平成30年(2018年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月20日(土) 糸満市与座の洞窟陣地で調査・遺骨収集

今日の天気予報は曇りですが、雨の降りやすい天気となりそうです。最高気温は20度の予想ですから、昨日に続きいやな天気になりそうですね。今朝の慰霊巡拝は、「山第二野戦病院小池隊最期の地 積徳高女看護隊(糸洲の壕)」そして「沖縄陸軍病院之塔」です。それではご一緒に慰霊巡拝しましょう。(^o^)

「山第二野戦病院小池隊最期の地 積徳高女看護隊(糸洲の壕)」

2018年1月20日/遺骨収集の様子no.1

国道331号線上に「山第二野戦病院小池隊最期の地 積徳高女看護隊(糸洲の壕)」と書かれて看板がありますから、案外探しやすいのではないかと思います。

※轟の壕が山裾の林の中にあるのと対照的に、こちらはいろんな野菜が栽培されている畑の一角に壕入り口があります。専用駐車場は用意されていません。駐車場は限られたスペースでの路上駐車となります。農家さんの往来に迷惑を掛けないような配慮が必要と思われますので、見学時はその点を十分にご注意下さいませ。実際に過去には農家さんと深刻なトラブルに発展し、糸洲の壕は一定期間立ち入り禁止となった経緯があります。

2018年1月20日/遺骨収集の様子no.2

完成した「鎮魂の碑」です。この碑の下に糸洲の壕(ウッカーガマ)があります。糸洲の壕は第二十四師団の第二野戦病院でした。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

【慰霊碑碑文】

この洞窟は第二十四師団山第二野戦病院の跡である。長野富山石川県出身の将兵防衛招集兵並に従軍看護婦積徳高等女学校看護隊が傷病兵を収容した壕跡である。

2018年1月20日/遺骨収集の様子no.3

新装成った「鎮魂の碑」が建てられている横にも、同じ碑銘の「鎮魂の碑」がありました。

2018年1月20日/遺骨収集の様子no.4

こちこちらの「鎮魂の碑」は民間人が建てられた慰霊碑みたいですね。仲村家の亡くなられたご家族の記名が見えます。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

《過去の写真ご紹介》

2017年1月22日/遺骨収集の様子no.5

この写真は昨年の1月に「鎮魂の碑」がある場所を頃撮影したものです。「鎮魂の碑」のあった場所はご覧のよう工事中ででして、碑は何処かに移動されてありませんでした。工事は地下5~6メートル程の所に下水道管でしょうか、太い配管が設置されようとしています。本来の「糸洲の壕」入り口は、こんもりとした木々の下にあると思われます。しかしながら気のなるのは、「糸洲の壕」の洞窟空間の方向を考えますと、もしかしたら工事空間と重複している可能性があり、工事区間に露出した洞窟空間は埋め戻された可能性もありますし、一方でもしかしたら下水配管の下を洞窟空間が通っていて温存された可能性も無きにしも非ずです。高さ的に非常に微妙です。(^^;)

2018年1月20日/遺骨収集の様子no.6

右側の農家さんが設置した給水配管も、左側の畑を仕切るブロック塀も昔のママでした。そして糸洲の壕(ウッカーガマ)に到る通路も、手前の一部を除きそのままでした。但しこの場に立って奥を見たら、嫌な予感が…。

2018年1月20日/遺骨収集の様子no.7

ガーン!! 立ち入り禁止の看板がありました。(>_<)

2018年1月20日/遺骨収集の様子no.8

ここから階段を下って壕に入るわけですが、ここで撮影して終了です。ここから手を合わせました。

この糸洲の壕(ウッカーガマ)は、爆雷やガス弾を連日投げ込まれるなど、米軍の執拗な馬乗り攻撃を受けましたが、幸いに学徒隊の戦死者は出て居ません。沖縄戦が終わっている6月26日解散命令が出た事もありますが(これは小池隊長が意図的に解散命令を遅らせたという話です)、第二十四師団小池隊長は「決して死んではいけない、必ず生きて家族のもとに帰りなさい…」と看護隊員一人一人の手を握り云われたそうですから、そうした訓示が生徒を勇気づけたのかもしれません。小池隊長ご自身は、その後この壕で自決されました。

