平成27年(2015年)沖縄遺骨収集奉仕活動

2月10日(火) 午前単独で、午後四名にて摩文仁で遺骨収集

今日の天気予報は、曇り時々晴れ、降水確率30%という事ですが、朝からほぼ快晴の天気となっています。雨の心配は全く無さそうですよ。

今朝の慰霊巡拝は、「伊原第一外科壕」、「沖縄陸軍病院之塔」の二カ所です。それではご一緒に参拝しましょう。(^o^)

「伊原第一外科壕」

遺骨収集の様子1

「ひめゆりの塔」から国道を200メートルぐらいのところに、写真のような石の標識があります。横道は農道になっていますがおよそ150メートルぐらい進むと左手「伊原第一外科壕」が見えてきます。

遺骨収集の様子2

「伊原第一外科壕」に到着しました。沖縄戦当時は壕の上には樹木などは無かったと推測されますから、そうした視点で壕を俯瞰してみますと、かなり大きい縦穴に見えますね。穴を偽装するなどと言う事は不可能だと思えます。米軍飛行機からもよく見えたでしょうね。

遺骨収集の様子3

「伊原第一外科壕跡」の碑です。沖縄陸軍病院は本部・第一外科・糸数分室・第二外科・第三外科に分かれて業務を続けていました。第三外科の壕が際立って名を知られていますが、ここはその第一外科の壕という事になります。本日はこの後で沖縄陸軍病院本部壕にも慰霊巡拝する予定です。

遺骨収集の様子4

達筆すぎて読みにくいのですが、文字化したものを下に掲載させて頂きました。一部間違えているかもです。

【慰霊碑碑文】

ここは陸軍病院第一外科及び糸数分室所属の軍医看護婦、沖縄師範学校女子部、沖縄県立第一高等女学校職員生の徒のいた壕である。

米軍の迫まる1945年6月18日夜、軍より学徒隊は解散を命ぜられて、弾雨の中をさまよい照屋秀夫教授以下多くはついに消息をたった。軍医、看護婦患者も同じく死線を行く生死わかれの地点である。

ここで負傷戦没した生徒。

古波蔵満子、荻堂ウタ子、牧志鶴子、石川清子、浜元春子、知念芳、神田幸子、比嘉ヨシ、照屋貞子。

藤野憲夫沖縄県立第一中学校長もここで最後を遂げられた。謹んで記して御冥福を祈り平和を祈願する。

1974年6月 ひめゆり同窓会

遺骨収集の様子5

階段状になっている斜面を降りていきます。足下を注意しながら歩く必要がありますね。

遺骨収集の様子6

この雰囲気…。雨の日なんか、暗くて怖くて立ちすくんでしまいそうですね~。(^^;) いずれにしても、開口部が第三外科壕よりも格段に大きいので、空から容易に壕の存在を把握されたでしょうね。

遺骨収集の様子7

「伊原第一外科壕」に慰霊に訪れた方は、この場所で手を合わせる方が多いと思います。それにしても「ひめゆりの塔」の賑わいからすれば、ここはとても寂しい雰囲気ですが、階段と通路の土の踏み具合とかを観察しますと、それなりの人たちが慰霊に訪れているに違いないと思えて、少しホッとした心境になりました。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

遺骨収集の様子8

この場所、昨年は地下に染みこんだ雨水がここから流れ出て危険なので、土嚢が積み上げられていましたが、今年はご覧のようにカラカラに乾いています。地元の松永さんの話では、今年は雨が極端に少ないと語っていましたが、ここにもその言葉を裏付ける状況が観察されます。

遺骨収集の様子9

ここが壕口ですね。もう少し近づいてみましょう。

遺骨収集の様子10

この壕も第三外科壕と同じく陸軍病院壕でしたから、大勢の戦傷者が中に居たのでしょうが、沖縄戦当時の壕内はどんな状況だったのでしょうかね。現在のような汚泥に満たされていたのなら、患者のベッドなど設置不可能ですからね。いずれにしても昨年は壕口まで水位が上がってきてましたが、今年はご覧のように、雨が少なく奥の方まで土がみえていますね。長靴が必要と思えたので、更に奥に行くのは止めました。

