平成29年(2017年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月22日(日) 収骨作業現場の最終点検

二日前の、平成29年1月20日の日付で、琉球新報に金光教の遺骨収集に関わる記事が掲載されていましたので、皆様にご紹介いたします。(^o^)

【遺骨収集3団体 県が感謝状贈呈】

「琉球新報」平成29年(2017年)1月20日

遺骨収集功労団体への感謝状贈呈式が19日、県庁で開かれた。浦崎唯昭副知事が、沖縄戦の戦没者の遺骨収集に長年取り組んできた県遺族連合会、金光教沖縄遺骨収集奉仕団、修養団の3団体に感謝状を贈呈した。県から、遺骨収集に取り組む団体へ感謝状が贈呈されるのは初めて。

浦崎副知事は「戦争体験者や遺族も高齢化している中、皆さんの活動を踏まえ戦争の悲惨さと平和の大切さを次世代に伝えていきたい」と述べ、活動に感謝の意を示した。

県遺族連合会は、活動歴55年。宮城篤正会長は「最後の1柱までという思いがある。これからも遺骨収集を実施していきたい」と話した。

金光教沖縄遺骨収集奉仕団の窓口である金光教那覇教会の林雅信教会長は「今年で活動は44年目になるが遺骨は必ず出てくる。遺骨の収集は続けなければいけない」と話した。

修養団のSYDボランティア友の会の坂本大生会長は、2016年度で30年継続してきた収集活動に幕を下ろすことを報告した。

「琉球新報」から転載させて頂きました

琉球新報の記事によりますと、最も長い期間取り組まれた沖縄県遺族連合会は55年、金光教沖縄遺骨収集奉仕団は43年、修養団は30年、それぞれ活動を続けられたという話です。各団体共に長く長く続けられた事に心から「お疲れ様でございました。そして有り難うございました。」と申し上げたいですね。(^o^)

今日の天気予報は、曇り。最高気温18度の予報です。今日は最終日ですが、今年の天候は抜群に恵まれたと総括して良いでしょう。天気の神様、有り難うございました。今朝の慰霊巡拝は、「陸軍病院第二外科壕」「糸洲の壕」、そして「轟の壕」です。それではご一緒に慰霊巡拝しましょう。(^o^)

「陸軍病院第二外科壕」

2017年1月22日/遺骨収集の様子no.1

国道331号線から脇道を100メートルぐらい進むと、小高い稜線の切り通しありまして、その切り通しを過ぎる際に右側を注意深く見て進むと、この写真の場所に出ますすから、見落とす事は無いと思われます。ご覧のように車も一台止めることが出来ます。また40メートルぐらい離れた場所に駐車場もあります。慰霊塔のあるこの場所は、東西に延びる小高い稜線の裾にあたり、前の方には畑が広がっていますし、海も見えます。

2017年1月22日/遺骨収集の様子no.2

「陸軍病院第二外科壕」と書かれた石碑と共に、第二外科壕の開口部が見えてきました。この壕は6月18日に米軍に発見されてしまいましたが、動ける人は夜間に脱出し第一、第三外科壕方面に逃れました。そして19日には馬乗り攻撃を受けました。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

2017年1月22日/遺骨収集の様子no.3

数年前までは、この壕開口部は閉ざされていましたが、何者かにより壕口が開けられ、中に入れるようになりました。壕は構築壕であり、出入り口は二カ所あると言われています。稜線にそって行くと、そのもう一カ所の入り口があるそうですから、機会があれば探してみたいと思います。またこの壕口から右側にも坑道があったそうですが、切り通りの道路を作る際に潰されたという話です。

2017年1月22日/遺骨収集の様子no.4

壕の中に入りまして、コンクリート製の納骨堂が見えてきましたが、この納骨する海兵口も開けられています。正に墓荒らしみたいな状態に現在なっています。なるたけ早く壕口を塞ぎ、静かなたたずまいに戻すよう行政の方に御願いしたいですね。

「糸洲の壕」

2017年1月22日/遺骨収集の様子no.5

「糸洲の壕」がある場所は、ご覧のように柵で仕切られて工事中で入れませんでした。

2017年1月22日/遺骨収集の様子no.6

地下5メートル程の所に、ご覧のような下水道でしょうか、太い配管が設置されようとしています。「糸洲の壕」入り口は、コンクリートで斜面を固めてありますが、すぐ横にあると思われます。工事が完成すれば、再び壕には入れるものと思われます。早ければ来年の慰霊巡拝では訪れることが出来るかも知れませんね。

