いやすい人は、きっと少なからず改善出来る筈ですよ。

なぜ道に迷わなくなったり洞窟内で迷わなくなったか…。その秘訣をご紹介しますと、ジャングル帯で風景が変わったりした時、また洞窟内で狭い坑道から広い空間に出た時など、風景が変わったと感じた時に、必ず振り返って来た道を見る のです。そしてこれを習慣づけるのです。

道に迷いやすい方ほど、前ばかり見て後ろを振り返って見てないと感じます。振り返って見れば、どこから来たのか残像が頭に残ります。道に迷ったとき残像があれば来た道を戻れる可能性が高まります。結果としてパニックになりにくいのです。つまりこれは頭がパニックにならない為の方策なのです。パニックにならなければ普段と同じ状態。そうです、冷静で居られるのです。道に迷いやすいと感じている方は、ぜひ試してみて下さいませ。(^o^)

2,壕口から約40メートルも奥まった場所に風葬墓は設けない。
那覇方面など都市部はどうか解りませんが、南部戦跡国定公園内にある風葬墓については、無縁墓と同じように放置されているのが多いです。しかしながらその昔は、家々のお墓としてしっかり守られ墓参を欠かさなかったに違いありません。先祖崇拝がしっかり根付き、先人をとても大切にする沖縄の風土を思えば、庶民のお墓であった風葬墓はとても身近な存在であったと思います。

風葬墓での墓参についても、家族や更に大人数の一族でお墓に向かったと考えられます。そして墓前で賑やかに飲食したのでしょう。叔父や叔母さんも帯同した筈です。そうした場合に、あまりにジャングル奥深くに風葬墓を設けたら、転倒するなど危険度が増しますので、気軽に墓参り出来なくなってしまいます。という訳で、これまで見てきた幾多の風葬墓は、道路や山道からほどほどの距離に風葬墓が設けられています。

道路や山道から数十メートル以内に風葬墓があるというのが一般的です。また壕の中に設けられている場合も多いですが、壕の入り口近くに設けられる場合がほとんどです。今回のように壕の入り口附近に良い場所があるのに、あえて奥深くに設けるというのは不自然です。

また匍匐前進しなければならないような、また狭い坑道を利用しなければ通れないような場所にも風葬墓は設けません。発見御遺骨のある空間に到達するには、匍匐前進する部分や這って進むような狭い坑道部分が多々ありました。ヘルメット無しではとても危険です。お墓参りに行くのにヘルメット持参というのも聞いた事がありません。今回のケースでは壕口から入ってすぐの所に素焼きの割れた水瓶があった事から、そこが風葬墓であったと思われます。そうした事もあり、およそ40メートルぐらい中に入った所で発見された御遺骨は、風葬骨の可能性は低いと言えます。

,缶詰の缶等があり兵士又は避難民が居住した可能性がある。
日本軍将兵が携帯したり持っていた缶詰の缶が、発見御遺骨のほど近い所にあった事から、日本軍将兵もしくは避難民が居たという事は間違いないようです。発見された御遺骨は壕の一番奥まった場所で発見されました。そこはかなり広い空間で、場所によっては立って歩ける程の広い空間がありました。地面に目をやれば、空間の全てが傾斜面となっていて、また床面は岩だらけの場所なのですが、御遺骨のある場所だけは、目立った石のない地面になっていました。つまり広い空間の中で一番居心地の良い場所なのです。寝たり休憩するのに最高の場所です。

そんな座り心地、寝心地の一番良い場所ですから、そんな所に古代人の骨や、風葬墓の風葬骨があれば、たちどころに踏みつけられたり、押し出されたりして御遺骨は四散してしまうでしょう。結果として全ての御遺骨が傾斜面の下に集積したに違いありません。

日本軍将兵や避難民が居た事は間違いないのに、発見された御遺骨が、空間の一番良い場所に自然に横たわっているのですから、御遺骨は少なくとも沖縄戦戦没者であると見るのが自然だと思います。