遺骨収集の様子11

汚泥の深さが解りませんから立って歩けるのかどうか不明ですが、これまでの観察では傷病患者さんが100人ぐらいは入れるかなという印象です。最後に内部空間を撮影しようとしましたが、結局成功しませんでした。私はまだこの壕内に入ったことは無いです。ですから何時か中に入って全体の雰囲気を観察したいですね。

「沖縄陸軍病院之塔」

遺骨収集の様子12

道路脇にはご覧のような「沖縄陸軍病院慰霊之塔」という石碑が立っています。現在は碑のある場所は整備され整然とした場所となっていますが、昨年までは鬱蒼とした木が茂っていた場所でしたから、この碑も草に隠れてよく見えなかったという状態でした。

遺骨収集の様子13

「沖縄陸軍病院之塔」の敷地内に大きな広場があるのが印象的ですね。また昔は大きな木が何本もあり鬱蒼とした雰囲気でしたが、それらの木も適宜伐採されたりして、現在はご覧のように明るい雰囲気となっています。

遺骨収集の様子14

「沖縄陸軍病院之塔」です。昭和39年「沖縄陸軍病院戦没職員の碑」として建立され、平成6年「沖縄陸軍病院之塔」として再建されました。病院長広沢文吉軍医少将ほか軍人、軍属、医師、薬剤師、看護婦等43名が祀られています。

遺骨収集の様子15

碑文ですが読めますね。

遺骨収集の様子16

「春くるとひたすら待ちし若草の萌え立ついのち君は捧げぬ」、「水汲みに行きし看護婦死ににけり患者の水筒四つ持ちしまま」

遺骨収集の様子17

「沖縄陸軍病院本部壕跡」と言う石碑が建っていますね。この先にその壕がありますので入って見ましょう。

遺骨収集の様子18

これが沖縄陸軍病院本部壕です。大きな木がありますが、もちろん沖縄戦当時は無かったでしょう。ご覧のように開口部がとても大きくて偽装は出来なかったでしょうね。実際に艦砲砲弾の直撃を受けて、多くの人々が一瞬のうちに亡くなったり重傷を負いました。沖縄戦当時もご覧のような壕に降りていくスロープがあったのかどうかは不明です。

遺骨収集の様子19

20メートルぐらいスロープを降りた所で撮影しました。写真中央の黒っぽい所から更に奥に行くことが出来ます。

遺骨収集の様子20

40メートルぐらい前進したところで、開口部を撮影しました。壕の中にはひしめき合うように大勢の避難する人たちが居たのでしょうね。これだけ大きな開口部がありますから、直撃の艦砲砲弾が撃ち込まれたら、如何ともしがたいという状況です。

遺骨収集の様子21

壕の奥の方に進むとかなり大きな池があるのです。冬でも結構な水量がありますから、梅雨の頃なら更に水位が高かったかもしれません。ですからこの壕は水には困らなかったと思われます。

遺骨収集の様子22

ここが水が貯まっている場所ですが、これほど水位が低くなっているのは初めて見ました。今年は本当に雨が少ないのでしょうね。

遺骨収集の様子23

一升瓶が置いてありました。この一升瓶は昔からこの付近に置いてありますね。ペットボトルなんて便利な容器が無かった時代ですから、一升瓶は最も多用された容器だったでしょうね。

単独で摩文仁遺骨収集調査

本日の午前中は単独行動となりますが、幸いに天候は朝から晴れていますので、雨の心配もなさそうですから、その点は気が楽ですよ。 それでは、私が単独行動するとどのような行動になるのか、じっくりご覧下さいませ。といいつつ、普通にジャングルに入るだけなんですけどね。それでは一緒にジャングルに入ってみましょう。

