平成26年(2014年)沖縄遺骨収集奉仕活動

2月12日(水) ヌヌマチガマとガラビガマ間往復、ヌヌマチガマにて遺骨収集

今日の天気予報は、昼頃まで雷を伴う激しい雨が降る予報です。最高気温は18度との事。神様、天候のご加護を…。(^^;)

いつものように、摩文仁平和祈念公園に行く道すがら、慰霊塔・慰霊碑巡拝をして行きます。今日は「陸軍病院第二外科壕」と「糸洲の壕」(ウッカーガマ)の二カ所です。

「陸軍病院第二外科壕」

遺骨収集の様子1

国道331号線から脇道に逸れ、100メートルぐらい進と右側目的の「陸軍病院第二外科壕」がありました。道路から見るとご覧のような風景となります。石碑とかが見えるので見逃すことは無いと思われます。

遺骨収集の様子2

壕付近から南の方向を見ています。ちょっと解りにくいですが、右手には天気が良ければ海が見えるかもしれません。ここから1キロメートル東に行くと海ですし、沖縄戦当時はこの辺りの木々もほとんど無かったでしょうからね。

遺骨収集の様子3

近づいてみますと「陸軍病院第二外科壕」という石碑が立っています。この石碑を目印にすると良いですね。献花してから撮影しました。献花してあるところの山肌に壕があります。この第二外科壕は、6月18日米軍による馬乗り攻撃を受け、多くの死傷者がでました。

遺骨収集の様子4

目の前にあるのが「陸軍病院第二外科壕」です。

遺骨収集の様子5

この壕は予てより塞がれていましたが、一昨年から誰かが墓を暴き、中に入れるようにしたようです。墓を暴かれてから今日まで、未だに塞がれないのはどういう理由なのでしょうかね。

遺骨収集の様子6

壕の中にはコンクリート製の納骨堂があります。

遺骨収集の様子7

更に中に入ってみますと、納骨堂の蓋さえ外されています。中のご遺骨を持ち去ったと言う事でしょうかね。何のために?。

「糸洲の壕」(ウッカーガマ)

遺骨収集の様子8

国道331号線上に「山第二野戦病院小池隊最期の地 積徳高女看護隊(糸洲の壕)」と書かれて看板がありますから、思いの外探しやすいのではないかと思います。ここが壕のある場所です。

※轟の壕が山裾の林の中にあるのと対照的に、こちらはいろんな野菜が栽培されている畑の一角に壕入り口があります。駐車場は限られたスペースしかありませんので、農家に迷惑を掛けないような配慮が必要と思われますので、見学時は十分にご注意下さいませ。

遺骨収集の様子9

鎮魂の碑の碑文です。

遺骨収集の様子10

この階段を降りると「糸洲の壕」(ウッカーガマ)があります。それでは一緒に入って見ましょう。

遺骨収集の様子11

自生か野生化したのか不明ですが、インパチェンスが咲き誇っていますね。今年は花数が少ないですね。

遺骨収集の様子12

階段を降りて振り返ってみますとこんな感じです。壕口はかなり大きくて、米軍に容易に発見されたでしょう。連日激しい馬乗り攻撃を受けたそうです。

遺骨収集の様子13

ここから壕となります。沖縄戦当時病院壕として利用されました。入り口は二カ所ありますが、私はまだもう一カ所の入り口から入った事はありません。

遺骨収集の様子14

20メートルほど奥に入って撮影しました。黒いのはホースです。農家が取水しているようです。この壕は水は豊富だったようですね。他方湿気が高いので夏場の生活は悲惨だったかもです。

この壕は連日爆雷やガス弾が投げ込まれるなど、米軍の執拗な馬乗り攻撃を受けましたが、幸いに学徒隊の戦死者は出て居ません。沖縄戦が終わっている6月26日解散命令が出た事もありますが(意図的に解散命令を遅らせたという話です)、第二十四師団小池隊長は「決して死んではいけない、必ず生きて家族のもとに帰りなさい…」と看護隊員一人一人の手を握り云われたそうですから、そうした訓示が生徒を勇気づけたのかもしれません。小池隊長ご自身は、その後この壕で自決しました。

ヌヌマチガマ、ガラビガマ間の往復調査

本日は「ヌヌマチガマ」「ガラビガマ」間の入壕調査です。西側出入り口を 「ヌヌマチガマ」、東側出入り口を 「ガラビガマ」 と呼ぶ、全長500メートル程に及ぶこの巨大鍾乳洞は、沖縄戦が始まる前は第24師団(山部隊)歩兵第89連隊第2大隊の野戦病院として利用されていました。

