平成21年(2009年)沖縄遺骨収集奉仕活動

1月22日(木) 荒崎海岸で遺骨収集&資料館関係者を摩文仁の壕に案内

6時起床、6時30分付近を散策、7時朝食。

今日も雨の心配は無し!。ヤッター。(^o^) 午前の予定は松永さんと私と、それに昨日沖縄に到着して本日から遺骨収集奉仕活動を開始する名古屋の吉井さんとの三人で、摩文仁のジャングルに入り調査活動を行います。

また午後には平和祈念資料館の方々を、摩文仁南斜面にある大きな壕にご案内する予定となっているので、雨の心配が無いというのは本当に嬉しいです。

「梯梧(デイゴ)之塔」を訪ねる

宿泊が那覇市内でなく、糸満であるというメリットを最大限に活用するために、朝のひとときを糸満市付近にある慰霊塔巡拝にあてる事にしましたよ。十分に下調べしてルートを頭に入れておけば、一カ所から三カ所程度は十分に回れるはずです。

今朝はまず糸満市米須にある「梯梧之塔」を訪ねました。昭和49年6月に建立されたこの慰霊塔では、沖縄戦で戦死した私立昭和高等女学校の生徒57名、職員3名が祀られています。

最初は那覇市内崇元寺の校庭跡に、昭和25年8月元校長八巻太一氏及び父兄や同窓生によって建立され校歌にちなんで「梯梧之塔」と命名されたのです。

それから昭和46年6月に糸満市字伊原のこのゆかりの地に移されたのでした。

80名の生徒からなる梯梧看護隊は第六二師団(石5325部隊)野戦病院(南風原町新川の本院、那覇市識名の識名分室)に配属され、傷病兵の看護に不眠不休であたりましたが、5月中旬戦線の後退に伴い部隊と共に南部に移動し、6月19日糸満市字伊原の自然壕で病院解散命令が下された以降、多くの犠牲者を出してしまったのです。

「梯梧(デイゴ)之塔」

遺骨収集の様子1

「梯梧(デイゴ)之塔」への入り口は、お土産屋さんの駐車場なのです。

遺骨収集の様子2

>駐車場入り口左端に、最近やっと看板が出来ましよ。でもどう見てもお土産屋さんのカラフルな看板に負けていますね~。

遺骨収集の様子3

駐車場の奥に静かにたたずむ「梯梧(デイゴ)之塔」です。「アレッ」と驚く事も多いくらいに、少しずつ慰霊塔敷地は整備・修繕が継続され保守が為されています。

遺骨収集の様子4

「梯梧(デイゴ)之塔」説明碑文です。

遺骨収集の様子5

「梯梧(デイゴ)之塔」・沖縄昭和高等女学校説明碑文です。

遺骨収集の様子6

「梯梧(デイゴ)之塔」の慰霊塔です。周囲は静かですし周りは開けているので明るく良い環境にあります。戦没された60名の職員・生徒の皆さんのご冥福を心からお祈りしたいですね。

「真壁グスク」「真和之塔」を訪ねる

「真壁グスク」という表現が地図上に無かったので、探しあてるのに少し時間を要してしまいましたが、無事にグスク駐車場に到着しました。もしかしたら、この一帯を「真壁公園」と呼んでいるかも知れません…。

ここはいわゆる古城があった所ですが、沖縄戦の慰霊塔もひとつ建立されています。「真和之塔」といいまして、第五砲兵団司令官和田孝助中将指揮下の各砲兵隊の戦没者150名を祀っている慰霊塔があるのです。この慰霊塔を訪ねるのが主な目的という訳です。

駐車場横には史跡「真壁グスク」の案内掲示板があり、次のような文面が書かれていました。

【真壁グスク】

真壁グスクは三つの郭から成るグスクで、三山分立時代に南山城の出城として築かれたといわれています。
地元では「寺山」と呼ばれ、南側のグスク入り口近くには真壁神宮寺が建っています。

