平成29年(2017年)沖縄遺骨収集奉仕活動

「72 年の時を超えて」真喜志 彰氏寄稿文

沖縄県南部・八重瀬町安里の老人ホーム近くの小高い丘に、太平洋を望むようにしてひっそりと佇む萬朶之塔(ばんだのとう)がある。この塔は、沖縄戦当時、独立混成第 44 旅団工兵隊の将兵と軍に協力した住民 200 余名を祀っている慰霊の塔である。私と弟は 40 数年前からかつてこの工兵隊の生き残りであった父と何度か暑い盛りの 6 月の慰霊の日に、この塔に参拝したことがあり、また近くの小高い森の中にあった工兵隊の埋没壕付近で線香をあげて献花をし、慰霊したことがあった。

父は生前、ほぼ毎年のようにバスを利用して、一人で暑い日差しが照りつける中、慰霊に行っていた。そして、戦後連絡のとれた村本福次隊長(熊本出身)と甲斐勇一曹長(宮崎出身)のご遺族を、萬朶之塔と埋没壕近くまで案内し、慰霊したことがあった。その頃はすでに戦後 10 数年が経っており、埋没壕付近は雑木が生い茂る密林となっていて、中まで分け入ることはほぼ不可能だった。父にとって遺骨収集は長年の夢であり、当時の県や厚生省に何度か掛け合ったが、諸般の事情により慰霊の塔で我慢していたのであった。

さて、2 年前の平成 27 年の慰霊の日に、ネットで萬朶之塔を検索していたら、毎年本土からやってくるある団体の遺骨収集ボランティアのブログに、萬朶之塔の記事が載っているのを偶然見つけた。そしてブログの責任者であり、遺骨収集ボランティアの中澤さんという方とメールでやり取りするようになった。

彼によると、萬朶之塔に関係する独立混成第 44 旅団工兵隊の埋没壕の場所を探しており、ぜひ遺骨収集作業をしたいということだった。私にとっては千載一隅の願ってもない機会であり、今年(平成 29 年)1 月の遺骨収集に来られた時に埋没壕に案内することで話がついた。そして、1 月 18 日当日午前、私と弟は中澤さんとその仲間の遺骨収集ボランティア数名と萬朶之塔で落ち合い、慰霊祭をして献花、ご焼香をした。

2017年1月26日/遺骨収集の様子no.

「萬朶之塔」とボランティアの皆さん

そのあと、埋没壕の近くに案内した。このあたりは、当時は見晴らしがよかっただろうと思われる場所にあった。夏場はハブも出没するところである。現に、父と同行して私と弟は暑い夏の盛りに埋没壕付近の密林に一度だけ分け入ったことがあり、その時に高い木の上を這うようにして移動する大きなハブを見て驚いて早々に退散したことがあった。

1 月のこの時期は気温が低く、ハブも活動が鈍る時であり、ボランティアの皆さんはいつもこの時期に遺骨収集作業をしているということだった。彼らは作業服、ヘルメット、手袋などで装備していて、まず 2 名が状況を確認するため、先発隊として鎌で雑木を切り払いながら注意深く森の中に分け入り、壕を探索していった。そして 15 分くらいすると、早くも森の中から「あったぞー」という大きな声が上がり、全員森の中へ入って行った。

その埋没壕は、幸いなことに 30 センチ四方の穴が開いていて、壕だということがすぐ確認できた。もしこの穴が開いていなかったら、壕の探索は難航したかも知れない。

2017年1月26日/遺骨収集の様子no.

発見された埋没壕

彼らは壕の入口を 1 メートル四方に広げて中に入っていって、手際よく遺骨や遺留品の有無を確認していった。そして午前中には頭蓋骨や遺留品があることを確認することができた。

午後になってから、遺骨収集作業の大事な次の手順として、警察、役所、県平和祈念財団戦没者遺骨収集情報センターへ頭蓋骨や遺留品の発見を通報した。

翌日 19 日には、3 者がきて壕内を調査、確認した。警察は、遺骨が事件性がないことを確認する。役所は、その場所が遺跡指定でないことを確認する。そして、戦没者遺骨収集情報センターは埋没壕であることを確認する。3 者が問題ないことを確認し、遺骨収集作業をしてよいという了解を得て、20 日の午前中からボランティアの皆さんは、遺骨収集作業に本格的に着手した。

2017年1月26日/遺骨収集の様子no.

遺骨収集作業

2017年1月26日/遺骨収集の様子no.

