平成27年(2015年)沖縄遺骨収集奉仕活動

2月13日(金) 吉井さん福岡さん田中さんと摩文仁で遺骨収集

今日の天気予報は、晴れ、降水確率なんと0%。最高気温18度です。ヤッターという気分ですよね。個人的な遺骨収集は今日と明日の二日のみ。頑張ります。

今朝の慰霊巡拝は、「独立高射砲第二十七大隊壕」「沖縄工業健児之塔」の二カ所です。それではご一緒に参拝しましょう。(^o^)

「独立高射砲第二十七大隊壕」

遺骨収集の様子1

一人で同壕まで行くのはちょっと怖いですよ。その点はご承知下さいね。まずは国道331号線沿いにある「海の見えるレストラン」を目標にします。同レストランの崖下側に国道から入る小さな道がありますので、その小道を見つけたらしめたものです。50メートルほど進むと、写真の門柱墓前に出ます。

遺骨収集の様子2

お墓前からは、今度はご覧のように登山道のような狭い小道を降りていきます。手摺りが標識代わりにあるので迷うことはないと思われます。滑りやすいのでその点は注意して下さい。

遺骨収集の様子3

道はなくなりますが、鬱蒼とした林の中ですが、少し見通しのきく“平坦な木がない状態”になったルートがあります。それが道ですから、そのまま前進します。この時期はハブはいませんからご安心下さい。しかしながら夏場は絶対に歩けませんね。(^^;)

遺骨収集の様子4

これが独立高射砲27大隊本部壕です。沖縄戦が始まるまでは、独立高射砲27大隊第二中隊が火砲一門を設置して、予備陣地として南方の守りを担っていました。高射砲陣地は敵の激しい攻撃に晒されるのを前提としているため、開口部はご覧のようにコンクリートで補強されています。

岩が積み上げられていますが、沖縄戦当時のものではなく、戦後の遺骨収集等で内部から運び出した岩を積んだものと思われます。なぜなら積み上げられた岩石の色合いがバラバラですし、何より戦車砲弾を何発も撃ち込まれたとされていますから、これほど綺麗にかつ高く石組みが残存するはずがありません。独立高射砲27大隊本部壕は、この壕と右側にもうひとつ大規模な壕があり、二つの壕はつながっていると言われています。

遺骨収集の様子5

コンクリートの勾配の状況を撮影しました。かなり勾配がありますね。コンクリート部分をよく見て下さい、戦後70年ですが、20センチほどの鍾乳石が垂れ下がって居るではありませんか。(^o^)

遺骨収集の様子6

壕内部の様子です。奥行きは25メートル前後という印象です。写真右寄りに黒っぽい穴のようなものが見えますが、そこが他の壕との連絡通路になっています。さほど広くないこの様な空間に高射砲一門を格納していたのですね。高射砲は鉄道と同じように二本のレールに乗せて、出仕入れするようになっていました。高射砲を発車後、すぐに内部に引き入れるという流れですね。

遺骨収集の様子7

それでは独立高射砲27大隊本部壕のもう一つの壕に行ってみましょう。先ほどと同じように道無き道を進みます。

遺骨収集の様子8

ほら見えてきましたよ。

遺骨収集の様子9

ここが壕口です。平成24年ですから、今から三年ぐらい前に、地震による崩落と思われますが、大きな岩が壕入り口前に落ちてきて、ご覧のように壕に入りにくくなってしまいました。

遺骨収集の様子10

壕の中へ10メートルほど入った所から撮影してみました。

遺骨収集の様子11

最初の内部空間です。卒塔婆などが数本置かれてあるのが印象的ですね。戦後70年を経て、洗い流した訳でもないのに、卒塔婆に書かれていたであろう戦没者の名前などは自然消滅しています。風雨にさらされる場所ではないのに墨文字が消えてしまうなんて…。70余年の歳月の長さが偲ばれますね。

遺骨収集の様子12

壕はここから更に奥へと続いていますが、一人ですからここから奥へは行けません。いずれにしても、ご覧のように壕内部は煤で真っ黒になっています。如何に激しい馬乗り攻撃を受けたかが露見していますね。

御霊様のご冥福を心より祈念申し上げます。m(_ _)m

遺骨収集の様子13

独立高射砲27大隊本部壕の少し下の平地には、ご覧のように太陽光パネルが無数に設置されていました。元々この場所は耕作放棄地みたいな場所でしたが、改めて時代の変化を感じます。海岸線が見えますね。大渡米須海岸から、更に先の小高い丘のようになっている樹林帯は平和創造の森公園です。荒崎海岸も遠望できています。距離はここから3.5キロメートルぐらいです。