伝承によると、『真壁鞍司は白馬を飼っていた。その馬をめぐって国頭鞍司との間に争いが起こり、真壁鞍司は戦いに敗れた。忠義心の厚い白馬も主人の址を追って死んでしまったという。のちに真壁鞍司の子孫が鞍司の倒れた場所で霊石を見つけ、それを祀るために建てたのが真壁神宮寺の始まり』と伝えられています。
(『球陽外巻―遣老伝説―』1745年)

本グスクは、1995年8月~9月にかけて市教育委員会によって発掘調査が行われました。
調査は展望台のある一の郭を中心に行われ、掘建柱の建物跡が確認されています。出土遺物にグスク土器、外国産陶磁器、鉄器、古銭、炭化米、獣魚骨などがあり、14~16世紀に栄えたグスクである事が解りました。
城壁は一部に切石積みが用いられていますが、ほとんどは野面積みで仕上げられています。

平成9年2月 糸満市教育委員会

「真壁グスク」&「真和之塔」

遺骨収集の様子7

駐車場の反対側に史跡「真壁グスク」の解説板があり、左手奥まったところに「真和之塔」が見えます。

遺骨収集の様子8

史跡「真壁グスク」について解説しています。上記の本文と同じです。

遺骨収集の様子9

「真和之塔」です。第五砲兵団司令官和田孝助中将指揮下の各砲兵隊の戦没者150名が祀られています。高射砲や砲兵隊が主体ですから、おそらく真壁グスク "高地"を拠点として戦い続け玉砕したのでしょうね。

遺骨収集の様子10

【慰霊碑碑文】

「昭和20年5月下旬新垣・与座岳・真壁の線に放列陣地を敷いた第五砲兵団司令官和田孝助中将指揮下の野砲兵第24連隊及び野戦高射砲第81大隊の将兵は優勢なる米軍の砲爆のもと勇戦奮闘その火砲を全部破壊されるも怯まず全員白兵斬り込みを敢行して壮烈なる最期を遂げたり。 ここに南方同胞援護会の助成を得てこの塔を建て永くその偉烈を伝う」

昭和41年3月 財団法人沖縄遺族連合会

遺骨収集の様子11

山上へは遊歩道や階段を登っていくようです。

遺骨収集の様子12

山上には写真のような壕らしいところも散見されました。懐中電灯を持っていなかったので詳細は不明です。シッパイシタ~。

遺骨収集の様子13

山上は結構広いですね。沖縄戦当時はこの山上も焼け野原になっていたのでしょうか?。

遺骨収集の様子14

山上にある展望台から西方向を見ています。赤い屋根の大きな施設は、「沖縄県農業研究センター」です。

遺骨収集の様子15

真壁神宮寺の左隣の広場にある拝所です。小さな祠と大きな祠が並んでいますが、どちらも基礎工事をもう少ししっかりしておくべきだった…。

三人で荒崎海岸を調査

本日の午前の予定は松永さんと私と、それに昨日沖縄に到着して本日から遺骨収集奉仕活動を開始する名古屋の吉井さんとの三人で、摩文仁のジャングルに入り調査活動を行います。

予定時刻に無事三人は合流し、吉井さんとも一年ぶりのご挨拶をしたりと、しばし歓談をしました。

吉井さんも長年にわたって金光教沖縄遺骨収集奉仕活動に参加されている一人ですが、沖縄遺骨収集にかける思いは相当強いものがあり、引退したら冬場は沖縄に宿を確保して、長期にわたって遺骨収集を行うかも知れないと語るほどの人なのですよ~。

吉井さんも金光教の信者さんではないのですが、信者さんであるとないとを問わず、吉井さんレベルの強い思いを抱いて遺骨収集奉仕活動に参加される人が相当数いらっしゃいます。

沖縄遺骨収集奉仕活動もここ数年が勝負です!。なぜならご遺骨が経年劣化により、すごいスピードで減少し滅失しているからです。有志が力を結集して、これからも頑張って精力的に沖縄遺骨収集奉仕活動に邁進していきたいですね。

