平成22年(2010年)沖縄遺骨収集奉仕活動

2月17日(水) 那覇市在住の国吉氏の情報提供により複数箇所を一緒に調査

今日はタイトルに書いてありますように、那覇市在住の国吉勇さん(71歳)の案内で、複数箇所御遺骨がありそうな地域や壕を案内してもらう事になりました。(^o^)

沖縄での遺骨収集といえば、国吉さんを抜きには語れないほどですよね。すでに54年に渡って、単独であるいは団体を率いて遺骨収集奉仕活動を継続されて来られたのです。若い頃は、単独でしかも年間実に200日以上ジャングルに入っていたというのですから、驚きですよね。更に驚くのは年間を通してジャングルに入っていたと言うのです。夏でもジャングルに入ったというのですよ。 あなたは信じられますか。(笑)

遺骨収集に参加している私たちも、一般的にはハブが怖くて冬以外の季節はジャングルに入りたくないと思えますが、国吉さんは「大丈夫だよ、ハブなんて滅多に遭遇しないよ」と言うのでした。

いえいえ、その「滅多に」が問題だと思えるのですが…。(^^;)

国吉さんはこれまでにも何度か、金光教の遺骨収集が実施される前に、遺骨があるかもしれない場所の情報を提供して下さいました。また国吉さん自身、昔ですが何度か金光教の遺骨収集奉仕活動に参加しています。よく話題に上がる人ですから、何度か沖縄に通った方なら、たいがい彼の存在を知る事となるのです。

実際に本土に拠点を持つ沖縄遺骨収集奉仕団のほとんど全てが、彼の情報を頼りに調査・収集地域を確定していると言っても過言ではありません。それくらい国吉さんは、沖縄本島中南部のジャングルを知り尽くしていると言って良いでしょう。

今日の天候は、夜半か降り続いた雨が朝になっても残っていましたが、昼間は曇り空で時折雨がぱらつく程度だと予報されていました。実際朝の9時に国吉さんと合流しましたが、調査活動開始には全く支障はりませんでした。

それではこれから国吉さんに、御遺骨が発見できそうな場所を案内してもらう事にしましょう。皆さまもカメラを通してご覧になって下さいね。

伊原の「沖縄陸軍病院本部壕」

まず目指したのは糸満市伊原にある「沖縄陸軍病院本部壕」です。名前の通り陸軍病院の本部壕として利用された壕で、広池病院長ほか沖縄陸軍病院勤務の戦没軍人、軍属、医師、薬剤師、看護婦らあわせて43名を祀る「沖縄陸軍病院之塔」の横に大きな口を開けて壕があります。

「沖縄陸軍病院之塔」や隣接する本部壕は、私も何度となく訪れている場所です。今回国吉さんは、沖縄戦当時の壕内の人的・物的配置図を持参し私にも見せてくれましたが、意外に思いましたが、この壕にはまだまだたくさんの御遺骨が眠っていると力説していました。

それでは、ご一緒に「沖縄陸軍病院本部壕」に入って見ましょう。

沖縄陸軍病院本部壕

遺骨収集の様子1

「沖縄陸軍病院之塔」です。昭和39年「沖縄陸軍病院戦没職員の碑」として建立され、平成6年「沖縄陸軍病院之塔」として再建されました。病院長広沢文吉軍医少将ほか軍人、軍属、医師、薬剤師、看護婦等43名が祀られています。

遺骨収集の様子2

「沖縄陸軍病院本部壕」入り口です。ちなみにこの樹木は戦後育ったものです。この入り口から艦砲砲弾が直撃し、一瞬にして多くの人たちが亡くなりました。開口部はおよそ10メートルぐらいあり、上空からいともたやすく発見され、攻撃対象となったのが容易に想像できます。

遺骨収集の様子3

壕内部へは坂道を降りていきます。当時も同じ場所に坂道はあったようですが、砲撃によりかなり落盤しているという印象を持ちました。

遺骨収集の様子4

「砲弾落下時の山城の本部壕図」と書かれた図面です。「○○伍長即死」とか具体的に記載されていますから、奇跡的に生存された方が書いたものと思われます。それにしても、500キロ爆弾が直撃したとされており、生存者がいたのが極めて奇跡的と言えるでしょう。