4,発見御遺骨は風葬骨の特徴と若干違う。
風葬とは小作人などが、やむなく行っていた慣習であると沖縄の歴史書には書かれています。骨壺もお金のある人は、装飾の施された厨子甕で、無い人は素焼きの水瓶や油瓶に納めたそうです。そうした中で風葬は、沖縄本島では明治初期の頃に衛生上の問題から禁止されたそうです。但し一部の文献には沖縄本島において戦後の1960年代まで風葬は続けられたという記述も見られます。

明治初期と言えば、今からおよそ140年ぐらい前に風葬は禁止されたという事になり、現在南部戦跡一帯に散在する風葬骨は、一番新しいもので140年経過しており、更に古い骨は200年とか300年とか経過している風葬骨もあるという事になります。一方沖縄戦戦没者御遺骨は、73年経過しているという事になりますね。

今回の発見後遺骨が風葬骨であるかどうか論評する前に、ここで私がこれまで遺骨収集作業中に目撃した風葬墓内部の風葬骨の写真7枚をご覧下さいませ。初めて風葬骨をご覧になる方は、人骨が水瓶に入れられて道路脇の岩陰などにごく普通に置いてあるのですから、少しビックリするかも知れません。

※ご注意:これからご紹介する風葬墓について、墓を覆う石垣を一部移動して撮影したなどと言う、墓荒らしのような行為は一切していません。面前の積み上げてあった石垣も修復されないままに、内部も含めて沖縄戦で破壊された状態がそのままで現在に至っているというのは、戦後は恐らく無縁墓となったのでしょう。全ての場所で一礼をして撮影させて頂きました。

遺骨収集の様子51

平成18年(2006年) 自然光撮影【八重瀬町/具志頭】こっ怖いですよね。(^^;) 山裾の岩肌にある自然穴を利用した風葬墓です。特に目隠しの石垣などは一切ありません。頭骨も見えます…。風葬墓のある場所は具志頭の海岸線に位置しますから、米軍による激しい砲爆を受けたはずです。ですから水瓶が破壊されずに残っていますが、この水瓶は戦後設置されたものかも知れません。

遺骨収集の様子52

平成19年(2007年) ストロボ光撮影【南城市/知念久手堅】1メートル程の石垣が積まれており、石垣の上から撮影しました。頭骨が多いのが特徴の風葬墓です。通常の風葬墓ではあり得ない光景です。と言いますのも風葬骨とは、一人分の御遺骨を一つの水瓶に入れるという事になります。繰り返しますが、水瓶一個が一人分の御遺骨です。ですからこれだけ頭骨があるという事は、頭骨以外の骨がこの頭骨の人数分無ければなりません。頭骨以外のその人骨量たるや写真に見えるだけではあまりに少なすぎます。という事で写真に写されている頭骨のほとんど全てが、沖縄戦戦没者御遺骨であると推察できます。

骨の様子を解りやすい場所を指して説明しますと、写真右側の割れた水瓶に頭骨が一個逆さまになっているのが見えますが、この頭骨は沖縄戦戦没者御遺骨だと推測しています。逆さになった頭骨の下にある手足の長い骨が風葬骨です。こうして見ると沖縄戦戦没者御遺骨である頭骨が飴色っぽい色相であるのが見てとれますね。風葬骨はストロボ光を当てなければ、白っぽい色をしていますが、写真ではそのように見えていませんが、少なくとも沖縄戦戦没者御遺骨と風葬骨を並べてみると骨の色相がかなり違う事を確認できます。

そうした色相の視点で写真奥にある頭骨群を見ますと、この頭骨群は明らかに沖縄戦戦没者御遺骨であり、風葬骨は頭骨群の下にごく僅か見えるという状況になっています。

ちなみにこの風葬墓の沖縄戦戦没者御遺骨のみ収骨させてもらえませんかと、金光教の林先生に写真をお見せしながら御願いしましたら、「知念半島は沖縄でも特に神聖な場所です。私達のような立場の人間が安易に立ち入る事は出来ません」と語られましたから、私達もそれ以上動けず、これらの頭骨などの沖縄戦戦没者御遺骨は今もそのままであるかもしれません。