私たちは車で荒崎海岸に向かいました。「ひめゆり学徒散華の跡」で献花し手を合わせたのち、付近のジャングルに人影がちらついているので何事かなと三人で見に行くと、あの有名な国吉さんがいらっしゃるではないですか~。

国吉さんは沖縄遺骨収集ではダントツ有名な方ですから、実名でご紹介しましょう。

明日から二日間遺骨収集を実施するのだそうですが、NHKの取材が入るそうで、その打ち合わせを兼ねて本日もこの荒崎海岸に来ているのだそうです。

この参加記をお読みになっている皆さんにお知らせしますが、ここでお会いした地元の国吉さんという方は、とにかく凄い人なのですよ。以前お会いした時にお聞きしたのですが、年間200日以上ジャングルに入るという話です。ヒェ~。

当然毒蛇のハブが我がもの顔で動き回っている夏場にも、ひるまずジャングルの入ると語りました。彼曰く、「ハブは心配ない!。居ないよ。滅多に出会うことはない」 と語っていたのがとても印象的でした。

もちろん、だからといって夏場にジャングルに入る勇気は、私にはありませんよ~。(笑)

荒崎海岸で調査活動

遺骨収集の様子16

見て下さい、荒崎海岸の眼前に広がるこの晴れ渡った空 !。「さあどうぞ遺骨収集をやって下さい」と言わんばかりの快晴ではないですか~。まずは「ひめゆり学徒散華の跡」へ献花するために三人で向かいます。

遺骨収集の様子17

荒崎海岸における「ひめゆり学徒散華の跡」までのアプローチはコンクリートで歩道が固められています。背の低いクサトベラやユウナが繁茂する海岸線がずっと続きますので見通しは良いですよ。

遺骨収集の様子18

歩道部分から海岸西側を遠望。このちょっとした崖が波消しブロックの役をして波の侵入を減じています。

遺骨収集の様子19

「ひめゆり学徒散華の跡」献花台に献花し散華された学生さんのご冥福をお祈りしました。16名あまりがここや付近の岩陰で銃撃され、また自決して亡くなったのです。その悲劇は6月21日起きました。あと数日逃げおおせたら無事でいられたかも…。それだけが残念ですね。

遺骨収集の様子20

「ひめゆり学徒散華の跡」裏手で人が大勢居たので何事かなと見に来ましたら、なんとNHK取材クルーと、明日からの遺骨収集採録の陣頭指揮を執るあの国吉さんもいらっしゃいましたよ。左から二人目があの有名な国吉さんです。奥のピンクの服を着てるのがジャズ歌手のMさんです。彼女も長く沖縄遺骨収集奉仕活動に携わっていますね。よく出会います。

遺骨収集の様子21

国吉さんはすでに7柱発見してあると語りました。いずれにしてもご覧下さい。国吉さんはこの様な凄いアダンのジャングルからご遺骨を発見しているのです。おそらく私にも出来ない芸当ですし正に脱帽です。国吉さんの持つ独特の経験に裏打ちされたノウハウがそれを可能にしてくれるのでしょう。いつの日か国吉さんに弟子入りしたい気持ちでいっぱいです。

遺骨収集の様子22

国吉さんに発見してあるご遺骨の一部を見せてもらいました。右半分、大きな岩を除けると、ちょっと解りにくいのですが肋骨等が数本見えます。この写真を見ても、「ご遺骨は周囲の色合いに同化して見えにくい」というのがご理解頂けると思います。

私たちも負けじとアダンと格闘

おっと、私たちは見学に来たのではなく調査に来たのですから、さあ国吉さんたちに負けずに、アダンのジャングルにアタックしましょう。

それにしても、凄いですよ。まずどこから入っていくべきか…。それだけで20分経過してしまいました~。

アダンとの戦いは如何に

遺骨収集の様子23

まずどこから入っていくべきか!。 アダンは人間の侵入を拒むかのように壁を作っています。

遺骨収集の様子24

アダンはヤダンなんて言っている場合ではないですよ。(笑)