この壕は前年の米軍による奇襲、いわゆる十・十空襲以降から地元部落民により避難壕として使われていましたが、日本軍の戦線後退に伴い、第24師団第二野戦病院糸洲分院壕として、5月下旬から使われはじめ、学徒動員された私立積徳高等女学校の学徒看護隊員も同時に入壕したようです。

結局この糸洲壕も6月20日頃に、米軍による馬乗り攻撃を受け、ガス弾や爆雷を投げ込まれるなど激しく攻撃され、重症患者など100名以上の犠牲者が出た模様ですが、馬乗り攻撃に耐え、この壕内で陣頭指揮に当たっていた山第二野戦病院小池隊長は、6月26日の解散命令に際し、私立積徳高女学徒看護隊の生徒に「決して死んではいけない。必ず生きて家族の元へ帰りなさい」と語ったというのです。

「沖縄戦の学徒隊」 愛と鮮血の記録

金城和彦著 日本図書センター 平成4年(1992年)初版

【沖縄戦の学徒隊】

それから間もなく、壕内に緊張した空気がみなぎり、看護隊に集合の命令があった。

小池隊長は、「長いこと軍とともに行動していただき本当にご苦労であった。しかし、もはや事態はこれ以上皆さんを一緒に行動させることはできない。

兵隊は最後まで戦うのが当然であるが、皆さんは勉強途上にある生徒であり、しかも将来国を背負ってもらわねばならぬ大事な身である。

死ぬことだけが、国に対するご奉公ではない。私にも皆さんぐらいの子供があるが、皆さんを見ていると、自分の子供のように思えて、何としても、一緒に死地に連れて行くのは忍び得ない。

皆さんは、他府県の生徒に比べるとかわいそうでならない。それだけにぜひ生きのびて、沖縄戦を他府県の生徒に知らせてもらいたい」

と訓示し、私たち生徒の一人一人の手をしっかり握って、別れを告げられた。少佐の頬は涙で濡れていた。

やがて小池少佐が30分後に自刃されたことを私たちは知った。

それは、壕外に出た友の一人が、忘れ物をしたことに気づき、壕に引き返したとき、すでに割腹して最後を遂げられた少佐の遺体を見たからだ。

壕外は危険であるから、決して団体行動をとらず、いつでも、二三名ぐらいで行動せよ……。という少佐の言葉を守り、私たちは二三名づつ組を作り、十四五分おきに壕を出た。

私は真栄田さん、仲地さんと一緒に、壕の中で拾った一発の手榴弾をしっかり持って、最後の時はこれで自決する決心で、三人固く手を握り合い、死の脱出に向かったのである。

【積徳高等女学校四年生津波古照子さん「手記・うるまの島の夢破れ」の記述部分】

「沖縄戦の学徒隊」から転載させて頂きました

山第二野戦病院小池隊長は、当初この壕に配属された生徒に対し、驚くことにいろんな理由をつけて50名中25名を家族の元へ帰してしまいました。また居残った25名の生徒に対しても優しく励ましてくれたり、危険に曝さないようにとの特別の配慮が為された事により、この壕での学徒看護隊員の犠牲者は3名に留まりました。

沖縄にあった女子校は、公立私立を問わず7校すべてが、動員命令の対象になりましたが、私立積徳高等女学校徒看護隊は動員64名のうち犠牲者は4名だけという事で、他の学徒隊との比較をしても際だった生存率であったようです。

2018年1月20日/遺骨収集の様子no.9

糸洲の壕(ウッカーガマ)に隣接する畑の様子です。写真撮影してみたものの、この植物が何なのか解りません。ご存じの方がいらっしゃいましたら、メール等で教えて下さいませ。(^o^)

2018年1月20日/遺骨収集の様子no.10

こちらの野菜は解りますよ。皆さんは、この野菜は何だと思いますか?
トウモロコシなんですね。ただこの農家さんは、毎年この畑でトウモロコシを育てています。何年も毎年です。他人事ながら連作障害が心配になってしまいます。(^^;)