遺骨収集の様子53

平成21年(2009年) 自然光撮影【糸満市/摩文仁】摩文仁崖下にある風葬墓です。目線以上の高さまで高く石が積んであり通常では中は見えません。台風などの際はこの風葬骨は雨に晒されるのかも知れません。風葬骨は石灰化がとても進んでおり、骨自体もささくれ立ち年月の経過を感じさせます。

遺骨収集の様子54

平成21年(2009年) ストロボ光撮影【八重瀬町/新城】「ガラビガマ」壕口から入ってすぐの所にある風葬墓です。白っぽい色をした細分化され粉状になっているのが風葬骨です。最初「アレッ水瓶が無い」と思いましたがありました。割れていますが写真上側の岩陰に置いてありますね。

そうした中に飴色をした頭骨が何片か見えますね。頭骨片は間違いなく沖縄戦戦没者御遺骨と推測されます。と言いますのも、頭骨の一片には明らかに銃弾が貫通したと思われる穴が開いているのです。また風葬骨が写されている下側に橈骨と思われる骨ですが、飴色をした骨が見えます。この骨も沖縄戦戦没者御遺骨と思われます。

沖縄戦戦没者御遺骨と思われる飴色をした頭骨について、私が持ち帰って金光教の遺骨収集で慰霊してもらいましょうかと松永さんに問いかけましたら、松永さんは安易に手を付けるべきではないと語られましたので、この沖縄戦戦没者御遺骨と思われる頭骨は今もそのままになっている可能性があります。

遺骨収集の様子55

平成26年(2014年) ストロボ光撮影【糸満市/山城】門中墓のすぐ横にあった風葬墓です。山裾の岩盤のちょっとした窪みに作られていました。表側は石垣が積み上げられていていましたが、最上部が開いていたので、そこから撮影しました。山城も激しい戦闘が展開された場所ですから、内部は沖縄戦で破壊されたそのままのような姿でしたし、戦後石垣のみが新しく積まれたというような雰囲気でした。またここも台風などの際はこの風葬骨は雨に晒されるのかも知れません。

遺骨収集の様子56

平成26年(2014年) ストロボ光撮影【八重瀬町/新城】「ガラビガマ」壕口から入ってすぐの所にある風葬墓です。石垣がしっかり組まれ入り口のみ開口していたので、そこから撮影させてもらいました。「ガラビガマ」側には戦後放置されている雰囲気の風葬墓が複数ありますが、一方戦後石垣がしっかり積み上げられて管理も為されていると思われる風葬墓もあります。

ヌヌマチ・ガラビ壕については、現在ガラビ壕側は立ち入り禁止となっています。写真はヌヌマチ側から入壕して撮影したものです。尚ガラビ壕口は落盤した形跡がありますので、立ち入り時は長居せず十分にご注意下さいませ。

2018年1月23日/遺骨収集の様子no.57

平成18年(2006年) 自然光撮影【八重瀬町/具志頭】昨日23日の参加記でご紹介した、吉井さんが案内して下さった風葬墓です。この具志頭附近は米軍の激しい砲爆に晒されたはずですが、そうした状況下よくこれだけ風葬骨が残存したと感激しますよね。水瓶一つに一人分の人骨が入っていると思われます。写真を見る限り4柱の風葬骨があると見て良いでしょう。

以上7枚の風葬墓・風葬骨を見て頂きました。皆様は色んな感想をお持ちになったと思います。ちなみになぜ風葬を行うのかと言うと、故人の魂をニライカナイ(来世)に帰りやすくする為と解説書には書かれています。と言う事で沖縄では先祖崇拝と切り離せない深いつながりがあった風葬という慣習が、本来は明治初期の頃に禁止にはなりましたが、沖縄本島では戦後1960年代まで続いた一因かも知れませんね。