「沖縄工業健児之塔」

遺骨収集の様子14

「沖縄工業健児之塔」です。同塔は摩文仁平和祈念公園内の東側に位置する平和祈念資料館のすぐ東横にあります。場所柄影が薄いという印象は否めません。海岸沿いの崖上にあり、背後に木々が茂っていますから海は見えないのですが、潮風と共に波音も聞こえてくる場所にあります。

遺骨収集の様子15

モニュメントの7本の柱は7人の武士を表し、柱横に連なりスクラムを組ませ協力を象徴しています。ご覧のように塗装も新しくピカピカに塗られ、新装なった「沖縄工業健児之塔」の塔です。

御霊様のご冥福を心より祈念申し上げます。m(_ _)m

遺骨収集の様子16

鉄血勤皇隊工業隊として戦没された生徒106名の名前が刻み込まれています。

遺骨収集の様子17

碑文ですが、ギリギリ読めますね。

遺骨収集の様子18

平和祈念資料館ですね。建物の裏側から見ているという構図です。「沖縄工業健児之塔」はこの資料館の真横にあります。

遺骨収集の様子19

「沖縄工業健児之塔」に隣接する平和祈念公園の一角を見ています。右側に建物が少し見えていますがトイレです。広大な芝地となっていますが、昔は残土が山と呼べるぐらい積み上がっていた場所です。ある年から工事が始まり、何ができるのかなと注目していましたが、結果として建物等の施設ではなく、ご覧のような芝地に整備されたというわけです。これだけの敷地ですから、将来的には建物などの施設が整備されるかもしれませんね。

11日(水曜日)に福岡さんが発見した印鑑についてですが、福岡さんはすでに文房具店に立ち寄り、朱肉を買い求めて押してみたようです。さすがですね~。下にその写真を掲示しましたのでご覧下さいませ。

何としても印鑑の持ち主を探したいという事で、福岡さんが県立平和祈念公園内の平和の礎で探してみたいと言う事で、平和の礎に行って探す事になりました。(^o^)

遺骨収集の様子20

福岡さんが発見した印鑑に朱肉を付けた状態を撮影しました。

遺骨収集の様子21

こちらは押印して見たところです。「北栄」という風に見えなくもないですね。

遺骨収集の様子22

そしてこちらは、「北栄」という文字が印鑑ではどのように表現されているかという事で、福岡さんがネットで探した「北栄」さんの印鑑です。この印鑑の表現が最も近い印象だったといいます。

一昨日福岡さんが発見した印鑑について、平和の礎に行って印鑑の記名に近い苗字があるかどうか探してみようという事になりまして、福岡さんと二人で平和祈念公園内の平和の礎にやって参りました。

「平和の礎」で戦没者氏名を探す

遺骨収集の様子23

平和の礎に向かう途中、平和祈念公園内の式典広場から右手方向、平和之丘モニュメントを見ています。背後には摩文仁之丘が展開しています。

遺骨収集の様子24

式典広場から左手を見ると、ご覧のように白い塔である沖縄平和祈念堂がそびえています。

遺骨収集の様子25

「平和の礎」域内にやってまいりました。朝が早いのでこの付近に居るのは私達二人だけでした。天気が良いので、散歩という雰囲気でとても気持ちが良いです。

遺骨収集の様子26

印鑑の推測される苗字が、まずは日本人のものだと仮定して探してみました。

遺骨収集の様子27

次に、印鑑の推測される苗字が、日本人では無いかもしれないという視点で探してみることにしました。

遺骨収集の様子28

戦没米軍兵士も含めて、思いの外戦没された外国人は少ないと感じました。英語表記の外国人を除くと、ごく僅かしか表示されているコーナーがありませんでした。これはとても意外な発見でした。

遺骨収集の様子29

結局特定できる苗字は見つけることができませんでした。ざんね~ん。(T_T)

遺骨収集の様子30

暖かく天気も良いし、素晴らしい景観ですね~。柵ぎりぎりまで来ますと、快晴のなか適度な風が流れ気分は最高です。歌手南沙織の「♪誰もいない海、2人の愛を確かめたくて―」という歌詞がどこからともなく流れてきて頭の中をよぎりました~。(笑)