遺骨収集の様子25

やっと入り口を確保する見通しが立ちましたが、すでに体力はヘトヘト状態です。

遺骨収集の様子26

アダンが茂る 「内部」 の様子です(^_^;)。太陽が照っているから内部も明るいですが、雨だったら…。

遺骨収集の様子27

10メートル離れるとメンバーが見えなくなってしまうほど繁茂していますね~。(^_^;)

遺骨収集の様子28

どうですこれ!! 探そうという気になりますか~、もうお手上げですよ。確かに突進しろといえば出来ますよ。でも枝葉の下を探索しなければ遺骨収集にならないんですよね。

私たちも1時間にわたってアダンのジャングルと格闘しましたが、ご遺骨はもちろん遺品さえも全く発見できませんでした。

改めて国吉さんの経験に裏打ちされた探索能力に舌を巻きました。とてもではないけど、このアダンのジャングルからご遺骨を見つけ出すというのは、相当な根気と体力と、強い思い入れが備わっていないと無理だなというのが、改めて実感できました。

しかしながら、「この困難さ」を体験できた事自体は貴重な経験となりました。

糸満市「真壁公民館」を訪ね情報収集

アダンのジャングルとの格闘から解放されてヤレヤレといったところですが、松永さんはこれから「萬華之塔」近くにあるアンガーガマを調査しようと提案しました。

この壕はよく知られている壕ですが、松永さん自身も最奥部まで行ったことがないとの事で、この機会に行けるところまで行ってみようという話になりました。

ついては、有益な情報が得られるかもしれないと、真壁公民館を訪ねる事になりました。

「真壁公民館」を訪ねる

遺骨収集の様子29

「真壁公民館」は真壁集落のなかほどにあります。松永さんがご遺骨やアンガーガマについての情報の有無を、館員の方に確認をしていました。

遺骨収集の様子30

サトウキビは刈り取った後放置しておくと糖分減少等品質低下を招くので、製糖工場の操業にあわせるようにして、各畑毎に収穫予定日を決めていくようですよ。

遺骨収集の様子31

この鉄製の円筒状の物は何だと思いますか?。これは「半鐘」なんですね。吊っておいて火災の時にカーンカーンと鳴らして地域住民に知らせるやつです。

沖縄では、米軍か進駐して来て各地で若い女性が米兵に強姦される事件が頻発しました。この半鐘は、米兵が真壁集落にやって来ると、"カーンカーン"と鳴らされたのです。つまり「米兵が真壁にやってきた。女性は家の中に隠れなさい!」という合図のために鳴らされたのです。証言によれば、米兵は真っ昼間から臆面もなく強姦したそうです。強姦された女性は泣きながら逃げていったそうですが、人々は無力に打ち震え、悲しくも現場に居合わせながら、見て見ぬふりをせざるを得なかったといいます。

波平恒男著 『1950年前後の沖縄 ―軍政下の戦後復興― 』 に、沖縄に駐留する米兵による婦女子に対する性暴力に関する記述がありますまで、ここで皆様にご紹介したいと思います。

いずれにしても沖縄の各地域においても、終戦後しばらくは若い男性が限りなく少ないなかで、男性が女性を守ることも出来ないまま、婦女子が米兵の意のままに犠牲になったという事ですよ。

またこの米兵による婦女暴行は、沖縄に限らず東京や全国でも頻発しましたが、GHQによるすべてのマスコミの検閲により、記事にさせなかった為、あまり表面化しませんでしたが、駐留米兵による性暴力の実態はとてもひどいものでした。

【「1950年前後の沖縄 軍政下の戦後復興」】

(ここまで省略)
これらの事実に加えて、ここで一言付け加えておきたいのは、米軍の性暴力の問題である。

上記のように、この時期の沖縄の農業を支えていたのは、ある意味では若い女性と年配の男女であったが、米軍の性暴力に曝される危険の最も高く、犠牲が多かったのも農家の主婦や娘たちであった。