遺骨収集の様子5

国吉さんが、当時の壕内配置を説明しているところです。国吉さんは、この土石の下を掘れば、かなり御遺骨が出て来ると確信しているようです。現在国吉さんはかなり時間をかけて丹念にこの壕内での収骨作業を進めているようです。すでに収骨が済んでいる区域と、これから調査する区域とが、しっかり区別されていました。

遺骨収集の様子6

頭蓋骨の一部です。このように細かいですが、御遺骨は発見され続けているようです。

遺骨収集の様子7

迫撃砲弾の部品です。砲弾破片が沢山見つかっており、かなりの数打ち込まれたのではないかという話です。迫撃砲弾は直径10センチ弱の大きさがあり、見た目よりも破壊力があるそうですよ。

遺骨収集の様子8

水を入れたと思われるビンや、お茶碗などの遺品がたくさん出て来るようです。出土した遺品はこのように集めて置きます。

遺骨収集の様子9

壕の一番奥には、ご覧のように池がありました。縦横数メートルの大きさがあり、雨期には更に水位が上がるそうです。この壕内では飲み水には困らなかったと思われます。

遺骨収集の様子10

個人で建てた墓標でしょうか、壕内にひっそりとたたずんでいました。

荒崎海岸

1945年6月23日は、大東亜戦争末期に沖縄で繰り広げられた日米最後の激しい地上戦、沖縄戦が事実上終結した日です。この日は沖縄戦の組織的戦闘が終結したことにちなんで、沖縄県ではこの日が「慰霊の日」と定められ休日となっています。

ここ本島最南端の岬、荒崎海岸にも6月23日の慰霊の日ともなりますと、大勢の人たちが慰霊を目的に荒崎海岸にやってくるそうです。

国吉さんは、ここ荒崎海岸には、まだ相当数の御遺骨があるとキッパリ語ります。

現在荒崎海岸は、海岸の岩場から少し内陸部に入った部分は、幅数十メートルに渡ってアダンが我が物顔に繁茂しています。
遺骨収集奉仕活動では、天敵ともいわれるアダンが見事に繁茂している事により、容易に人を寄せつけず、更には御遺骨を覆い隠してしまったと言えるかもしれません。

このアダンのジャングルを一度でも歩いた経験があるなら、繁茂するアダンをかき分けながら御遺骨を探すことの困難さを容易に解説できるでしょう。この私でさえ、アダンの話になると極めて雄弁になりますからね。(笑)

国吉さんは、この荒崎海岸をもっと徹底的に調査すべきだと語ります。今年も他の団体さんが、間もなくこの荒崎海岸で遺骨収集奉仕活動をする予定となっていますが、国吉さんがサポートするそうです。

ちなみにこの荒崎海岸では、うぐいすの鳴き声がずっと聞こえていて、ちょっと嬉しかったですよ。

荒崎海岸

遺骨収集の様子11

荒崎海岸の「アダン帯」には、すでに「国吉道」が網の目のように伸びていました。ただここは防風林も兼ねているので、徒に木を切るのではなく、ご覧のように太い幹は可能な限り切断しないように配慮しながら、かつ人間が移動しやすいように道を作っていると語っていました。 ちなみにアダンは沖縄戦以前もこのように繁茂していたそうですが、南部掃討戦でほとんど全て焼き払われたそうで、現在のアダンは戦後繁茂したものだそうです。

遺骨収集の様子12

ご覧のようにアダンの茎葉は容赦なく縦横に繁茂しますし、それにプラスしてやっかいな点は、葉を毎年落葉させ腐葉土となって堆積していくのです。

遺骨収集の様子13

よく見て下さいよ。ご覧のように毎年葉を落とすので、沖縄戦当時の地表面に到達するのは容易なことではないのです。この荒崎海岸で御遺骨を見つけることの困難さを理解していただける事でしょう。