陸軍野戦病院の本部は八重瀬町富盛の八重瀬岳にある第24師団第一野戦病院でしたが、米軍上陸後中部戦線である嘉数高地・前田高地等での激戦が続くようになると負傷者が急増しました。

1945年4月下旬、負傷者急増に伴い、新城・新垣・与座にある壕に分院を設けたのです。新城の分院が「ガラビガマ」なのです。
史料を読むと、メインの出入り口は「ガラビガマ」だったという印象ですね。

新城の分院は、開設当初は軍医一人、看護婦一人、衛生兵、県立第二高等女学校の学徒看護隊、つまり白梅学徒隊の生徒3人 (最終的に5人) が加わり、また地元から女子青年団員も大勢動員され、看護体制を整えたと言われています。

戦闘の激化に伴い、収容患者数はピーク時で千名にも及んだと記されています。これだけの数の重軽傷患者を、ランプやローソクなどのささやかな明かりを頼りに、野戦病院関係者は懸命に看護活動に邁進したのです。

包帯やガーゼ、消毒液、各種薬品なにもかもが不足しています。何よりも麻酔薬なしでの外科手術が行われたそうですから、その現場たるや…。言葉を失ってしまいますね。

麻酔なしで手足を切断したという話がありましたが、その手足を埋めた場所は、現在でも把握されていないという話です。

包帯などの洗濯も学徒さんや女子青年団員の仕事だったようで、ガラビガマ側の出入り口付近に地下水が湧き出すところがあり、そこで洗濯をしていたといいます。

「看護婦さん、看護婦さ~ん」と呼ばれてランプを頼りに、患者さんの元にたどり着くと、「痛い、痛い」というので、包帯を外して患部を見るとウジが一杯湧いているので、ウジを一生懸命ピンセットで取ってやったそうです。

また呼ばれて患者さんの元に訪ねると、「隣の人の様子が変だ」というので、隣の患者さんの様子を見ると、すでに死んでいてウジの住み家になっていた…。という事もあったそうです。

4月も後半になりますと、あらゆる物資が底をつき、日本軍将兵や看護婦、そして患者さんの食糧確保も困難を極め、記述によれば一日で、小さいおにぎり一個しか配給されない日々が続いたとあります。

患者さんは体力をつけて怪我の回復を計ろうにも、食べるものもないという事であれば、きっと怪我や病気の回復も遅々として進まなかったかもしれませんよ。

治療や看護にあたる医師や看護婦さん達の、想像を超える困難さは容易に想像できます。戦争ですから、手や足を吹き飛ばされたり、内臓が露出していたり穴が開いていたり…。

もちろん一人ではトイレや寝返りさえうてない重症患者も大勢居たかも知れません。重症患者は重傷と高熱で脳が冒されてしまい脳症患者となり、苦しみでのたうち回り、大声を出したり暴れ回るといった悲劇的な結末になっていくそうです。

また傷口からバイ菌が入り、脳に障害をもたらすという破傷風患者も大勢居たと言われています。

治療する側とされる側の人数の圧倒的な乖離。空腹に打ちひしがれながらの各種看護作業。患者さんへの水や食料の配布などなど…。

昼夜を能わず看護活動に明け暮れた、学徒看護隊や女子青年団員の方々に、本当にご苦労さまでしたと言いたいですよね。

患者さんも看護する側の困難さが解っているから、患者さんは余計に我慢我慢の日々を送った事もあったかもしれません。優しい日本人ですから。

沖縄戦も二ヶ月が経過し、6月3日に米軍が「ヌヌマチガマ」から2キロほど離れた港川海岸から上陸するという情報がもたらされ、ここ新城分院は解散し八重瀬岳の本部に合流する事となり、その時に決定的な悲劇が訪れたのです。

解散に際し動けない重症患者には青酸カリが配られて、かなりの数の患者さんがこの壕内で亡くなったと言われています。手榴弾を持っていた人はそれを爆発させて自決しましたし、また拳銃などを持っていた兵隊さんは、自分の頭を拳銃で撃ったと言われており、実際に戦後の遺骨収集では、頭骨に穴が開いている御遺骨が複数発見された事からも、それが裏付けられています。

これはとても心の痛む問題です。その時身動きのとれない彼らは何を思ったか…。故郷に帰る夢が遠のき、無念の哀しみの中で息を引きとったのか…。

私もここで亡くならざるを得なかった五百名もの重症患者さんたちの思いがどのようなものであったのか。心を静め、重症患者になりきりその思いを、私なりに確認して来ようと思います。