「轟の壕」

2017年1月22日/遺骨収集の様子no.7

「轟の壕」は自然洞穴で、全長約100メートルほどの長さがあり、そこには川が流れています。窪地となっている地表部の見える部分の高低差は20メートルぐらいでしょうか。まずは地表部分を降りていきます。木々が生い茂り窪地の様子も見えませんが、沖縄戦当時も同じように木々が生い茂り、天然に偽装されていたようです。

2017年1月22日/遺骨収集の様子no.8

窪地を少し降りていきますと、ご覧のような光景になっていますから、窪地になっているのがハッキリ解るようになりますね。ちなみに階段はコンクリート製になっていますので、比較的安心して歩けますが、やはり雨の日は要注意という印象ですね。

2017年1月22日/遺骨収集の様子no.9

だいぶ降りてきました。入り口方向を撮影してみました。こうして見るとかなり大きな開口部であるのが解ります。艦砲射撃等で木々がなぎ倒された以降は、窪地が米軍偵察機からもよく見えた事でしょう。ところで「轟の壕」では、沖縄戦当時(地下)1階、2階、3階という表現を使っていたそうです。(地下)3階が一番深い川の流れている層です。いわゆる三層構造になっているのですね。写真に写されている部分は(地下)2階という事になるようです。

2017年1月22日/遺骨収集の様子no.10

階段を降り続けて、少し解りにくいですが、壕の入り口が見えてきましたね。拝所らしきものが複数箇所ありますが、ここで手を合わせました。花束は再び手に取り中まで持参しまして、改めて献花し手を合わせました。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

2017年1月22日/遺骨収集の様子no.11

入り口が見えてきましたね。出入り口は一カ所だけです。戦時中は最も多いときで千人は超えて居たのではないかと言われています。「轟の壕」では島田叡(あきら)知事をはじめ沖縄県県庁が6月5日(諸説あります)に移動して参りましたが、知事一行の先発隊として下見した職員は、「広げる枝々が円筒型の口を半分以上も蔽い、天然の偽装となって役立ち、壕内千数百人の戦争に怯える人達を、無慈悲な鉄火の脅威から守ってくれていた」と述べています。

6月5日から「轟の壕」で県庁業務が開始されましたが、6月15日(諸説あります)にはなんと警察部も含めた沖縄県県庁を解散すると宣言したのです。掃討戦を展開する米兵は戦車を先頭に刻一刻と島尻に迫っていたのでした。県庁職員の方々も壕外で業務もまともに出来ない状況下、解散宣言はやむを得ない決定であったと受け入れられたようです。ちなみに6月16日(諸説あります)島田知事は摩文仁の司令部壕に向かうため「轟の壕」を離れました。こうした経緯もあり、「轟の壕」は「沖縄県庁最後の地」とも言われているそうです。更に詳しく知りたい方は、「沖縄の島守 内務官僚かく戦えり」田村洋三著をご覧下さいませ。

2017年1月22日/遺骨収集の様子no.12

壕入り口付近で振り返り撮影しました。木は吹き飛ばされて無かったでしょうから、思いのほか明るいという印象を受けました。

2017年1月22日/遺骨収集の様子no.13

壕の中に入っています。奥に行くに従って岩面が黒くなっているのが見てとれます。通路はかなり狭いです。手袋とヘルメットは必須ですね。

2017年1月22日/遺骨収集の様子no.14

10メートルぐらい入った所で振り返り撮影しました

2017年1月22日/遺骨収集の様子no.15

湧き水が流れている場所まで降りてきました。沖縄戦当時は、(地下)3階と呼ばれていた場所です。ここでは全く光を確認できません。今日は一人なのでこれ以上奥には行けませんが、川沿いに道といいましょうか、当時としては人が居られた部分という事になりますが、多少のアップダウンがありますが、かなりの人数を収容する場所があります。ちなみに長さは100メートルぐらいと言われています。一番奥まった所には池があり、地上の酪農家が設置した給水配管が降りてきています。そのあたりが人の居住できた最奥部の場所と思われますが、私も一度その最奥部まで調査したことがあります。

「轟の壕」は、6月18日から米軍による激しい馬乗り攻撃が始まりました。ガソリンの入ったドラム缶に爆薬を仕掛けたものを落とし込むなど執拗な馬乗り攻撃は三日三晩続いたといわれています。