壕内の作業

壕の中から土にまみれた遺骨や遺留品と思われるものを次々とバケツで運び出して、網のこしきでふるいにかけて選別していった。そして午後になってから、ついに頭蓋骨から肩甲骨、大腿骨、上腕骨、腰骨などほぼ一体分の遺骨を収集した。作業は翌 21 日まで続けられ、水筒や飯ごうのふた、弾薬、小銭、ボタン、靴底、さらには金冠の義歯などたくさんの遺留品も見つかった。遺骨は前日 20 日の一体分だけだった。収集した遺骨や遺留品は 21 日の夕方に県の戦没者遺骨収集情報センターに運ばれた。そこで選別作業が行われる。

2017年1月26日/遺骨収集の様子no.

発見された遺骨

2017年1月26日/遺骨収集の様子no.

発見された遺留品

遺骨発見については、2 月 1 日の新聞で大きく報道された。それから数日後、新聞を見て驚いた。戦没者遺骨収集情報センターの職員が遺留品を整理、分析していたところ、つぶれた水筒にくっついていた金属片がはがれ落ちてきた。泥や砂を洗浄し、磨いてみると、何と「村本福次」という名前が彫られたお守りのようなものが見つかったというのだ。裏は大日如来の文字と像が彫られていた。大きさは縦 3cm、横 2cm 程度の銅製であり、上に小さな穴が開いていて、きっとその持ち主は、当時その穴に紐を通して首にかけていたのではないかと思われた。

2017年1月26日/遺骨収集の様子no.

発見されたお守りの表

2017年1月26日/遺骨収集の様子no.

発見されたお守りの裏

そう、「村本福次」はあの独立混成第 44 旅団工兵隊の隊長その人である。きっと 72 年の時を超えて、村本隊長が俺はここにいるぞ、待っていたぞ、と呼びかけてきたのではないか。そういう思いにとらわれて、私は胸にじんとせまるものがあった。

もし戦没者遺骨収集情報センターでつぶれて泥にまみれた水筒をそのままにしていたら、「村本福次」のお守りは水筒の遺留品として、センターの保管庫に永遠に見つからずに眠っていたかも知れない。戦没者遺骨収集情報センターの丁寧なきめ細かい作業には脱帽である。感謝である。まさに奇跡の発見であった。

そこで、私は村本隊長のご遺族に連絡をとろうと思い、はやる気持ちを抑えて父の生前の手帳を調べたら、20 年以上も前にご遺族と年賀状のやり取りをしていた福岡県の住所が見つかった。何とか連絡が取れるように祈る気持ちで手紙を出した。すると 2 日後に、村本隊長の次女の S さんから私の携帯に元気そうな声で電話があった。手紙は前の住所から転送されて、今は老人ホームにいるという S さんに届いたのであった。

話を聞くと、母と姉、妹はすでに他界し、S さん自身は 5 年前に重い病で倒れて、体が不自由となり現在車椅子の生活だという。今年 80 歳になられる。幸いなことに、言葉は明瞭で自由に話ができ、携帯電話を持っているということだった。

いろいろ今回の遺骨収集での遺骨発見やお守り発見の話をすると感慨深げに時々涙ぐみ、今回の発見を喜ぶと同時に、体が思うようにいかないのがとてももどかしく、残念ということであった。また遺骨はまだどなたのものであるか DNA 鑑定を待たなければならないが、「村本福次」のお守りは間違いなく父のものであり、一日も早く戻ってくるように祈っているということだった。これについては、私の方から県の援護課をとおして、厚労省に S さんの意向を伝えてもらうように要望書でお願いした。

それからしばらくして、S さんからまた電話があり、私の父から S さんの母に宛てた、何と 60 年以上も前の手紙の話をされた。奇跡的にまだ S さんの手元に大事に保管しているという。

この中で昭和 20 年 6 月の沖縄戦の終戦間際の壕の周辺での当時の厳しい戦況の様子が出てきた。そしていくつかの兵士の名前も出てきた。父はその当時、人事担当をしており、いつも村本隊長の側にいて、南部の各地に散らばる壕と壕の間の伝令役をしていたということだった。従って、村本隊長の様子や戦闘の様子が詳細に書かれていた。また、壕の中には重傷を負って横たわっていたという甲斐曹長がいた。私は貴重な資料であり、ぜひともコピーを頂きたいとお願いしたら、すぐに父が書いたと分かる、くせのある文字で書かれた A4 版で 12 枚のなつかしい父の手紙のコピーが送られてきた。

手紙の内容は、戦後 10 年目に一人でかつての壕に入ったが、遺骨は発見されず、終戦直後、付近住民が真っ先に手を付けたのが遺骨の収容と慰霊の塔の建立であり、隊長のご遺骨も慰霊の塔にきっと合祀されているのではないか、と言ったことや当時の壕を守る日本兵と戦車や機銃掃射で攻めてくる米軍の激しい 3 日間の戦闘の模様が、あたかも今戦闘しているような臨場感で書かれていた。