それでは、参加記をご覧になっている皆様も一緒に、ヌヌマチガマ側から巨大鍾乳洞の中に入ってみましょう。

ヌヌマチガマ、ガラビガマ間の往路調査

遺骨収集の様子15

さて本日はベテランさん揃いのご覧のメンバーで、野戦病院として利用された、ヌヌマチガマ、ガラビガマ間の往復をしようという話になりました。私は複数回往復していますが、なかなか順路を覚えきれません。壕内があまりに複雑怪奇であるからなのですが、今回も冒険心を持って取り組んでみたいと思います。それではレッツラゴー。(^o^)

遺骨収集の様子16

さあ入っていきましょう。最初は少し狭いので身体をかがめて入ることになります。

遺骨収集の様子17

鍾乳石の一つです。珍しい形です。水が滴り落ちていましたから、今なお成長を続けているのでしょうね。鍾乳石は本当にいろんな形があります。

遺骨収集の様子18

最初の広い空間です。今年はいつになく雨が多いのでしょうか。床面がとてもぬかるんで歩きにくいです。沖縄戦当時もこんな床面では、病院壕とは言え、看護もままならなかったでしょうね。

遺骨収集の様子19

急な上り坂になりました。壕に入ってからまだ100メートルは過ぎていないと思われますから、この坂を重症患者を運び上げたのでしょうか~。身体を動かせない人の介護をやった経験がある方なら、この坂道を、身体を動かせない重症患者を運び上げる事が、如何に困難な作業であるかご理解いただけると思われます。しかも照明もほとんど無いような状況下ですよ。本当に当時の看護される方々のご苦労が忍ばれますね。戸板に乗せられた患者さんにしてみても、落っこちないように必死でしがみついていたのかもしれません。

遺骨収集の様子20

またまた広い空間に出ました。天井から木の根が垂れ下がっていますから、以外と地面に近いところに空間があると言えるかもしれません。

遺骨収集の様子21

登ったり降りたり、起伏のある場所が続きます。

遺骨収集の様子22

平らな場所がありました。松永さんの話では、こうした場所に患者さんが寝ていたという話です。重症患者は、一番多い時で5月20日頃千人を超えたという証言があるそうです。この辺りは、地面も濡れていなくて、比較的快適に過ごせる場所ですね。壕内ではこうした比較的快適に過ごせると思われる場所は、思いの外少ないですね。

松永さんの話では、修学旅行平和学習では、見学時間が1時間のケースが多く、往復20分ずつ、解説に20分のパターンが多いそうです。松永さんは修学旅行生と同等レベルの話をして下さったようですが、野戦病院として利用されたこの壕では、ピークの頃は患者さんが千名を越えたといわれています。壕内にワラや草などが持ち込み、比較的平らな部分に敷いて患者さんはその上に寝ていたといいます。

遺骨収集の様子23

また登りがありました。通路も身をかがめないと入れないぐらい狭いですね。

遺骨収集の様子24

ここから落ちたら…。壕内といえども、こうした危険な場所は至る所にあります。

遺骨収集の様子25

お、今度は下り始めましたよ。ガラビガマ側に近づいてきたと言う事ですね。

遺骨収集の様子26

ガラビガマ側に近づくと、ご覧のように下り坂が多くなります。

遺骨収集の様子27

天井が高く、ここもかなり広い空間になっています。この辺りでは時間帯によっては、天井から光が差し込むという話です。

遺骨収集の様子28

ヌヌマチガマ側にかなり近づいて、沖縄戦当時のいろんな構築物も増えて参りました。そのひとつひとつを松永さんが説明して下さいました。

遺骨収集の様子29

かまどですね。沖縄ではサトウキビを煮詰める時に使用する大きな鍋があるので、ご覧のような大きなかまどになったそうです。複数のかまどが設置されていました。ガラビガマ側は水は潤沢にありましたから、その点は楽で合ったと思われます。ただ調理は基本的にヌヌマチガマ側で行われていたそうです。何かアクシデントがあった場合のみ、ガラビガマ側でも調理が行われたという話です。