遺骨収集の様子14

最近の遺骨収集で見つけた御遺骨を、岩陰に隠してありましたが見せてくれました。

遺骨収集の様子15

この御遺骨は平和学習に活用する事もあるそうです。一定のボリュームが集まると、御遺骨を県側へ届けるそうです。

遺骨収集の様子16

摩文仁を望む荒崎海岸に出ました。この草が繁茂する一帯も、御遺骨がある可能性が高いと語ります。海岸線の先端部に見える小高い丘が、摩文仁之丘です。距離にして4キロメートルほど離れています。

遺骨収集の様子17

「ひめゆり学徒散華の跡」の碑です。悲劇は沖縄戦も末期の6月21日起きましたが、16名がこの付近の岩陰で銃撃され、または自決して戦死しました。

ひめゆり学徒隊員は県立第一高等女学校(一高女)の生徒さんたちですが、一昨年12月この付近で白いユリをあしらった同校の校章が発見されました。戦後64年経過してのち発見されたという訳ですよね。本当によく見つけたものだと驚いています。発見したのは、沖縄戦犠牲者の遺骨収集に取り組む市民団体「ガマフヤー」(那覇市)の具志堅隆松代表(54歳)です。「ガマフヤー」の具志堅さんは、今年「ハーフムーン」の遺骨収集でも大活躍していましたが、沖縄遺骨収集奉仕活動では広く名を知られた方です。今後の更なるご活躍を期待したいですね。

新垣の「歩兵第89連隊 金山 均大佐自決の壕」

真栄里、国吉、新垣、与座、八重瀬の防衛ラインは、司令部のある摩文仁を守る為の最後の防衛線として、守備軍第32軍は残存する兵力を結集して、米軍の進軍を阻み頑健な抵抗を続けた事で知られています。

真栄里から与座に連なる稜線は、沖縄の典型的な城塞立地に相応しい地形であり、与座を中心に防衛ラインを築いていた第24師団独立歩兵89連隊が陣地としたこの付近には、昔城が築かれ、湧き水が豊富にあり低地からの攻撃に耐えられる自然の要塞である事が見て取れます。

第24師団隷下の各部隊はそうした地形を上手く利用し、巧みな戦術を交えて、食糧、弾薬の補給が一切ない状態で、6月19日まで組織的戦闘を続けたのでした。日本軍将兵のこの敢闘精神には、いつの時も心から敬意を表したいですね。

国吉さんがこれから案内してくれる場所は、新垣の北側の丘陵地帯になっているところで、現在は道を挟んでゴルフ場があったりする場所でした。

まず案内されたのは、壕に設けられた換気口ともいうべき穴が、山上にポッカリと開いており、そこをまず見てほしいという事のようです。

遺骨収集の様子18

道すがら、5インチ艦砲砲弾の不発弾がありました。赤テープが巻かれていますが、赤テープといえば、金光教の皆さんが巻いたと断言できそうですよ。

遺骨収集の様子19

国吉さんがのぞき込んでいるのは、壕の換気口部分です。つまり縦穴があるのです。左にスーパー袋に入った沢山のゴミが見えますが、このゴミは戦後この縦穴である換気口に投げ込まれていたもので、国吉さん達が、数年前この換気口から上に持ち上げ回収したものだそうです。とにかく深いので長いハシゴを連結して、人が降りられるようにしたのだそうです。ヒェ~。これは大変な作業といいますか、下に居る人は危険ですし、作業全体のボリュームは大変なものだったと思いますよ。本当にご苦労さまでした。

遺骨収集の様子20

壕の換気口部分を上から見下ろしているところです。直径1メートル、深さおそらく5~6メートル程度でしょうか…。沖縄戦当時は、ここに木材で組んだハシゴを設置して登り降りしていたといいます。掃討戦が激しくなるなか、死んだ兵士を土に埋めている余裕がなかったので、この穴に戦死した兵隊さんを投げ込んでいるのを見たという砲兵隊員だった兵士の証言がある事から、このゴミを撤去して御遺骨を収集したいという願いが国吉さんにはあるようです。壕内部からもこの換気口を目指したけれど、ゴミの層に阻まれどれくらいゴミが穴に詰まっているのか、まだ把握出来ていないという話しです。
※それにしても、よくこれだけゴミを運び上げましたね~。正に執念ですね。いずれにしても、このゴミの下にはかなりの数の御遺骨がある可能性があり、その方途を私たちは探ることになりそうです。