遺骨収集の様子24

基本的にジャングルに入るに際しては、入り際で献花し手を合わせます。線香やロウソクは単独行の場合は、山火事になったら手に負えなくなるので一切使用しません。

遺骨収集では、単独で摩文仁ジャングルに入る場合もままあります。単独行の場合は、アクシデントの発生確率を下げるよう努力しなければなりません。すなわち確実に安全を確保する観点から、また社会にご迷惑を掛けないためにも、一定の原則とルールを、よりシビアに自分自身に課しています。単独でジャングルに入られる方は参考にして下さいませ。(^o^)

単独行動での守るべき基本原則

遺骨収集の様子25

緩やかな斜面ですが、蔓植物が凄いですね。といいつつよく見ると、金光教の遺骨収集で使用する赤テープによるマーキングがありますね。

遺骨収集の様子26

クワズイモ(不喰芋)が多いですね。こうした所は湿気が多いという証ですね。クワズイモは皮膚の粘膜を刺激する「シュウ酸カルシウム」という成分が含まれていますから、勿論食べてはいけませんし、切り口から出る汁も肌に触れないように注意しなければなりません。私もクワズイモの汁が目に入り、七転八倒した事がありますし、クワズイモを切断したノコギリ刃で同時に手を切ってしまい、結果として手の傷の部分がとても痛くなり、そして大きく腫れた経験があります。

という事で私はこのクワズイモからさんざんな目に遭わされていますが、何か憎めない植物なんですよね。ちなみにクワズイモは観賞用に普通に販売されていたりしますが、毒草に分類されているそうですから、ジャングルにおけるクワズイモの取り扱いには十分注意して下さいませ。

遺骨収集の様子27

道無き道を進む。斜面を登ってみましょう。

遺骨収集の様子28

金光教の遺骨収集で、今年取り組む収集区域は、昨年同様巨岩がゴロゴロ配置されている、おどろおどろしい岩場が連なります。

遺骨収集の様子29

巨岩が連なるので、喜屋武岬のようにアダンの林のような雰囲気の場所はありませんが、所々大きく成長したアダンが見られますね。

遺骨収集の様子30

大きな岩の陰…。付け根といっても良いでしょう。注意深く観察する必要がありますね。

遺骨収集の様子31

海が見えました。地図上ではジャングルに入ってから400メートルほど前進した事になります。ここからは引き返すような形で、別ルートを進んでいきます。今日は晴れてジャングルがとても明るいので、位置関係を把握しながらの行動も全く問題がありません。

遺骨収集の様子32

ちなみにここまではこれまでに何度か通った道、或いは近くに一度通った道があるような比較的地形を把握している地域でしたが、ここからは一度も通った事が無い地域に入ります。どんな風景が展開するか楽しみですよ。ちなみにご覧のような壕ではなく貫通している穴みたいなところは、単独行動でもどんどん入っていきます。

遺骨収集の様子33

大きな岩の壁が続いていますね。海と崖上とをつなぐ通路のような場所になっています。沖縄戦当時も多くの人達がここを行き来したかもしれません。

遺骨収集の様子34

絶好の隠れ場所ですね。入り口は北側にあるので、海からの攻撃は完全に防げます。壕入り口がどの方向を向いているか!!。これは生死を分ける極めて重要な意味を持ちますね。

遺骨収集の様子35

アングル的に少し解りにくいですが、縦穴壕がありました。入って見ましょう。

遺骨収集の様子36

少し高い山に登ってみました。時折こうして高い位置から周囲を俯瞰して、位置関係をインプットして、頭の中に地図を作成していきます。

遺骨収集の様子37

断崖と山が繰り返している様な地域ですね。結果的に絶壁になっている場所が多く、結構回り道を強いられました。引き続き海が見えますので、道に迷うことは無いのですが、頭の中の地図を修正する事になりました。