こうした遺構はロープを張ったりして進入禁止にしても、少しずつ触ったり、石を動かしたりして、年ごとに少しずつ損壊しているという話です。

遺骨収集の様子30

ヌヌマチガマ側に近づいてきました。風を感じますね。

遺骨収集の様子31

ガラビガマ側の開口部が見えてきました。

遺骨収集の様子32

沖縄戦当時はこの窪みから湧き水が出たそうです。学徒隊の生徒らが、ここで包帯などを洗ったという話です。

遺骨収集の様子33

ガラビガマ側出入り口に達しました。ヌヌマチガマから入壕してから、約45分が経過していました。

遺骨収集の様子34

ガラビガマ側には「風葬墓」が複数箇所存在します。沖縄伝統の埋葬方法である風葬墓であるのが明白な場所では、遺骨収集といえども安易に骨を持ち出すのは慎むべきですね。また本来ならば、風葬墓の遺骨が安置してある場には足を踏み入れるのも慎重さが求められるという認識はしておく必要があります。もしどうしても足を踏み入れ調査してみたいという場合は、御霊様にお断りしてから入らせて頂くというのは申すまでもありません。

遺骨収集の様子35

【過去の写真】
この写真は今から5年前の平成21年にヌヌマチガラビ間を往復した際に撮影したものです。沢山散乱しているとても白い風葬骨の中に飴色を下頭骨が五個あるのが見てとれます。一個には銃弾が貫通した穴が開いていましたから、間違いなく沖縄戦戦没者のご遺骨に違いありませんが、当時松永さんの判断で、風葬骨と混在している場合は安易に持ち出してはならないという事でそのままにしてきました。

遺骨収集の様子36

風葬墓の入り口です。開いているので中を見せてもらいましょう。

遺骨収集の様子37

瓶が二つありますね。その間に風葬骨が見えます。

遺骨収集の様子38

ガラビガマ側の出入り口の様子です。左側の石組みは風葬墓です。一切破壊されていないことから、戦後積み上げられたものではないかと思われます。

遺骨収集の様子39

鍾乳石のツララなのでしょうが、凄い形を為ていますね。

遺骨収集の様子40

ちょっと解りにくいかもしれませんが、写真中央にあるのは銃眼です。外側から見ているわけですが、米軍に真っ先に破壊されてしまう構築物のはずですが、こうして無傷で残っているのですね。

遺骨収集の様子41

銃眼から外部の見ているところです。目の前の樹林はほとんど無かったでしょうから、沖縄戦当時どのような風景が見えたのでしょうかね。

ヌヌマチガマ、ガラビガマ間の復路調査

遺骨収集の様子42

写真中央の岩、動物に見えたりして、何か印象的ですね。

遺骨収集の様子43

さあ来た道を帰りましょう。と言いつつ松永さんの話では、少しコースを変えると話していました。

遺骨収集の様子44

右上ライトで照らされている部分が、鍾乳石のツララ部分に針金でランプなどを吊したとされる場所です。

遺骨収集の様子45

アップしてみますと、こんな感じで針金の錆のようなものが、現在も付着してありますね。

遺骨収集の様子46

松永さんが持参した壕の地図ですが、一つの指針にはなり得ますが、全てを表しているとはとても言えない状況ですから、ベテランガイドと同伴でなればこの壕には入ってはいけないと思いますね。痛感するのは、地図よりも実際の方が数段複雑な構造をしていると言えるでしょう。

遺骨収集の様子47

皆さんが、「ここはトイレ跡ではないか」と言っていましたが、本当にそう思えるほど、トイレっぽかったですよ。穴にお尻を向けて…。試した人も居ました。

遺骨収集の様子48

鍾乳石化した岩盤が圧倒的に多いわけですが、ご覧のように、比較的脆いと思われる部分も少なくありません。ガラビガマ側開口部では、大規模な崩落があったのは記憶に新しいですが、壕内移動中にいつ落盤が起こるとも限りません。壕内でのヘルメット着用は必須ですね。

遺骨収集の様子49

コオロギのようなそうで無いような…。少し解りにくいですが、二匹写っていますね。真っ暗な洞窟の中で、何を食べて生きているのでしょうか。

遺骨収集の様子50

凄く巨大なツララですね~。自然の造形とはいえ感動的です。

遺骨収集の様子51

なにやらおどろおどろしい雰囲気になってきましたよ。

遺骨収集の様子52

怖い雰囲気ですし、勾配も急になってきました。慎重に降りましょう。

遺骨収集の様子53

ギョエ~~。怖いですね、一人では絶叫してしまうかも。

遺骨収集の様子54

一段と勾配が険しくなりました。空間も狭いです。

遺骨収集の様子55

ヒョエ~。

遺骨収集の様子56

ここも怖いですね~~。(^^;)