遺骨収集の様子31

沖縄平和祈念堂に行くために、平和祈念資料館裏の道路に出たら、タクシーの多さにビックリ。これらのタクシーは一般客を運んでいるのではなく、タクシーに分乗して観光地を巡っている修学旅行生が乗っているんですね~。時代が変わったと痛感する次第です。

「沖縄平和祈念堂」

遺骨収集の様子32

沖縄平和祈念堂の真下までやって参りました。白い塔が沖縄平和祈念堂です。

遺骨収集の様子33

階段を登り終えたところで振り返り撮影しました。広大な平和祈念公園の広さを実感していただけるのではないでしょうか。

摩文仁之丘が最奥部横長に展開しています。摩文仁之丘の右端あたりが一番標高が高く89メートルあるそうです。もちろん平和祈念公園側の平地から見たら、どうでしょうか、標高差は30メートルぐらいでしょうかね。平和祈念公園自体が標高50メートル以上あるという事ですね。

摩文仁之丘最高地点は、沖縄戦当時においては89高地と呼ばれていました。当時守備軍司令部壕がありましたし、現在では突端部あたりに「黎明之塔」が建立されています。

遠望するこの摩文仁之丘ですが、現在の各県の慰霊塔が建ち並ぶ一帯は、沖縄戦当時は摩文仁集落の人達の段々畑であったそうで、米軍の摩文仁における掃討戦は、その摩文仁東側の段々畑から戦車を先頭にジリジリと守備軍司令部壕に迫ったといいます。

ちなみに各県の慰霊塔が並ぶ一番奥には、鹿児島県の慰霊塔「安らかに」がありますが、その辺りは琉球時代に摩文仁グスクがあったそうです。場所的には写真の摩文仁突端部よりも少し左側という事になりますね。現在でも往時を偲ばせる石垣がそのまま残されているという話ですよ。ですから昔はこの高台から見て立派なお城の建物が見えていたかもしれませんね。

遺骨収集の様子34

沖縄平和祈念堂です。昭和53年(1978年)10月に竣工しました。建物の中には 高さ約12メートル,幅が約8メートルもある、人間の祈りの姿を象徴した座像、沖縄平和祈念像が鎮座しています。沖縄平和祈念像は、沖縄出身の芸術家山田真山画伯(1885~1977)が, 全戦没者の追悼と世界平和を希う沖縄県民の心を一身に担い、全生涯を捧げて制作されたとの事です。宗教や思想,政治や人種,あるいは国を超えて、すべての人が戦没者の慰霊と平和に力を合わせて行こうという事を、10本の指を合わせた合掌の形に表現されたそうです。

遺骨収集の様子35

前庭に見える鐘撞き堂は「平和の鐘」と呼ぶそうです。高さが9メートルもある鐘楼ですが、戦没者の鎮魂と世界平和の祈りを込めて、昭和53年の開堂時に平和祈念堂の理念に賛同されたライオンズクラブ国際協会337複合地区から寄贈された施設だそうです。

「戦いに散った魂を鎮め 人類の悠久平和を誓い この平和の鐘は とはに絶えることなく ここ摩文仁の丘より 四方に響きわたる 万人の祈りをこめて」の銘文が刻まれています。

「勇魂之碑」

遺骨収集の様子36

「勇魂之碑」です。摩文仁の奥まった場所、展望台の近くにありますが、通路に面していることから、見落とす可能性は低いと思います。 「勇魂之碑」は、第三十二軍司令部の将兵と軍属約六百人を祀った鎮魂碑です。

御霊様のご冥福を心より祈念申し上げます。m(_ _)m

遺骨収集の様子37

少し見にくいですが、ご覧のように岩に設置された碑文によれば、「牛島軍司令官、長参謀長、両将軍之墓跡」と記されています。

遺骨収集の様子38

「勇魂之碑」の左側には、「第三十二軍司令部戦没者名碑」が設けられていました。沖縄守備軍第三十二軍司令部の指揮下で、沖縄を守るため、祖国日本を守るため、六万五千人余りの他府県出身軍人と二万八千人余りの沖縄県出身軍人と軍属が、渾身の限りを尽くして雄々しく戦い、そして散華されたことを長く語り伝えたいですね。