49年のタイム誌記者フランク・ギプニーの有名な「忘れられた島」が記すように、40年代後半の時期は米兵の規律が極端に素乱した時代だった。

「沖縄は米陸軍の能無しの掃きだめになっていた。さる九月に終わる過去六カ月間に米軍兵士は殺人二十九、強姦十六、殺傷三十三という驚くべき数の犯罪を犯した。」

食糧のイモを掘りに畑に行った農婦や、農作業中の老若の女性などを中心に、鯵しい数の沖縄の女性が犠牲になったのである。

ちなみに、米兵の性暴力がホステスに集中するようになるのは、60年代以降のことである。

「『1950年前後の沖縄 軍政下の戦後復興』(波平恒男著)」から転載させて頂きました

「萬華之塔」を訪ねる

松永さんはアンガーガマに入る前に、「萬華之塔」に案内してくれました。

この慰霊塔は真壁集落の北東に位置し、道路を挟んで反対側には「JA 糸満市集出荷場 真壁支所」という倉庫のような大きな建物があります。

「萬華之塔」がある一帯は沖縄戦最後の激戦地となった地域ですが、戦後真壁部落の住民が付近に散乱していた約1万9千人余りの戦没者ご遺骨を勤労奉仕により収骨し、また寄付により納骨堂を建てたものだそうです。

この「萬華之塔」は昭和26年に建立されましたが、現在の慰霊塔は平成15年に立て替えた塔です。

また同じ敷地内には、「砲兵山吹之塔」が建立されていますね。こちらは野戦重砲兵第一連隊、連隊長山根忠大佐以下、戦没将兵739名が祀られています。昭和41年(1966年)6月、同連隊の生存者によって建立されたそうです。

またそれ以外にも複数の部隊名が記載された慰霊碑が見うけられますし、個人名の慰霊塔もたくさんありました。

「萬華之塔」

遺骨収集の様子32

道路を挟んで「JA 糸満市集荷場 真壁支所」側からみた「萬華之塔」、「砲兵山吹之塔」です。

遺骨収集の様子33

「萬華之塔」の前で私たちはしばし黙祷しました。左側の石塔が「砲兵山吹之塔」です。右側にも個人の慰霊塔と思われるものがたくさん建立されていました。

遺骨収集の様子34

「萬華之塔」は地元部落民等の寄付により建立されたものですが、その寄付一覧名簿です。「萬華之塔」は昭和26年に建立されましたが、昭和26年といえば、まだまだ食べるものにも事欠く時代でした。そんな状況の中で真壁集落の人たちは地域に散乱するご遺骨を収集し、寄付を募り「萬華之塔」を建立し、そして慰霊塔を守り続けて下さったのですね…。

よく見ると「弗」という文字が見えます。「ドル」でなく「弗」ですから、何か時代を感じさせますよね。もうひとつ沖縄では米国占領時代 「B円」 (ビーえん) という貨幣が使用されていた時期があるんですよ。

「B円」 は、1945年から1958年9月まで、米軍占領下の沖縄県や鹿児島県奄美諸島(トカラ列島含む)で、通貨として流通したアメリカ軍発行の軍票です。1948年から1958年までは、唯一の法定通貨だった…。」 と、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に書かれています。

B円 について、ここでもう少し詳細にウィキペディアから引用させて頂きましょう(^o^)。

【B円】

B円(ビーえん)は、1945年から1958年9月まで、米軍占領下の沖縄県や鹿児島県奄美諸島(トカラ列島含む)で、通貨として流通したアメリカ軍発行の軍票。1948年から1958年までは、唯一の法定通貨だった。日本国内で法定通貨とされた唯一の外国軍票であり、本土地域でも短期間少量流通している。