遺骨収集の様子38

凄いジャングルです。アダンも多いです。そして目前には、またまた絶壁が…。

遺骨収集の様子39

それにしてもこんな岩山なのに、栄養たっぷりなのかどでかいアダンとその他の植物の壁が凄いです。写真右寄りの岩の切れ目を目指す以外に手は無いようです~。それにしても晴れで良かった。雨や曇りなら、終日懐中電灯が必要になるような暗いジャングルになったはずです。

お昼ご飯ですよ (^o^)

遺骨収集の様子40

単独行での調査も無事に終えましたので、お昼ご飯は近いので便利なひめゆりの塔前にある「ひめゆりそば」さんで頂くことにしました。

遺骨収集の様子41

「みそ噌汁定食」定食です。沖縄ではポピュラーな定食ですね。ご覧のように肉もありますし野菜たっぷりです。そして食べてビックリ、ボリューム満点で美味しいですよ。

ちなみに「ひめゆりそば」さんですが、場所柄観光客が多いというイメージを持ちますが、一番多いお客さんは地元の方々なんですよ。地元の人々が立ち寄る食堂というのは、値段が手頃で美味しいというのはよく言われますよね。という事で、ひめゆりの塔前にある「ひめゆりそば」さんをぜひ一度訪ねてみて下さいませ。メニューも豊富ですよ。(^o^)

遺骨収集の様子42

食事を終えたら、店のおばさんが、「これ食べなさい」とサーターアンダギーを1個出してくれました。まだ揚げたてでしたから暖かくとても美味しかったですね~。(^o^)

ところで沖縄では、例えば食べ物を分けてもらう事も多いのですが、物をあげると言われた時には、素直にありがたく頂くと幸せになれるという意味合いの言い伝えがあると、沖縄のおばあから聞いたことがあります。それ以来、私も「どうぞ」と物を頂ける時は感謝しながらありがたく頂くようにしていま~す。(^o^)

松永さん、吉井氏と三人で摩文仁にて遺骨収集

午後一番に、防疫給水部隊の壕(束辺名洞、ウマウトゥーシーガマ)を見に行きました。7日に入った束里の壕からそれほど離れていないですし、防疫給水部隊の壕に連結している壕がこの稜線にあるに違いないと思えてなりません。この宿題はいつの日か解決するとして、とりあえずは上から防疫給水部隊の壕の様子を観察してみましょう。

遺骨収集の様子43

午後は松永さん、吉井さん、福岡さんと私の四人でジャングルに入ることになります。皆さん服装・装備完璧ですね。皆さんよろしくお願いします。

第二十七野戦防疫給水部隊壕 (ウマウトゥーシーガマ)

遺骨収集の様子44

防疫給水部隊壕(ウマウトゥーシーガマ)は束里にあります。現地を訪れてみますと、道路脇にご覧のようなコンクリート製の階段がありました。道もあるようですよ。それでは一緒に林の中を進んでみましょう。

遺骨収集の様子45

道路から50メートルぐらいでしょうか、林の中の道を進むと目的の防疫給水部隊壕(ウマウトゥーシーガマ)がありました。しかしご覧のように、鉄パイプと落下防止ネットが貼られていましたので下りることは出来ないようです。この壕で近々国による遺骨収集が始まるとの事のようですから、その準備作業段階なのでしょう。

遺骨収集の様子46

開口部も結構広いですね。これだけ広いと開口部の偽装も難しかったかもしれませんね。壕の深さはどうでしょうか。10メートルは無い印象ですが、それに準ずる数メートルの深さがあると思えますし、勿論ハシゴなどの機材が無いと下りられそうにありません。また横穴も幾つかありそうな雰囲気ですよ。元々あった自然の縦穴壕を横穴を掘る形で構築したものと推測されます。この束里の稜線下には、そうした構築壕が至る所にありますので、稜線に幾つも構築された壕との連絡通路が必ずあると思えてなりません。いつか機会があったら、ここを下りて調査してみたいですね。