米国軍事評論家 ハリソン・ボールドウイン氏は次のように論評しました。

「太平洋戦争中、日本軍で最も良く戦ったのは、沖縄防衛部隊である。太平洋戦争において日本の名将を二人あげるとすれば、陸軍の牛島と海軍の田中である」

(注記:田中とは第二水雷戦隊司令官の田中頼三海軍中将です)

「黎明之塔」

遺骨収集の様子39

第三十二軍司令官牛島満中将と参謀長長勇中将を祀る「黎明之塔」です。この慰霊塔の近くには沖縄を守る第三十二軍の最後の司令部壕があります。6月23日黎明、司令官牛島満中将と参謀長長勇中将は、壕内で自刃して果てました。この黎明の塔は、裏側から見ると司令官牛島満中将が割腹自決を遂げる姿になっていると言われています。

「黎明之塔」は摩文仁之丘の最も高い場所にあり、正式には摩文仁岳と呼ばれる標高は89メートルの位置にあるそうです。またこの付近一帯は高摩文仁グスクの跡地でもあり、鹿児島県の慰霊塔付近に、往時を偲ぶ石垣が残されています。

第三十二軍司令官牛島満中将と参謀長長勇中将のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

遺骨収集の様子40

「黎明之塔」の碑文です。ギリギリ読めますね。

沖縄戦末期の6月18日、自刃の5日前ですが、第三十二軍司令官牛島満中将が大本営と直属上司の第十方面軍司令官安藤利吉大将宛てに次の決別電報を送りました。

【決別電報】

大命を奉じ、挙軍醜敵撃滅の一念に徹し、勇戦敢闘、ここ三ヶ月、全軍将兵鬼神の奮励努力にもかかわらず、陸、海、空を圧する敵の物量制しがたく、戦局まさに最後の関頭に直面せり。

隷下部隊本島進駐以来、現地同胞の献身的協力の下に、鋭意作戦準備に邁進し来り、敵をむかうるにあたっては、帝国陸海軍部隊呼応し、将兵等しく、皇土沖縄防衛の完璧を期せしも、満、不敏不徳の致すところ、事志と違い、今や沖縄本島を敵手に委せんとし、負荷の重任を継続し能わず。

上、陛下に対し奉り、下国民に対し、真に申しわけなし。ここに残存手兵を率い、最後の一戦を展開し、一死以て御詫び申し上ぐる次第なるも、ただただ重任を果たし得ざりしを思い、長恨千載に尽くるなし。

最後の血闘にあたり、すでに散華せる数万の英霊とともに、皇室の弥栄と皇国の必勝とを衷心より祈念しつつ、全員あるいは護国の鬼と化して、敵のわが本土来寇を破壊し、あるいは神風となりて天翔り、必勝戦に馳せ参ずる所存なり。戦雲碧々たる洋上なお小官統率下の離島各隊あり。何卒よろしくご指導賜りたく、切に御願い申し上ぐ。

ここに平素のご懇情、御指導並びに絶大なる作戦協力に任ぜられし各上司、各兵団に対して深甚なる謝意を表し、遙かに微哀を披瀝し以て決別の辞とする。

(第三十二軍司令官牛島満中将辞世の句)
秋待たで枯れ行く島の青草も 皇国の春に甦らなむ

矢弾尽き天地染めて散るとても 天がけりつつ皇国護らむ

【参謀長長勇中将辞世の句】

醜敵締帯南西地 飛機満空艦圧海 敢闘九旬一夢裡 万骨枯尽走天外

第三十二軍司令官牛島満中将と参謀長長勇中将の勇戦の記録を留める著書をご紹介します。

「沖縄に死す 第三十二軍司令官牛島満の生涯」

小松茂朗著 光人社 平成13年(2001年)初版

「豪胆の人 帝国陸軍参謀長・長 勇伝」

阿部牧郎著 祥伝社 平成15年(2003年)初版

遺骨収集の様子41

「黎明之塔」の近くから東側を展望しています。高摩文仁グスクの跡地という事で、最も標高が高いというのが見てとれますね。

遺骨収集の様子42

「黎明之塔」の近くから西側を見ています。

遺骨収集の様子43

カメラを望遠にして、写真中央の岩山の付け根にある「南冥之塔」付近を見ています。現在工事中との事で、何か資材のような物が置いてあるのが見えますね。

遺骨収集の様子44

新調なった遊歩道です。以前は木道でしたから、結構危ない場所もありましたが、これからは安心して行き来できますね。

遺骨収集の様子45

ルートは以前と全く同じですね。金属とプラスチックで作られていますし、何より滑りにくくてとても歩きやすいです。(^o^)