歩兵第89連隊 金山 均大佐自決の壕

遺骨収集の様子21

歩兵第89連隊本部壕がこの繁茂するジャングルの裾野にありましたが、米軍の馬乗り攻撃により壕内に居た将兵は自決したり、攻撃により全滅しました。

遺骨収集の様子22

このあたりは新垣集落の裏庭にあたる所ですから、ご覧のように大きな平葺墓(ヒラフチバー)がいくつか散在していました。

遺骨収集の様子23

私たちは上にあった換気口を見た後、山裾の構築壕がある場所に降りてきました。石塔には、「第89聯隊玉砕終焉の地」 と書かれています。

遺骨収集の様子24

 

【歩兵第89聯隊 沖縄戦々跡】

聯隊長 金山 均 大佐 自決の壕
昭和20年、沖縄本島をめぐる日米両軍の攻防は、5月初旬第32軍が総力を傾けた首里戦線の死闘も空しく終に軍主力を南部島尻地区に後退戦闘の持久を図る、歩兵第89聯隊は八重瀬、与座、両岳南西山麓に陣地を配備、其の後方新垣後原(この壕内)に聯隊本部を置き第24師団前衛の任に当る、然れども空海を制する米軍の進攻は早く6月15日東西全戦線を蹂躙突破、指揮下部隊との連絡も途絶、聯隊の命運旦夕に迫る、6月19日金山聯隊長は最後の時を決断、軍旗を奉焼し師団司令部に決別を打電、所在の児玉 工兵聯隊長と共に自決す、また聯隊本部に所属せる鈴木少佐ほか多数の将兵も生存皆無の為、同日を相前後し全員壕内外で自決若しくは戦死と認められ歩兵第89聯隊は悲運の幕を閉ずる。
戦後の調査によると此の壕は、師団工兵隊構築による坑道式陣地壕で全長概ね80余米、米軍制圧後は延々十余日に亘り燃え、内部全てが灰燼と化した事は遺族にとり断腸の思いである。
依って本壕は、肉親玉砕の聖地たる意も含め沖縄戦を語り継ぐ貴重な歴史戦跡として永く後世に遺すべく此の銘碑を建立する。

平成15年10月31日 歩兵第89聯隊顕彰碑奉賛会 関係遺族支援有志一同

遺骨収集の様子25

壕の入り口です。入り口は小高い丘の裾野に那覇の方向を向いてありました。この出入り口は、米軍の激しい火炎攻撃のあと、ブルドーザーで埋められてしまったそうです。

遺骨収集の様子26

壕入り口から入ってすぐのところです。壁面を見ると激しく内部が焼かれた事が見てとれますね。この壕は天然の壕では無く、工兵隊が堀り陣地として構築した構築壕です。
※この壕に入ってしばらくするとカメラの調子がおかしくなり、20%ぐらいの画像が上手く写ってませんでした。

遺骨収集の様子27

壕内の全部を歩いたわげてはありませんが、出入り口は二カ所、通路も枝分かれしている場所がありました。通路全体に言えることは、火災による熱による剥離か、ひどく落石しているという点が上げられます。

遺骨収集の様子28

壕内には慰霊に訪れた方々が取り付けたと思われる、慰霊の言葉が書き記された札が吊されていました。

遺骨収集の様子29

工兵隊による構築壕ですから、このように掘削ドリルの刃先が刺さった跡が見てとれます。

遺骨収集の様子30

碑文にも書かれていましたね、「米軍制圧後は延々十余日に亘り燃え、内部全てが灰燼と化した…」事を証明するかのように、太い木材も見事に炭化しています。

遺骨収集の様子31

床面を少し掘っただけでも、ご覧のように燃え尽きたガラのようなものが沢山出てきます。骨片もすぐ見つかりました。手榴弾も何個かありましたが、意外なものとして真空管が数個ありましたね。