「沖縄陸軍病院之塔」

2018年1月20日/遺骨収集の様子no.11

道路脇にはご覧のような「沖縄陸軍病院慰霊之塔」という石碑が立っています。結構目立つので見落としは少ないと思われます。ご覧のように案内碑のある場所は整備され整然とした場所となっていますが、一昨年までは鬱蒼とした木が茂っていた場所でしたから、この碑も草に隠れてよく見えなかったという状態でした。

2018年1月20日/遺骨収集の様子no.12

「沖縄陸軍病院之塔」の敷地内には、大きな広場があるのが印象的ですね。また昔は大きな木が何本もあり鬱蒼とした雰囲気でしたが、それらの木も適宜伐採されたりして、現在はご覧のように見通しのきく明るい雰囲気となっています。

2018年1月20日/遺骨収集の様子no.13

「沖縄陸軍病院之塔」です。昭和39年「沖縄陸軍病院戦没職員の碑」として建立され、平成6年「沖縄陸軍病院之塔」として再建されました。病院長広沢文吉軍医少将ほか軍人、軍属、医師、薬剤師、看護婦等43名が祀られています。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

2018年1月20日/遺骨収集の様子no.14

碑文です。ご覧下さいませ。

2018年1月20日/遺骨収集の様子no.15

戦没者の死を悼み詠んだ詩ですね。

2018年1月20日/遺骨収集の様子no.16

敷地の端に「沖縄陸軍病院本部壕」ありますので、ご一緒に入って見ましょう。ちなみに壕の呼称は、「沖縄陸軍病院山城本部壕」と呼ぶ場合もあります。

2018年1月20日/遺骨収集の様子no.17

これが沖縄陸軍病院本部壕です。大きな木がありますが、もちろん沖縄戦当時は無かったでしょう。ご覧のように開口部がとても大きくて偽装は出来なかったでしょうね。実際に壕に入ってすぐの、写真では左側辺りに艦砲砲弾の直撃を受けて、多くの人々が一瞬のうちに亡くなったり重傷を負いました。沖縄戦当時もご覧のような壕に降りていくスロープがあったようです。スロープに沿って手摺りも設けられていたと記録に残されています。

2018年1月20日/遺骨収集の様子no.18

更に降りていきましょう。

2018年1月20日/遺骨収集の様子no.19

少し降りてから開口部を撮影しました。開口部がバックリと口を開けているのが見てとれますね。

《過去の写真ご紹介》

2017年1月26日/遺骨収集の様子no.20

この写真は米軍迫撃砲弾が落下した際に、負傷したり死亡した方々の場所を明示した見取り図です。ギリギリ見えますね。9番が迫撃砲弾着弾点です。左側2番の所で、橋本伍長、兵一名即死、宮原軍曹重傷。4番の所で、中林伍長即死、軍属炊事婦二名即死。5番の所で、院長負傷。と書かれています。着弾点は壕の天井の無い窪地部分でしたので、遮る物がなく広範囲に砲弾破片が飛び直撃したと思われます。

2018年1月20日/遺骨収集の様子no.21

ほぼ平坦になりました。ここまで来るともう真っ暗です。更に前進してみましょう。

2018年1月20日/遺骨収集の様子no.22

振り返って入口方面を見ますとこんな感じです。底面に至るまで緩やかなスロープになっているのが見えますね。

2018年1月20日/遺骨収集の様子no.23

壕は一人で入ってはいけないのですが、外にレンタカーが駐車してありますし、この壕で遭難しても早期に発見してもらえると感じるので、ついつい壕の最奥部まで入ってしまいます。ご覧のように壕の奥の方に進むとかなり大きな池があります。池の周りにロープが張られていました。昨年は無かったので、この一年の間に設置されたようです。

2018年1月20日/遺骨収集の様子no.24

壕の一番奥にある池を撮影しています。上掲の見取り図では、「雨期に水が流れる小川」と書き記されているので、梅雨の時節には水が流れるのかも知れません。

毎年水位はどうかなと調べています。今年は池の底が薄らと見えますね。例年よりも水が澄んでいる印象です。ご覧のように冬でも結構な水量がありますから、梅雨の頃なら更に水位が高いかもしれませんね。いずれにしてもこの壕は水には困らなかったと思われます。