正式名はB型軍票。英語表記は、Type "B" Military Yenで、Yen B type、B-yenなどとも表記される。

正確には、連合国の共通軍票であるAMC(Allied forces Military Currency)軍票の1種であり、他の連合国にも発行権があったが、日本に駐留した占領軍はアメリカ軍主体だったため、他国の軍は円建ての軍票は発行しなかった。当初のB円はアメリカ国内で印刷されたが、末期のものは日本で印刷されたものもある。硬貨はなく、全て紙幣だった。

沖縄県、奄美諸島とB円
アメリカが占領した直後は、沖縄本島は沖縄戦による荒廃によりどの通貨も流通せず、取引は物々交換で行われていた。その他の地域では旧日本円や、久米島紙幣などの地域通貨が若干流通していた。

1946年4月15日、アメリカ軍は自らが発行するB円を公式通貨とした。その後、1946年8月5日からは若干の条件付きで新旧日本円の流通も認めた。そのため終戦直後の沖縄県や奄美諸島においては、これらの通貨が混合して流通していた。

しかし、アメリカ軍が恒久的な統治を考えるようになると、1948年7月21日に新旧日本円の流通は禁止され、B円が流通する唯一の通貨となった。このときは、7月16日から21日にかけて、日本円とB円の交換が行われた。

当初は 日本円1 円 = 1 B円 が公定レートだったが、1950年4月12日に日本円 3 円 = 1 B円(1ドル=120 B円)となり、B円が廃止されるまでこのレートが使われた。このレート変更は物価の上昇を招き、奄美諸島の本土復帰運動を加速させる結果にもなった。

B円だけを使用させることにより、米国民政府は、通貨の流通量を統制することができた。当時の公定レートは1ドル=360円だったが、1ドル=120B円という、日本円に比べ割高なレートがとられたのは、アメリカ軍が基地建設や駐留経費などを日本企業に支払う際に有利な条件にするためだったといわれている。

これにより日本本土から安価で資材を調達することができたかわりに、沖縄県周辺の経済は空洞化した。また、本土系企業の進出をも遅らせる理由になった。

当時の朝日新聞によれば、1953年12月25日において実際の通貨としての価値は1 B円=1.8 日本円程度だったという。

1958年9月16日から20日にかけて、アメリカドルへの通貨切り替えが行われ、廃止された。

「Wikipedia」から転載させて頂きました

遺骨収集の様子35

最初に建立された「萬華之塔」です。手を合わせているのは、南部戦跡で累計六千柱以上のご遺骨を収集された石原正一郎さんです。石原さんは沖縄戦で従軍した事もあり、大学生を大勢南部戦跡に連れてきて、平和学習の意を込めて共に遺骨収集にあたりました。また金光教の遺骨収集にも深く関与して頂きました。石原さんは沖縄での遺骨収集と慰霊祭参列の為に、私の推計でおそらくこれまでに70回以上沖縄に来たと思います。

ところで上の写真のように、最初に建立された「萬華之塔」には十字架が掲げられていたのをご存じでしょうか?。上の写真が最初の「萬華之塔」です。納骨堂の上には十字架が設置されていますね。

納骨堂を一番最初に設置した段階では、十字架は設置されていませんでした。では、なぜその後十字架が設置されたのか?。

その理由は驚くことに、米兵が本国に帰国する際、"おみやげ"として、納骨堂から頭蓋骨などを持ち去ってしまう事に理由があったのです。

納骨堂をこじ開けご遺骨を持ち去るという事件が後を絶たない為、真壁の部落民は心を痛めました。苦肉の策として十字架があれば米軍兵士も持ち去ることをためらうのではないか…。

そんな願いを込めて「萬華之塔」納骨堂の頭上に十字架が設置されたのです。

同じ意味で、「ひめゆりの塔」にもご遺骨の盗掘防止のために、最初に建立された納骨堂には十字架がかけられていたのです。

本をご紹介します。

「沖縄白梅の悲話」

読売新聞大阪本社社会部編著 昭和55年(1980年)初版

この本の中で、石原正一郎さんが、米兵による「萬華之塔」からのご遺骨を盗掘する様を述べている箇所がありますので、ここで皆様にご紹介致します。

【ひめゆりの塔】

(110ページ)
石原さんは、自費で、時には、心臓の発作で救急車で入院したり、骨折したりしながら、山野や壕の中に入っていく。

「私たちが山野でね、十日前後でね、多いときには何百柱ですよね。三十三年忌には二千柱ですよ。もうないとは言わせません。それを数字であげろ、なんて役人は言いますけどね。