遺骨収集の様子46

数日前、NHKテレビで民間のとある団体が摩文仁で遺骨収集をしたというニュースが流れましたが、私と福岡さんは同ニュースを見ていたので、どのような遺骨収集をされたのか痕跡が残っているはずだから見に行こうという話になりまして、ここにやって参りました。

多分あそこだろう…。と目星を付けて来ましたが、やはり推測は当たっていました。それにしてもご覧のように随分と地面を掘り返しています。確か一日の作業のはずですから、その機動力には脱帽と言ったところです。写真の中央奥には摩文仁の第三十二軍司令部壕の裏側の入り口があります。ですから裏の壕入り口付近を掘って、掘った土石は山下側に落としたという事になります。

遺骨収集の様子47

この入り口が、第三十二軍司令部壕の裏の入り口です。ちなみに表の入り口は「黎明之塔」の付近にあるのはご存じと通りです。そちらは金属製の柵が設置されているので中には入れないようになっていますが、こちらは特に柵などはなく普通に入れます。

遺骨収集の様子48

少しだけ入って撮影しました。入り口付近はかがまないと前進できませんが、更に奥に入ると結構広い空間が続きます。

遺骨収集の様子49

ここま摩文仁北側斜面で、階段通路からは少し離れていますが、ここの一帯も大規模に掘り返していますね。NHKテレビのニュースでは、発見された御遺骨は数片、遺留品も少々…。といった解説がされていましたから、大規模に掘り返した割には、残念ながら柱数となるほどの収骨はなかったようですが、これだけの規模で掘り返したのですから、本当にご苦労様でしたとねぎらいの言葉をお掛けしたいですね。お疲れ様でございました。

遺骨収集の様子50

よく見ますと塹壕通路のように見えませんか。こうした遺骨発見の可能性の高い場所をピンポイントでよく見つけましたね~。沖縄戦では第三十二軍司令部壕を守るために、実際に塹壕として使用されたかもしれませんよね。いずれにしてもこうした塹壕を見つけること自体、遺骨収集を実施した団体の底力を垣間見る思いがしました。

摩文仁で遺骨収集

今日は東京から駆けつける田中さんという女性も合流して、賑やかに摩文仁にて遺骨収集と調査を続ける予定です。11時頃にはその田中さんも無事に摩文仁に到着しまして、これから一緒に調査作業を進める予定です。明日は金光教の遺骨収集の日ですから、個人的な遺骨収集は本日が最後と言う事になります。四人共々頑張って取り組ませて頂きましょう。(^o^)

遺骨収集の様子51

今朝羽田空港を飛び立ち、今こうして無事に摩文仁に到着した田中さんを交えて記念撮影です。田中さんは子育ての真っ最中であるにも関わらず、金光教の遺骨収集に毎年参加されていますし、何よりこうして一日早く出発して遺骨収集に取り組まれるという事で頭が下がりますよね。田中さんも今日から三日間、事故の無いように気をつけて頑張って下さいませ。

遺骨収集の様子52

昨年御遺骨が一柱発見された場所の周囲で、気になる場所があるというので、まずはその場所で作業しようという話になりまして、これからその現場に向かいます。

遺骨収集の様子53

目的地まで距離200メートルぐらいですから、もうすぐ到着します。

遺骨収集の様子54

岩が黒く煤けていますね。海側からの砲撃だと思われます。

遺骨収集の様子55

この狭い通路は昨年までは無かったのですが、昨年初参加した一般参加者の方が、強引に切り開き通路にしてしまったのです。5メートルほどの山を越えるという地形ですが、大きな岩を除け、その全てのルートを人が通りやすくしてしまった怪力には脱帽です。お陰でかなり近道が出来てとても便利になりました~。Oさ~ん。来年は再びぜひ参加して下さいね~。(^o^)

遺骨収集の様子56

目的地に到着し遺骨収集作業が始まりました。皆さん思い思いの場を見つけ、クマデを振るい取り組まれました。

遺骨収集の様子57

吉井さんが居ました。ここは爆風避けには良い岩陰ですね。

遺骨収集の様子58

大きな岩がゴロゴロしていますが、昨年はこうした大きな岩を除けたら、御遺骨が出てきましたよね。と言う事で、これらの大きな岩は艦砲砲撃で破壊された岩が多いかもしれませんね。