遺骨収集の様子47

「第二十七野戦防疫給水部隊本部壕 故陸軍大尉伊藤欽弐戦死之地」の碑です。昭和44年3月建立となっています。第二十七野戦防疫給水部隊(球5753)は第32軍隷下の軍直属部隊で、伝染病等の疾病対策と安全な飲料水の確保が主な任務でしたが、沖縄戦当時では県内の浄水施設は那覇の上之屋に一カ所あるだけでした。ですから季節によっては同部隊は任務を遂行する上で、安全な飲料水の確保、運搬、貯蔵等に、大変な苦労を強いられた可能性がありますね。

防疫・給水は戦場では誠に地味な任務ですが、戦場で部隊を維持・展開する上で、兵士の食料と飲用水の確保は決定的に重要です。特に水は現地調達となり毎日何千リットルというボリュームで、浄化殺菌して病原菌が含まれない安全な水を各部隊の兵士に供給し続けねばなりません。また集団で行動する兵士の一人が伝染病に感染すれば、部隊が全滅する可能性もある訳ですからね。何処の戦場であろうとも、疾病対策の警戒を緩めるわけには参りません。

第二十七野戦防疫給水部隊兵士は、銃を持って敵を攻撃することはありませんが、沖縄で伝染病を発生させない疾病対策、或いは浄化殺菌された安全な飲料水の確保という、極めて重要な使命を果たさんと、弾雨をかいくぐり命尽きるまで、戦場を縦横に駆け巡ったに違いありません。

亜熱帯気候に属する沖縄県は、昔からマラリヤ、フイラリヤやアメーバー赤痢そしてハンセン病などの疫病地域として認知されていました。東南アジア諸国の戦場もそうでしたが、沖縄戦の渦中でもマラリヤやアメーバー赤痢などの伝染病蔓延の可能性が極めて高かったのです。実際に戦いの中で荒井警察部長はアメーバー赤痢に苦しまれましたし、沖縄戦末期には米軍の収容所でマラリアが蔓延し猛威を振るい、折角生きて捕虜になったのに収容所でマラリアにやられて病没された方が大勢居たのです。

摩文仁に移動して遺骨収集

遺骨収集の様子48

さあそれでは午後の調査・収集作業開始ですよ。(^o^)

遺骨収集の様子49

あちこちに大きな岩があって、とりあえずの避難場所には事欠きませんね。

遺骨収集の様子50

大きな瓶がありました。付近に風葬墓がある訳ではありません。飲料水を入れていたのでしょうね。

遺骨収集の様子51

ここは絶壁になった岩場ですが、上の方は煤で真っ黒ですね。

遺骨収集の様子52

福岡さんがとても大きな鉄の棒を発見しました。しばし皆であれこれと議論しましたが、何の部品かは判断しかねました。

遺骨収集の様子53

ここも大きな岩が割れたようにV字になった場所です。

遺骨収集の様子54

この様な起伏が激しく、複雑な地形が続きます。

遺骨収集の様子55

革製品ですね。兵隊さんが身につけていた物のようですが、何の部品でしょうかね~。

遺骨収集の様子56

海が見えてきました。少しずつ標高が上がってきたようです。

遺骨収集の様子57

ヒェ~~~。正にアダンの壁ですね。しかしながら突進するのみです。(^^;)

遺骨収集の様子58

一段と高い所に上がってきました。しばし周囲を観察です。

遺骨収集の様子59

ここも複雑な地形ですね~。

遺骨収集の様子60

開口部が海岸方面に向いていないですし、賢固で結構広いしと良い壕だったので入って調査しました。奥行き10メートルほどでした。特に遺品等は無かったです。

遺骨収集の様子61

吉井さんが薬莢を見つけたというので、発見した場所を掘り始めました。

遺骨収集の様子62

薬莢が二個見つかりましたね。

遺骨収集の様子63

御遺骨も出てきたようです。

遺骨収集の様子64

薬莢と御遺骨が出てきたので、後日この辺りを本格的に遺骨収集してみようという話になりました。

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