遺骨収集の様子57

やっと広い空間に出ました。冒険もそろそろ終わりかな。

遺骨収集の様子58

ヌヌマチガマ側に近づき、再び沖縄戦当時の生活用品が目につくようになりました。これは石臼ですね。

遺骨収集の様子59

オ~~。出口が見えてきました。何かホッとしますね。

お昼ご飯ですよ (^o^)

遺骨収集の様子60

探検は思いの外疲れるものです。疲れた身体には肉が一番ですね。と言うことで今日は肉ソバにしました。アッ名前は、肉ソバではなく「中身ソバ」でした、なぜそう呼ぶのかは不明です。(笑)

午後はヌヌマチガマで遺骨収集

遺骨収集の様子61

午後は昨日に続き、ヌヌマチガマ出入り口付近で遺骨収集を継続しました。

遺骨収集の様子62

スコップを入れてみて初めて解るのですが、土から昨日よりも大幅に水分を含んでいるようです。ヌヌマチガマ入り口は、奥に進むほど下り勾配ですから、大きなヌヌマチガマ開口部に降った雨は確実にガマ入り口から壕内部へと浸透してくると言う事ですね。

遺骨収集の様子63

ご覧のように鍾乳石のツララ部分が折られています。おそらくこれは戦後の遺骨収集の時に折られたのではなく、沖縄戦の時に中に居る人が怪我をしないようにという事で折られたのだと思います。

遺骨収集の様子64

錆を落とせばまだ使えそうな、状態の良い銃弾が出てきました。誰かが99式とか言ってました。

遺骨収集の様子65

皆さんが思い思いの場所で遺骨収集をしていますが、土中水分が多く粘土のようになっています。昨日とは違う別の場所を掘っているような錯覚を覚えますが、昨日と同じ場所なんですね~。という事で、遺骨収集はさらさらの砂のような所から掘り出す場合と、粘土状の場所から掘り出すのとでは、格段にその成果に差が出てしまうと言う事ですね~。これにより骨片を見つけるのが昨日よりも格段に難しくなっています。

遺骨収集の様子66

書きましたように、土に水分が多く本日は粘土状態になってしまいましたから、たったこれだけの骨片しか見つかりませんでしたが、困難な状況の中でそれぞれよく頑張ったと思いますよ。皆さんお疲れ様でした。パチパチ(^o^)

「第二十四師団第一野戦病院壕」慰霊巡拝

遺骨収集の様子67

「第二十四師団第一野戦病院壕」を慰霊巡拝しようと、八重瀬公園にやってまいりました。階段を登っていくと八重瀬公園になります。八重瀬嶽は古くは三山時代、八重瀬按司の居城跡であり、現在は桜の名所としても知られていますね。同公園では現在桜祭りの最中のようです。

68 遺骨収集の様子

「第二十四師団第一野戦病院と白梅学徒隊」と書かれた掲示板です。読めませんね。

遺骨収集の様子69

「白梅学徒の軌跡」と書かれた掲示板です。ギリギリ読めますか。

遺骨収集の様子70

「白梅学徒看護隊之壕」と書かれた石碑がみえます。この石碑は目立つところに設置されていますから、見落とすことは無いと思われます。

遺骨収集の様子71

林の中に歩みを進めると、左側すぐにご覧のように煤で黒くなった岩が見えます。二十年も三十年も前から、この煤で黒くなった岩を見続けていますが、苔が生えるなどの影響もあるでしょう、少しずつ薄くなってきていますね。

遺骨収集の様子72

「第二十四師団第一野戦病院壕」は、出入り口が二カ所あります。ここは駐車場側の入り口ですね。入ってすぐ右側が手術室となっていたようです。手術を受けるために、このあたりには長い患者の行列が出来たと言います。順番を待つ間に亡くなった方も多かったそうですよ。

遺骨収集の様子73

この写真を見ると構築壕である事がよく解りますね。壁面は強固な岩のように見えますが、崩してみ見ると思いの外柔らかいです。

遺骨収集の様子74

壕内は火炎放射攻撃を受けたのか、煤でかなり黒くなっていますね。この壁面の片側あるいは両面に木組みされてベッドが並んでいたのでしょうかね。

遺骨収集の様子75

写真奥が、もう一カ所の出入り口です。壕全体の長さは100メートルは無いですね。

遺骨収集の様子76

壕から出てから撮影しました。本日も中身の濃い活動でしたね。お疲れ様でした。(^o^)

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