遺骨収集の様子59

何か出てきましたか~。

遺骨収集の様子60

田中さんも一人で黙々と頑張っています。

遺骨収集の様子61

昨年御遺骨が発見された場所の周囲で40分ほど遺骨収集を続けましたが、場所を移動し、今年取り組む地域でスポット的に探してみようという話になり、移動することになりました。

遺骨収集の様子62

目的の場所に到着しました。金光教の遺骨収集をフォローアップする目的で、明日から行われる金光教の遺骨収集区域内で遺骨収集を試みます。

遺骨収集の様子63

新しい場所で作業開始です。

遺骨収集の様子64

オッ田中さんですね。頑張って下さいませ。

遺骨収集の様子65

塹壕と呼ぶほどではありませんが、通路のような地形をしていますね。

遺骨収集の様子66

福岡さんですが、剪定作業で用いられる大型のハサミを用意しているというのが凄いですね。

遺骨収集の様子67

田中さんも黙々と作業していますね。頑張って下さいませ。

遺骨収集の様子68

周囲左側方面はこんな感じです。摩文仁も見えますね。

遺骨収集の様子69

右側方面はこんな感じです。結構起伏が激しいでしょう。

遺骨収集の様子70

高台に登り周囲を偵察してみました。海までは結構距離があるのが見てとれますね。こうした地形は上から見て、下からも見て、立体的に頭にインプットしていかないと、頭の中に航空写真のような立体図は描けませんね。ちなみに私は写真を撮ったり、高い所に登って眺めたり…。気楽な事をしていると思われたら心外ですよ。(笑) 御遺骨を探す作業も人並みにしっかり行っていますからね~。

遺骨収集の様子71

何か出てきてますか~。

遺骨収集の様子72

金光教の遺骨収集での、ここは収骨作業を終えましたよと言うメッセージの青テープが巻かれています。

遺骨収集の様子73

これもその青テープが巻かれています。全ての青テープを掲載するわけにはいきませんが、この辺りこの青テープが驚くほど、あちこちに有りますね。ビックリするぐらいです。それだけ昔はあちこちに御遺骨が散乱していたと言う事ですね。

遺骨収集の様子74

頑張って下さ~い。

遺骨収集の様子75

頑張って下さ~い。

遺骨収集の様子76

頑張って下さ~い。夕刻になってきたので、そろそろ撤収しようという事になりました。終日腫れだったので、ジャングルがとても明るく、とても作業しやすかったですね。明日明後日と同じような天候が続いてくれる事を祈らずにはいられません。

遺骨収集の様子77

帰りの途上、素晴らしく穴場的な壕があったので立ち寄りました。これがその壕の入り口です。入って見ましょう。

遺骨収集の様子78

入り口がしっかり目立っていることから、すでに調査された壕だと思いますが、違う目線で見たら、何かあるかもしれませんからね。

遺骨収集の様子79

しばらく滞在して掘り進めてみましたが、特に遺品等もりませんでした。

遺骨収集の様子80

全員無事にジャングルから出る事が出来ました。お疲れ様でした~。

遺骨収集の様子81

旧前城さん宅前の駐車場に戻ると、松永さんや八重瀬ガイドの会の皆さんが、待っていてくれました。「そろそろ出てくるのではないかと待っていた」と松永さんの言葉。いつも一緒に行動しているからこそ予測出来たという事で、ありがたいですよね~。そして松永さんが「これから富盛の石彫大獅子を見に行こう」と誘って下さったので、私達全員で、富盛に向かうことになりました。

「富盛の石彫大獅子」

遺骨収集の様子82

糸満市富盛にある狛犬(シーサー)の「富盛の石彫大獅子」は、重瀬岳の道路を挟んだ向かい側、勢理(じり)グスクがあった山上にあります。ご存じ八重瀬岳には第三十二軍第二十四師団第一野戦病院本部壕に配属された学徒達の軌跡を印す『白梅学徒病院壕跡』があります。

「富盛の石彫大獅子」(ともりのいしぼりうふじし)は小高い丘の山上にありました。ちなみに『うふ』は、沖縄の方言で『大きい』を意味するそうですよ。

遺骨収集の様子83

山上に至り模造の小さな橋を渡ると、樹木が生い茂る整備された公園のような雰囲気の一角に「富盛の石彫大獅子」が見えてきましたね。

遺骨収集の様子84

そして「富盛の石彫大獅子」とご対面です。「初めて見た」という方が複数人いらっしゃいました。皆さん今から326年前に据え付けられた石彫大獅子に、しばし見とれていました。田中さんが手にするのは、松永さんがわざわざこの「富盛の石彫大獅子」に関する資料をコピーしてきて下さったのです。有り難うございます。