遺骨収集の様子32

正面に見える少し小さい穴が、山の上から見たゴミが見える換気口につながる入り口部分です。換気口部分は坑道と違いかなり狭く、目測直径70センチぐらいでしょうか。換気口上部に堆積するゴミが、少し落ちてきているのが見えますね。国吉さん達もこの穴に入り込み、堆積するゴミを突破しようと何度か挑戦しましたが、何れも失敗に終わっており、今回私が挑戦してみる事になりました~。(^^;) 神様助けて~。 (笑)

遺骨収集の様子33

斜め上に向かっている換気口坑道は少しずつ狭くなっています。そして奥に進むほどゴミもまた増えてきました。

遺骨収集の様子34

「ギョェェェ~~~ッ」

垂直坑道 (換気口道) に到達した模様です。堆積するゴミの真下に到達し、ヘルメットでゴミを押してみたら、15センチぐらいはあろうかというゲジゲジが、私の鼻の穴に入り込もうとしました~。(^^;)
本能的なとっさの行動により、2メートルぐらい下にずり落ちてしまいました~。(笑)

写真にゲジゲジがまだ写っていますよ~(^^;)、ほら~。
写真中央部上の方をみると、足が何十本とあるゲジゲジが見えるでしょう~。(^^;)
あいつが、私の鼻の穴に入り込もうとしたんですよ~。
何しろ いきなりだもん。あ~ビックリした~。

上を向いて作業するのでゴミが目に入ったり、ガラス瓶が多くて、何度か顔に当たりました。痛~。(^^;)

結果として10分ぐらい堆積するゴミと格闘したでしょうか…。ゴミの厚さ、およそ1メートルである事を確認した上で、ゴミの隙間から上空の開口部から見える木々と青空をはっきり確認しました。ついにやりましたよ。貫通していることをしっかりと確認しました。

本当に貫通しているのか…。投棄ゴミはどれくらいの高さで堆積しているのか…。国吉さん自身も、解明すべく換気口を登って挑戦したけど、解明されないまま断念したそうです。他の学生遺骨収集グループの何人もが挑戦したけど、解明できなかったといいます。

そうした状況で、私が 「ゴミの堆積は1メートル程度。下に落とせば貫通可能!」 という現況を把握することに成功したわけですから、エヘンと胸を張っても良いかもしれませんね~。

いずれにしてもこれにより、堆積するゴミを上に運び上げるのではなく、下に落とすことでゴミの撤去は可能であり、ゴミさえ撤去すれば途中の踊り場付近に、地表の開口部から遺体を投げ込んだという証言のある、亡くなった兵隊さん達の御遺骨を収集できる可能性が一気に増しました。

遺骨収集の様子35

歩兵第89連隊が構築したこの壕は、すべての出入り口が明らかになった訳ではないとされています。この穴も坑道に通じているのではないかと言われていますが、今回は残念ながら時間がないのでパスしました。いつの日かこの開口部の奥も、時間をかけて探ってみたいですね。
※可能な範囲で首を突っ込んでみましたが、この穴を掘ってみる価値はあると判断しました。

遺骨収集の様子36

「歩兵第89連隊 金山 均大佐自決の壕」のすぐ近くには、冬でも芝が鮮やかに茂るゴルフ場がありました。火炎放射攻撃で真っ黒になった洞窟を目の当たりにした後に、レジャーと言っては失礼かもしれませんが、ゴルフ場に行き交う人たちを受け入れる…。この気持ちの切り替えは容易なことではありませんよ。

西原町の守備軍陣地跡

「歩兵第89連隊 金山 均大佐自決の壕」の調査を終えた私たちは、糸満市を離れ、北上して首里の東側に位置する西原町にやってまいりました。

※西原町のこの調査地域は琉球王家の墓や風葬墓も多く、地域の人たちの神聖な場所と思われますし、今後も地道な遺骨収集が行われる可能性のある微妙な場所と思われますので、詳しい地域情報は伏せさせていただきます。