ちなみに死後7年以内に野晒しにされていた人骨を海水などで洗う事を洗骨と呼ぶそうです。遺骨に付着したり残存する皮膚、肉片や頭髪などを取り除き、骨を綺麗に洗い水瓶に納める作業は女性のみの仕事であったそうですよ。今を生きる女性の皆様、昔に生まれなくて本当に良かったですね。(^o^)

話がわき道に逸れましたが、風葬骨と沖縄戦戦没者御遺骨は何処が違うのか…。私が試行錯誤の末編み出した判定手法をご紹介します。細かい点は沢山あるのですが、二点だけ絞ってご紹介しますと、
・腕や足の長い棒状の骨について両端の形状を保っている風葬骨はない。
・骨の損壊部を爪で削ると風葬骨と沖縄戦遺骨の違いが鮮明に感じ取れる。

それでは二点について説明させて頂きます。
・腕や足の長い棒状の骨について両端の形状を保っている風葬骨はない。
7枚の写真をご覧下さいませ。腕や足の骨である上腕骨・橈骨・尺骨、大腿骨・脛骨・腓骨などが写されていますが、どの写真を見ても長い骨の両端が、本来の関節面としての形状を保っているものは写されていません。今回の発見の御遺骨は大腿骨と脛骨そして尺骨がありましたが、大腿骨と脛骨の関節面について若干の欠損がありますが、ほぼ関節面の本来の形状を維持しています。両端部関節面を見ただけで、人間のどの部位の遺骨か判定出来る事からそれは明かです。一方尺骨は片側のみ関節面の形状を維持しているという状況です。

それではなぜ風葬骨は長い骨の端部が欠損してしまうのか…。これは洗骨した後に水瓶に入れる場面をイメージして頂けれ理解して頂けると思います。水瓶に遺骨を入れる順序を考えると、まず頭骨を除いて長い骨や大きな骨を先に入れるはずです。特に長い骨は後から入れようとしたら、はみ出てしまうかも知れません。という事で、洗骨された骨のうち、腕や足の長い骨は最初に且つ縦に入れると思うのです。長い骨や大きい骨を入れた後に、手足や背骨、肋骨などの細かい骨を入れると思います。そしてそれら細かい骨は水瓶の下の方に積み重なります。

と言う事で、水瓶の底の方では風通しも悪く湿気が充満し、御遺骨の腐食、風化が進み、結果として下側になっている関節面が、まず最初に欠損すると推測しました。但し7枚の写真を見て頂くと、棒状の骨で両端が無いので腕の骨なのか足の骨なのかサッパリ解らないという骨が沢山写されていますよね。確かに私の今の説明は片側が欠損する理由を説明しました。両端が欠損する説明にはなっていません。

両端が欠損する理由として推測するに、例えば上腕骨の場合、両端は他の骨と接合する関節面です。関節面は長い棒状の部分に比べて腐食、風化しやすいのかも知れません。200年とか300年という長いスパンでは、地面に接している状態や風通しや湿気が同じ条件なら、関節面など骨の柔らかい部分から順に欠損・風化、そして脱落していくという事なのかも知れません。古墓ほど、つまり古い骨ほど内部の欠損と両端の無い棒だけの骨になっているという印象を持っています。

・骨の損壊部を爪で削ると風葬骨と沖縄戦遺骨の違いが鮮明に感じ取れる。
上掲文の中で、「近年では沖縄戦戦没者御遺骨と風葬骨の、それぞれ固有の特徴が相似しつつあるといいましょうか、両者の境界線が不明瞭になりつつあると認めざるを得ません。昔の私は沖縄戦戦没者御遺骨と風葬骨の判定について、絶対的な自信がありました。しかしながら、近年はその判定に於いて、自信が持てないケースが増えて参りました」と記述した通り、近年では判定に多々迷いが生じると認めた上で、かつては絶対的に自信があった私の判定手法をご紹介します。