厚生省のお役人なんか、ハブがこわいのか、山野に決して入ってきませんよ。壕内の収骨しか予算がないとか言いましてね。

いま、南部ではあちこちで採石しているんですけど、もう一回ブルドーザーがくれば、というところに四柱あったりするんです。

かつてね、沖縄の人たちは、占領下の食うや食わずの時代に、るいるいたる遺骨を集めて下さったんです。真壁村にある萬華の塔にはね、だれだれが三円、だれだれが五円と寄付した村人の名が刻まれていますよ。

塔は十字架なんです。米兵が、納骨堂からシャレコウベをとっては、電気を入れて、おもちゃにしたらしいんです。村人がなんとかしなければと考えたのが十字架を建てることだったんですね。

あの戦争で、村も家も、家族も失ったあの人たちが、どんな気持ちでお骨を守って下さったか。私たちはおこたえしなければなりませんよ」

石原さんの太く、低い声も、また、一つの沖縄の声であった。

「沖縄白梅の悲話」から転載させて頂きました

また大東亜戦争の最中でも、米軍兵士は戦勝を誇示するために、日本人戦死者の頭蓋骨を、さかんに本国の家族や知人に郵送して贈ったそうです。

日本軍将兵のご遺骨は、要するに戦勝を祝うために、小綺麗な箱に詰められたプレゼントとして扱われたという訳ですよ。

プレゼント以外にも、頭蓋骨に電球を入れオブジェとしてリビングに飾ったり、切断して灰皿にしたり、歯をペンダントにして持ち歩いたりという行為が実際に確認されています。

この米軍兵士の蛮行を最初に指摘したのは、フィリピンに派遣されたローマ教皇使節団であったという記録があり、使節団はこの風習を極めて厳しく非難したという話です。

「交戦国軍・民戦死者の頭蓋骨を部屋に飾っておく」という極めて悪質な蛮行は、人道上絶対に許すことの出来ない犯罪だと考えますよ。

今年8月産経新聞紙上に、頻発した米軍による日本軍将兵のご遺骨に対する虐待に関連すると思われる次のような記事、「米の大学倉庫に日本人戦没者?の遺骨 30年以上も放置か」 という見出しの記事がありましたので転載させて頂きました。

【米の大学倉庫に日本人戦没者?の遺骨30年以上も放置か】

「産経新聞」平成21年8月24日

【ニューヨーク=松尾理也】全米有数の名門大として知られるカリフォルニア大バークリー校の人類学博物館の倉庫に、第二次世界大戦の激戦地、サイパン島で自決した日本人などと記述された複数の人骨が収蔵されたままになっていることが明らかになった。

地元紙サンフランシスコ・クロニクルによると、頭骨を含む3体の人骨と、いくつかの頭骨のない人骨が木箱に収納されていたという。
木箱には、採取地として「サイパン」と明記され、「米軍の進攻の際に自決を遂げた日本人」などの説明が付されてあった。

大学側によると、これらの人骨はすでに故人となっている海軍医が1974年に寄付した。それ以前は、同医師が個人的に保管していたとみられる。

戦争犠牲者の遺骨が博物館の倉庫に収蔵されたまま、いわば、たなざらしになっていたとすれば、敬意や厳粛さを欠く取り扱いといえる。
バークリー校近くを選挙区とするナンシー・ペロシ米下院議長(民主党)の事務所は、クロニクル紙に「経緯に重大な関心を持っている」と述べた。

また、カリフォルニア州のグロリア・ロメロ州上院議員の事務所は「いわばクローゼットに骸骨があったようなもの。人間の尊厳を冒すものだ」と、日本への謝罪と遺骨の返還を求める方針を明らかにした。