ここの守備軍陣地跡は、首里城公園の地下を縦横に走る第32軍司令部からみて、東に3キロほどの位置にあり、首里戦線の東の重要な要衝でした。また首里防衛の前線である前田高地まで3キロ、嘉数高地まで4.5キロメートルと、守備軍司令部が首里を撤退するまでの、沖縄戦前半戦で激しい戦闘が何度も繰り返された場所でもあります。

少し調べただけで、この地は運玉森などと共に、先ほど調査してきた「歩兵第89連隊 金山 均大佐自決の壕」と同じ歩兵第89連隊が陣地を構築して防衛していた事が解りました。守備軍の首里撤退後、南部へ南部へと後退していった様を脳裏に描きました…。

里山の落ち着いた雰囲気に似て、木々が茂る小高い山の斜面には、沖縄古来からの風葬墓が林立しており、その浅い洞窟などを利用しての陣地構築であったようで、ほとんどの風葬墓の洞窟は見事に破壊され、崩れ落ちていました。それらの大規模に破壊された様子を見ただけで、いかにここが激しい砲撃に晒され、見舞われたかが想像できます。

ですから、守備軍将兵のご遺骨もまた多く、いまだ土砂の下に埋もれたままであると想像できましたが、散乱する遺品、そして散乱する御遺骨も多かったですが、よく観察するとその多くが風葬墓の骨と思われる特徴を有していました。

こうした状況の中で、風葬の遺骨と沖縄戦戦没者の御遺骨とを分別・収集するというのは、容易なことではないなというのが、一通り見て歩いた後の印象です。

それでは、ご一緒に西原町の林の中に入ってみましょう。

西原町の守備軍陣地跡

遺骨収集の様子37

この調査地域全般が、このように一定の勾配を持つ傾斜斜面でした。摩文仁一帯のように石灰岩が露出しておらず、表土は黒っぽい土で「ジャーガル」もしくは「島尻マージ」と呼ぶ土質と思われます。

遺骨収集の様子38

同じく斜面の様子です。沖縄戦当時激しい空爆でこのあたりは一木一草無かったそうです。現在の植生はすべて戦後成長したものだそうです。

遺骨収集の様子39

この斜面の崩れ落ちた土の下には、多くの御遺骨が眠っていると国吉さんは語ります。

遺骨収集の様子40

軍靴の一部が見えますね。実際にご覧のように遺品も多くて、容易に発見することが出来ます。

遺骨収集の様子41

接近戦で使用する擲弾筒や手榴弾なども、掘れば掘るほどたくさん出て来るようです。

遺骨収集の様子42

このように御遺骨も多く露出しています
手にとって見なかったので断定出来ませんが、この写真には目視レベルでも、二種類の御遺骨があると見てとれると思います。風葬墓の遺骨と沖縄戦戦没者の遺骨とを分別するのも、土に長年埋もれていただけに、かなり苦労するとみて良いでしょう。

遺骨収集の様子43

この御遺骨は風葬の骨です。横に瓶がある事からその可能性は極めて高いですが、瓶が無かったとしても風葬墓の骨と判断できる状況です。風葬墓が砲弾で吹き飛ばされ、風葬墓の遺骨や瓶が斜面に放り出されたものと思われます。

遺骨収集の様子44

ここから風葬墓の破壊の様子を三枚掲載します。
ご覧のように風葬墓があったところですが、攻撃を受けて完全に崩れていますね。おそらく洞窟内に砲弾を撃ち込まれ、洞窟上部の土石が完全の崩れ落ちたものと推測されます。この地域は東の海岸まで4キロほどの距離だそうで、艦砲砲弾も数え切れないぐらい打ち込まれたといいます。

遺骨収集の様子45

同じく風葬墓が、攻撃を受けて完全に崩れています。同じような風景が山上付近に横に連なっていました。この落盤した土石の下には、日本軍将兵の遺骨がたくさん埋められたままだと、国吉さんは確信しているようです。