金光教の遺骨収集では、十数人を一つの班として活動します。そうした中で、班員の誰かが御遺骨を発見した場合は、発見したご本人は勿論、所属する班員も喜び勇んで発見場所に集まってきます。さあ頑張って収骨するぞと沸き立つ皆さんの前で、ベテランさんが「これは風葬骨です、収骨は出来ません」と非情な宣告をする場面を数多く見てきました。

金光教の運営委員会時代に於いて、何時の頃からか私もその判定をする側に回りました。石垣があったり割れた水瓶があったりしたら判定の援用が可能ですが、最も困難なのは風葬骨と沖縄戦戦没者御遺骨が混じっている場合です。すぐに収骨作業を始めたいと燃え立つ発見者さんや班員に、両者の何処が違うのか納得させねばなりません。

試行錯誤や体験を積む中で、一番確実な方法だと思える手法を見い出しました。それは例えば腕や足など発見御遺骨の中で、なるたけ大きい骨の欠損部分・欠落部分で判定するのです。つまり骨の表面部ではなく、欠損していたり欠落している部分の内部であるハニカム状の構成部に着目したのです。その欠損しているハニカム状の構成部を爪で少し削ってみるのです。その削れ方に風葬骨と沖縄戦戦没者御遺骨では、極めて微妙ではありますが決定的な違いがある事に気づいたのです。

沖縄戦戦没者御遺骨と比べて、風葬骨のその削れ方は確実に粉っぽく、つまり運動会でラインを引く石灰のように粉状に崩れる部分があります。昔はラクガンという食べ物がありました。今も売っているのでしょうかね。私の年がバレてしまいますが(^^;)、ラクガンは砂糖菓子みたいな食べ物です。あのラクガンを爪で削るというイメージです。一方沖縄戦戦没者御遺骨は、粉っぽく崩れる事はありません。例を挙げれば、カルメ焼きのカルメラを削る感覚がかなり近いです。カルメラも又古い食べ物ですが、色相といいハニカム状の大きさこそ違いますが、形状は正に骨にそっくりですね。(^^;)

※ご注意:御遺骨が水の中にあった場合、また強い湿気の中にあった場合などは適用不可です。また泥などで汚染されるいる場合も然りです。

言葉で表現するとこの様になりますが、削れる際になぜこのような違いがでるのか…。

骨は有機物(約40%)と無機物(約60%/石灰質)で構成されています。沖縄戦戦没者御遺骨は死後73年経過していますが、今でも御遺骨は相対的な比較ですが飴色をしています。一方風葬骨は死後200年とか300年経過して、相対的な比較ですが確実に白っぽい色をしています。これは勿論埋没した骨ではなく露出していた骨での比較です。

沖縄戦戦没者御遺骨が飴色をしているのは、骨に未だ有機物が内在し、微生物による分解の途次にあるからだと思われます。有機物は微生物により分解されていきますが、骨の微生物による分解は、野菜や果物が微生物により腐熟・分解されていくのと違ってとても長い歳月を要します。ですから風葬骨は長い歳月を経て、骨に約40%含まれるという有機物が、微生物により全て分解され尽くした状態、つまり主成分が炭酸カルシウムの石灰岩と同じ状態になっているのではないかと推測されます。

実際に風葬骨の表面を撫でてみとる、骨ではなく石灰岩だと実感できます。未だ有機物を包含する炭酸カルシウムの崩れ方と、石灰岩としての純粋な炭酸カルシウムの崩れ方に、団粒構造としての粒の大きさに差があるのだと感じさせます。こうした僅かな差が、一足早く風化が進んで石灰石化しつつある風葬骨との差となって表出されるのではないかと考えています。

調査・遺骨収集作業場所に戻りました

立命館大学の学生と沖縄鍾乳洞協会のメンバーが発見された御遺骨の、明後日から収骨作業をする為の下見から今戻りました。現場は皆さんの奮闘により凄い事になっています。(^o^)

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.58

現場に戻ってみますと、皆さんが脇目も振らず作業を続けていました。(^o^)