2018年1月20日/遺骨収集の様子no.25

この一升瓶は昔からこの付近に置いてありました。何故か毎年撮影しています。ペットボトルなんて便利な容器が無かった時代ですから、一升瓶は最も多用された容器だったでしょうね。

調査・遺骨収集作業開始です

今日は松永さんの案内で、与座のとある壕で遺骨収集です。(^o^)

与座で調査・遺骨収集作業

2018年1月20日/遺骨収集の様子no.26

場所は与座です。与座には緩斜面が広がっている樹林帯がありますが、太陽光発電パネルが敷設されている工事現場がありました。その工事現場に隣接してとある壕がありました。まずは私と松永さんとで向かいました。

2018年1月20日/遺骨収集の様子no.27

壕の開口部から入ろうとしています。少しかがんで入れるぐらいの大きさの入り口でした。

2018年1月20日/遺骨収集の様子no.28

壕内部の様子です。全長15メートル程度、幅は最大で4メートル程度。高さは立って歩ける高さがあります。構築された壕の雰囲気です。

2018年1月20日/遺骨収集の様子no.29

土の部分には細かい物が沢山混ざっています。場所柄米軍による馬乗り攻撃により全滅したという印象を受けます。

2018年1月20日/遺骨収集の様子no.30

この壕では色んな団体が遺骨収集をしたようです。ご覧のように、すでに遺品も数多く集められています。

2018年1月20日/遺骨収集の様子no.31

色んな部品とか、割れた茶碗や瓶も見えます。

2018年1月20日/遺骨収集の様子no.32

特に問題ないと確認されましたので、全員で調査・遺骨収集作業を行います。私達はまずは献花し手を合わせました。

2018年1月20日/遺骨収集の様子no.33

作業開始前の集合写真です。右から金光教の遺骨収集に参加されていた斉藤さん、豊澤さん、地元の仲里さん、菊池さん、松永さんです。今日もケガをしないように十分しながら頑張りましょう。(^o^)

2018年1月20日/遺骨収集の様子no.34

壕に入っていきます。

2018年1月20日/遺骨収集の様子no.35

作業が開始されました。

2018年1月20日/遺骨収集の様子no.36

まずは土砂を積み上げる予定の場所から、土の中に遺骨や遺品が無いか調べます。

2018年1月20日/遺骨収集の様子no.37

菊池さんと豊澤さんです。結構土がありますね。壕入り口付近は、壕の周囲から土砂が流れ込んだ可能性がありますが、壕の奥は元々土があったのかもですね。

2018年1月20日/遺骨収集の様子no.38

松永さんです。土の中に色んな遺品が混じっているようです。

2018年1月20日/遺骨収集の様子no.39

斉藤さんと、奥の方は仲里さんです。土の中にある遺品や遺骨を探しています。

2018年1月20日/遺骨収集の様子no.40

豊澤さんのヘッドライト明るいですね~。ビックリです。ヘッドライトに照らされた部分の画像が白飛びしている程です。豊澤さんにヘッドライトの商品名をお聞きしましたが、同時にルーメンを聞いたら、一万ルーメンだそうです。明るいはずだ~。(^o^)

2018年1月20日/遺骨収集の様子no.41

斉藤さんの居る場所は遺品が沢山出てくるようです。

2018年1月20日/遺骨収集の様子no.42

ご遺骨もチラホラ出ているようです。

2018年1月20日/遺骨収集の様子no.43

松永さんはじっくりと土を確認しながら作業を進めています。

2018年1月20日/遺骨収集の様子no.44

奥の白布にはご遺骨が置かれています。手前の白布には遺品が置かれています。軍靴以外の革製品も多く出ていますね。ご覧のような感じで、皆さんが思い思いの場所で作業を続けました。

これ以降の写真が消えてしまいました。理由は解りません。という事で残念ながらこれ以降の記録は書けませんでした。参加者の皆様、申し訳ございません。m(_ _)m

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