2017年1月22日/遺骨収集の様子no.16

湧き水が流れている場所まで降りてきまして、上の写真は左側を撮影したものですが、この写真は右側を撮影しています。こちらが水上という事になります。どちらかというと水上側の方が乾燥していて居心地は良かったとされています。

2017年1月22日/遺骨収集の様子no.17

上を見上げるとご覧のように沢山の鍾乳石が下がっています。よく見ますと垂れ下がっている鍾乳石が大規模に切られているのが見てとれますね。沖縄戦当時中に入った方々が怪我をしないように切り欠いたものと思われます。こうした措置はヌヌマチガマでも見られます。

お酒を頂きました (^o^)

2017年1月22日/遺骨収集の様子no.18

今回の遺骨収集も本日が最終日です。いつものように駐車場で身支度を調えていると、花売りおばさんの一人が声を掛けてきて、ご覧のような琉球泡盛「久米島の久米仙」を頂きました。お世話になったのは私なのに、はからずも高価なものを頂いてしまいました。花売りおばさんの皆様、本当に有り難うございました。来年も参りますので皆様と再会出来ますことを心より祈っています。有り難うございました。(^o^)

遺骨調査・収集作業開始です

サイト管理人も、今日の夕刻には沖縄を離れます。他のメンバーの皆さんは、すでに沖縄を後にしました。本日は私と松永さんの二人で、残務整理といいましょうか、今回の遺骨収集地域を今一度回って、作業完了後の後始末が適切に行われているか確認するために見回りして来ます。予定カ所は二カ所です。また当該地域の遺骨収集に関わる今後の対応方針を話し合うという側面もありますので、十分に話し合ってこようと思います。(^o^)

摩文仁の大きな壕

2017年1月22日/遺骨収集の様子no.19

いつものルートを降りて摩文仁の大きな壕に向かいます。雨とか雨上がりの場合は、ジャングルはとても歩きにくいし危険ですけど、今日も路面は乾いており、安心して歩けます。

2017年1月22日/遺骨収集の様子no.20

間もなく大きな壕口に達します。

2017年1月22日/遺骨収集の様子no.21

眼前の場所が、遺骨収集に取り組んだ場所です。遺骨収集を終えている場所、未達の場所がハッキリ見てとれます。今後の壕内での作業は、この様にメリハリのある作業を心がけるようにします。ちなみに忘れ物も無いですし、不適切なやり方で遺骨収集を終えている様子もありませんでした。良い仕事をしていると思いました。

2017年1月22日/遺骨収集の様子no.22

少し脇道に逸れてしまいますがお許し下さい。この骨は大きな物で、この壕の向かい側の出口に何年も前から置いてあるのです。壕口を通る際は必ず目にするものですから、誰もがこの骨の存在を知っていて、そして誰もがこの骨は大きな魚の骨だと思っているようです。そうした中で、今回の遺骨収集で、この骨は「牛の骨」である事が判明しました。下の写真をご覧下さい。

2017年1月26日/遺骨収集の様子no.23

この骨は、19日に独立混成第四十四旅団司令部壕内で見つけたものです。この壕は地域で飼われている牛や山羊、その他の動物が病死した際に、いわゆる捨てる場所としている壕です。骨の大きさもほぼ同じです。この壕内でこの骨を見た時に、私は一気に疑念が解けて感動しました。取るに足らない事と思われる方も多いでしょうが、こうした事の究明も大事なんです。次の段階として、牛のどの部分の骨か突き止めますよ。(笑)

完全一体ご遺骨発見の壕

2017年1月22日/遺骨収集の様子no.24

この壕での遺骨収集を終えて撤収する際は、松永さんは所用で出かけていましたから、問題や課題が残されていないか調べてもらいます。

2017年1月22日/遺骨収集の様子no.25

松永さんが調査した結果、壕内部については問題無しと言って頂きました。ちなみに壕の外では、壕から搬出した残土が山盛りになったままでしたので、これはまずいという事で、山になっている土砂を周辺に散らし、ほぼ平らにしました。

2017年1月22日/遺骨収集の様子no.26

但し、壕口については松永さんが、「発見当初よりも開口部を広げてしまったので、子供などが迷い込んで事故死するなどしたら大変だから、壕口は可能な限り塞ぎましょう」と提案され、そのように施工しました。写真は壕口をほぼ塞ぎ、擬装した後の様子です。壕口があるなんて全く解りませんよね。本日も良い仕事をしました。こういうのを自画自賛と言うのかな~。(^o^)

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