遺骨収集の様子85

326年前に据え付けられたというその歴史の重み、そして沖縄戦を見事に耐え抜いたこの大獅子…。力強くキリッと前方を見据える姿。そこに神秘的なパワーを皆さん感じ取っているのかもしれませんね。

遺骨収集の様子86

福岡さんが大獅子の口の中に手を入れていますが、大獅子には元々牙があったそうです。確かに牙の無いシーサーはイメージしにくいですよね。

遺骨収集の様子87

「富盛の石彫大獅子」です。この大獅子が設置されている高台は、首里を撤退し摩文仁一帯に陣をしいた守備軍の右翼を守る要衝だったので、米軍とのあいだで激しい争奪戦が展開され、おびただしい数の戦死者がでましたが、幸い砲撃等で破壊されることなく現在に至っています。

この大獅子は、火除け(火返し)として琉球王朝時代の尚貞王21年(1689年)に建立されたものです。高さ141cm 長さ175cmで1つの岩から彫られおり、沖縄に現存するシーサーの中で最も古いとされています。大獅子はフィーザン(火山)といわれる八重瀬嶽に向けて建立されています。沖縄各地にある村落祭祀上の目的で作られた獅子の中でも最大最古のものであり、民族資料としても貴重なものであるといわれています。 1974年には沖縄県指定有形文化財に指定され,今は町のシンボル的存在となっています。

沖縄戦当時の富盛の大獅子88

米軍側が撮影した沖縄戦の写真で、「富盛の石彫大獅子」の周囲で八重瀬嶽の日本軍守備部隊の動向を監視しているところです。
この写真は米国民向けの “やらせ写真” だとも言われています。

遺骨収集の様子89

「富盛の石彫大獅子」設置の由来は、当時村中に不審火が多いことで困っていた富盛村の住民が、久米村の蔡応瑞(大田親雲上)に風水を占ってもらった結果、「八重瀬嶽に火の性がある。早く獅子の形を作って八重瀬嶽に向けて立てよ」と教えました。その助言を受けて設置されたと伝えられています。実際に火事はなくなったというので、村人たちは「良かったさぁ~」「嬉シーサー」と、喜んだそうです。(笑)

遺骨収集の様子90

「富盛の石彫大獅子」は雄か雌か???
この写真で見る限り不明ですね。(笑)

沖縄の言葉では、「富盛の石彫大獅子」は「ともりのいしぼりうふじし」と読むと教えてもらいまして、沖縄の方言では、『うふ』は『大きい』を意味するそうです。『うふ 大きい』と並べて書くと、なんか下ネタっぽいですね~。(笑)

ちなみに雄雌は股間で見るのではなく、シーサーの口が開いてる方が雄で閉じてるほうが雌だそうです。大変失礼しますた~。(^^;)

遺骨収集の様子91

山上を見て回っても、勢理(じり)グスクの遺構は特に残っていない印象です。それにしても見通しがきくようになりました。昔は樹木の枝葉が鬱蒼と茂り、八重瀬嶽は全く見えませんでしたからね。

これは恐らく平成24年(2012年)沖縄を襲った台風による影響だと思われます。平成24年ですから三年前ですね。以前松永さんが話してくれたのですが、この年は巨大な台風が三回も沖縄に上陸したそうです。そしてこの三本の台風のいずれもがゆっくりとした速度で進んだため、本島はかなり長時間暴風雨に晒される事になったのです。

翌年の沖縄遺骨収集奉仕活動では、ジャングルに入り、その繰り返された台風被害の凄さを目の当たりにしたのです。ジャングルには大小含めて驚くほどの倒木を見かける事に相成った次第です。そして強烈な暴風雨に枝葉を飛ばされたのでしょう。その年はジャングルがやける “明るい” のを実感したものです。

この三本の巨大台風通過から、三年経過していますが、摩文仁之丘を含めて、総じて樹木に元気さが見られず、未だジャングルは以前のような緑濃い生き生きとしたジャングルにはほど遠い状況にあります。これはもしかしたら“塩害”というダメージが追い打ちを掛けた可能性がありますが、台風銀座沖縄の厳しい一面を垣間見た思いがしました。

PAGE TOP