遺骨収集の様子46

ご覧のように完全に洞窟はペシャンコになり、なにやら機銃の銃口らしきものが空しく突き出しています。

遺骨収集の様子47

完全に圧迫され埋没してしまったお墓です。組石の存在がかろうじて、ここにお墓があったことを明らかにしています。

遺骨収集の様子48

半分埋もれた石塔が見えます。上からの落石で埋没してしまったようです。

遺骨収集の様子49

戦後この付近にあった昔からの風葬墓は、その多くが霊園に移されたといいます。あちこちに分散しているのが現状の沖縄のお墓を、行政が中心となり「集中化」つまり「墓苑化」を推進しているそうです。本土ではお墓に集中化が進み、町中にお墓が散在するという事はありませんが、沖縄はまだあちこちお墓が林立していますからね。でも聞くところによると、なかなか集中化はすすんでいないという話です。話がわき道に逸れましたが、移設した旧風葬墓は、写真のようにセメントなどで入り口を塞がれ、再び開けられないようにするそうです。

遺骨収集の様子50

「尚円王先妃志礼君加那志之墓」と読めますが、どうやら琉球の王、尚円王の家系の墓のようです。「1957年9月9日修築」 と読めます。沖縄戦で破壊された墓を、53年前に修築したという事らしいです。ウィキペディアによりますと、尚円王 を次のように記述しています。

【尚円王】

尚円王(しょう えんおう、正しくは尚圓王、1415年(永楽13年) - 1476年(成化12年)は琉球王国・第二尚氏王統の初代国王。在位は1469年(成化6年) - 1476年(成化12年)。
第7代琉球国王。即位以前の名は金丸(かなまる)、童名は思徳金(うみとくがね)と言った。神号は金丸按司添末續之王仁子(かなまるあじすえつぎのおうにし)

遺骨収集の様子51

琉球王家の墓と言っても、ご覧のように実に簡素な作りです。ひとつ残念に思えたのは、この王族の墓に至る道が無いという点ですね。 つまりはすでに忘れ去られており、お墓参りに誰も来ないのか…。という点が、とても気になりましたね。

遺骨収集の様子52

散兵壕いわゆる「たこつぼ」です。連続する溝は連絡通路です。ほとんど埋没しつつありますが、まだはっきりとその形状だけは認識する事ができますね。

遺骨収集の様子53

破壊されていない陣地壕を見つけましたので、中に入って見ましょう。

遺骨収集の様子54

中を見てみますと、三畳間ぐらいの広さがあるでしょうか。一カ所銃眼があるのが見えます。

遺骨収集の様子55

この陣地を守っていた将兵は、この銃眼から米軍の動きを見ていたのでしょうか…。

「国吉勇の戦争資料館」

今日は雨の予報でしたが、結果として雨は降りませんでしたね~。(^o^)
お陰様で予定した場所はすべて回ることが出来ました。ありがとうございました。

今日の一番最後の予定は、「歩兵第89連隊 金山 均大佐自決の壕」 の換気口から、「戦死した多くの兵隊さんを投げ込んでいるのを見た」 という砲兵兵士だった生存者がいるから、直接話を聞いてみないかという提案が国吉さんからあり、国吉さんのご自宅から歩いて数分の所に住んでおられる、その方に会ってみる事にしました。

国吉さん宅に車を駐車して、二人でその方を訪ねてみますと、残念ながらその方は不在でした。突然の訪問ですからね、やむを得ません。

別れ際に国吉さんがこれまで遺骨収集の時に収集した戦争遺品を拝見させていただく事になりました。

国吉さんは、これまで50年以上遺骨収集を続けてきましたが、作業に伴い発見する戦争遺品も収集していたようです。話には聞いていましたが、展示する遺品の数も半端ではありません。

会社事務所に隣接する部屋に「国吉勇の戦争資料館」と命名して、これまでに収集した戦争遺品10数万点を展示しており、特に重要な遺品については、解説文をつけて展示しているのです。

(※戦争資料館の写真は、国吉さんの了解を得てサイトにアップしています)

遺骨収集の様子56

国吉さんはご自宅に 「国吉勇の戦争資料館」 を開設しています。十数万点ともいわれる戦争遺品が陳列されており、中には非常に貴重な遺品も多数含まれていると感じました。

PAGE TOP