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.59

ご覧のように鉄製と思われる破片が見つかっているようです。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.60

土砂はすぐ後ろに捨てられますから、少人数ながら作業効率は高くグングンと先に進んでいるようです。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.61

一人では持てないような岩も結構出てきています。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.62

壕口も少しずつ広くなり、しゃがんでは入れるレベルになりました。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.63

中では豊澤さんが頑張っています。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.64

福岡さんが入りました。身体が伏せた状態でしか作業出来ないので、適当な間隔で作業を交代し、疲労度合いのバランスを保ちます。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.65

この様に土砂が運び出されます。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.66

最初の岩の下も高くなり、膝を屈した状態で作業出来るようになっています。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.67

また豊澤さんが入りました。腕の力しか使えず、足腰の力を利用できないので、作業はとてもしんどいようです。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.68

また金属的な部品が出てきました。これは何でしょうかね。?

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.69

これは更に意味不明な金属です。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.70

金城さんが土砂が入ったテミを受け取る役です。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.71

狭い場所の作業は大変です。見ていてそれがよく解りますね。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.72

通路を更に掘り下げる事になり、土砂が出てくるまでの、待っている間に金城さんが入り口を広げます。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.73

福岡さんに交替です。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.74

土砂を後ろに送ります。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.75

壕内がよく見えるようになりましたね。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.76

壕口も一段と高くなりました。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.77

現時点での発見された鉄製と思われる物品です。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.78

随分長く頑張った豊澤さんが出てきました。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.79

今度は福岡さんが入りました。作業の様子がよく見えるようになりましたね。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.80

膝をついた状態なら、頭の上にまだ余裕があるという状態になりました。これなら作業しやすいですね。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.81

松永さんが役場と戦没者遺骨収集情報センターとの折衝を終えて現場に戻って来られました。まだ現場で集合写真を写してなかったので撮影しました。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.82

排出された土砂もご覧のように凄いボリュームになりました。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.83

またまた大きな岩が出てきました。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.84

松永さんも初めて中に入りました。周囲を鋭く観察しています。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.85

通路を更に掘り下げる事になりました。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.86

交替しながら効率よく掘っていきます。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.87

松永さんが掘っています。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.88

豊澤さんが掘っています。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.89

通路が一段と低くなりました。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.90

再び壕内から土砂が運び出されます

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.91

内部の作業の様子です。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.92

順次土砂を運び出します。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.93

排出された土砂もぐんぐん増えています。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.94

壕口の床面も低くなりました。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.95

交替です。豊澤さんもスーパーパワーで頑張りました。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.96

黒い粘土状の土が一部露出してきました。これが壕口に近い事から、いつ頃堆積したのか少なからず議論になりました。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.97

この段階で発見された物です。プラスチック製の物はなく、金属的なものがほとんどですね。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.98

沖縄戦当時の床面を探し当てるべく作業は続きます。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.99

豊澤さんと松永さんが頑張っています。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.100

松永さんが沖縄戦当時の床面であるか確認してほしいと福岡さんを呼んでいます。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.101

福岡さんも入りました。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.102

三人で内部の地質について検討しています。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.103

三人で内部の地質について検討しています。かなり時間が経過しています。

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.104

三人で内部の地質について検討していましたが結論が出たようです。どうやら沖縄戦当時の床面を超えて掘り進めているようです。という事で、これまでに発見された金属的な遺留品が全てであるという結論に達しました。作業は終了です。御遺骨発見はなりませんでした。メンバーの皆さんが力を合わせて全力で掘削に取り組みましたが、結果として空振りです。残念です。(^^;)(^^;)(^^;)

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.106

作業道具を片付け、それぞれメンバーの皆さんが荷物を手分けして持って上がります。参加メンバーの背中にも落胆の表出か、肩が下がっているような…。(^^;)

2018年1月24日/遺骨収集の様子no.107

皆さんが落胆はしているものの、全力で取り組んだという満足感を持ちつつ帰路についていると思いますよ。皆様お疲れ様でした。(^o^)

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