中でも貫通銃創で瀕死の状態で横たわる甲斐曹長の苦しみや次々と部下の死を見送る村本隊長の苦悩の様子には心が打たれた。また、父は敵の機銃掃射で、一発が腹部に命中して、その衝撃で上衣がパッと跳ね上がり、もはやこれまでかと瞬間思ったが、奇跡的に弾は上衣のポケットに入れてあった自決用の手榴弾に当たって、真っ二つに割れて黄色い火薬が飛び散っただけであり、事なきをえて命拾いしたというヒャッとするようなことも書かれていた。

そのような激しい戦闘の中、興味深い話があった。それは宮原衛生軍曹が村本隊長に進言した、夜間に敵中を突破して 4 月 27 日まで駐屯していた玉城村の糸数部落の味方の壕へ行き、そこでみんなと合流して、機会を見つけて国頭山中の宇土部隊に合流し、再起を図るべきだ、ということに村本隊長が了解したということだった。そこで地理に詳しい地元の父を道案内役にした、ということである。

その際、村本隊長は元気な兵隊を斬り込みで討ち死にすることに忍びず、部隊の解散を命じられ、元気な者は壕を出ていったのである。壕にはもはや村本隊長と重傷の甲斐曹長外 2,3 名の負傷した兵が残るだけであり、その後自決したのではないかと思われた。

そういう沖縄戦終結直前の緊迫した手紙の内容であった。いろいろな奇跡的と思われる経緯を経て、その後父は運よく激戦の沖縄戦を生きのびたであった。この手紙を読んで、戦後を生真面目に生ききった父が戦後、埋没壕や萬朶之塔に毎年のように足繁く通い、そしていつの日か戦友の遺骨を収集し、御霊を慰霊して、願わくばご遺族の元に遺骨を返してあげたいという父の気持ちがひしひしと伝わってきて、思わず涙した。

戦友とは、きっと私の知りようもない強い絆で結ばれた仲間たちであり、戦争を生き残った者が持っている、心の中にいつまでも消え去ることがない存在なのだろう。少しではあるが父の思いが理解できた気がした。

その父も念願かなわず 19 年前に他界したが、父が戦後我々兄弟に、6 月やお盆の頃になるといつも口癖のようになんとか遺骨を収集したいと語ってきたことが、今回の遺骨収集ボランティアの力により、ついに一部ではあるが、遺骨や遺留品の収集をすることができた。本当に感無量である。

今にして思えば、2 年前の慰霊の日に、何気なくネットで検索した「萬朶之塔」で中澤さんのブログに巡り会い、そして中澤さんとその仲間たちである遺骨収集ボランティアの皆さんに巡り会うという幸運に恵まれ、このような奇跡的と思えるような結果となった。ほんとにただ、ただ不思議な気持ちである。

また、今回の遺骨収集ボランティアには、沖縄県からも松永さん、仲里さんの 2 名の方が参加していた。中澤さんをはじめ、皆さんには言葉では言い尽くせないほど感謝の気持ちで一杯である。彼らの献身的な活動には頭が下がる。本当にお世話になりました。ありがとうございました。

なお、壕内で作業した中澤さんや松永さんの話によれば、壕には別の入口があり、そこは古いお墓となっていて、今回の戦没者の遺骨とは明らかに違う古い人骨らしきものがあったが、それには手を付けていないということである。また更に探索していけば、新たに戦没者の遺骨が発見される可能性がある、ということで次回以降の検討課題にしたいということだった。

さて、次の焦点は今回壕で発見された一体の遺骨は果たして誰かということになるが、父の手紙から推察するに、考えられるのはお守りが発見された村本隊長かまたは重傷を負っていた甲斐曹長ではないかと思われるのである。なお、その後の遺骨や遺留品の経過については、沖縄県から厚労省に引き渡され、全国で発見された戦没者等の遺骨も含めて DNA 鑑定が順次行われているということである。

中澤さんが厚労省に確認したところ、鑑定結果が出るには半年から 1 年程度、あるいはそれ以上はかかるらしいということである。そして遺骨の DNA 鑑定が終わらないと遺留品も返却されないという規則になっているらしいということだった。

ご高齢で病身の S さんのお気持ちは、DNA 鑑定にかかわらず「村本福次」のお守りは間違いなく父のものであり、お守りだけでも早く手元に戻ってきて、この胸に抱きしめてあげたいということである。願わくば、長い間 S さんが待ち望んできたご希望を何とかかなえさせてあげたいものである。厚労省の英断に期待したい。

今年も 6 月 23 日の慰霊の日や 8 月 15 日の終戦記念日を迎えたが、残念ながらまだ結果は出ていない。一刻も早く、DNA 鑑定が行われて、ご遺族の基に遺留品や遺骨が早期に返還されることを祈るばかりである。合掌。

平成 29 年 8 月 15 日 真喜志  彰

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