クロニクル紙は、第2次大戦中に、日本兵などの戦死者の遺骨を記念品として持ち帰る行為が米軍の中で珍しくなかったと指摘。戦争犠牲者の保護を定めたジュネーブ条約違反の可能性もあると問題提起した。

これに対し、大学側は「人骨の身元が日本人と判明したわけではない。兵士か民間人か、どんな状況で死亡したのかという情報もない」とした上で、ジュネーブ条約は戦時捕虜に適用される国際法であり、身元不明のままでは条約違反とはいえないと反論している。
しかし問題を真剣に受け止め、米政府当局などと連絡を取っているという。

在米日本大使館も「厚生労働省をはじめ日本の関係省庁と連絡を取り、情報収集を行っている」と関心を寄せている。

(※サイト管理者の判断で太字部分を強調させて頂きました)

「産経新聞」から転載させて頂きました

「…日本兵などの戦死者の遺骨を記念品として持ち帰る行為が米軍の中で珍しくなかった」 という記述に注目しない訳にはいきませんね。

要するに "記念品" として持ち去られたのですよ!!。「戦場で殺され、骸骨をもリンチされた…。」 誠に哀れな日本軍将兵に心は沈むばかりです。

また記事からは、ひとつの可能性として、"自決した日本人" ではなく、"生きたままの日本人" が、米国に連れ去られた可能性も排除出来ません。

カリフォルニア大ロサンゼルス校が、日本へ投下した原爆を開発したロスアラモス研究所とつながっているように、カリフォルニア大バークリー校は、生物化学兵器を開発しているローレンス・リバモア研究所と、共同研究や人材供給を行っているのです。

この連関からいけば、生きた日本人が、生物化学兵器研究の生け贄にされた可能性も否定できませんね。

「萬華之塔」に並ぶように「砲兵山吹之塔」がある事をすでに書きました。

「砲兵山吹之塔」 に祀られる、野戦重砲兵第一連隊は首里攻防戦でほとんどの兵員と火器を失って、以降南部に撤退しながら戦い続けました。

石原正一郎さんは沖縄戦に従軍し、その野戦重砲兵第一連隊の元大尉だったのです。

「砲兵山吹之塔」に祀られる野戦重砲兵第一連隊、連隊長山根忠大佐以下、戦没されたのは将兵739名ですが、石原正一郎さんは同連隊のわずかな生存者のうちの一人なのです。

「砲兵山吹之塔」は、昭和41年(1966年)6月22日、同連隊の生存者によって建立されましたが、その中に石原正一郎さんが含まれるのは申すまでもありません。

沖縄遺骨収集奉仕活動で多大な貢献をされた石原正一郎さんは、金光教の遺骨収集にも深く関与して頂きましたし、私も東京の千駄ヶ谷にあるご自宅にお訪ねしたりして親しく交流させて頂きました。

「砲兵山吹之塔」

遺骨収集の様子36

「砲兵山吹之塔」です。野戦重砲兵第一連隊球第4401部隊、山根部隊長以下739柱、及び配属鉄血勤皇隊員12柱を祀っています。野戦重砲第一連隊の中隊長だった石原正一郎さんが「砲兵山吹之塔」前で手を合わせているところです。

沖縄戦も終局を迎えつつある6月18日、米上陸軍最高司令官サイモン・B・バックナー中将が、南部戦線で日本軍からの砲撃により戦死しましたが、石原正一郎さんはその砲撃の当事者であり、日本軍側で砲撃の指揮をとる立場の連隊中隊長だったのです。

サイモン・B・バックナー中将を祀る「バックナー中将戦死之跡碑」は、「白梅の塔」からほど近い、糸満市真栄里の丘の上にありますが、石原正一郎さんはバックナー中将の慰霊碑建立に積極的に関わり、昭和61年6月18日、「米、琉、日戦没諸霊安らかにのメモリー」を建立しました。

また毎年沖縄の慰霊祭に参加する時には、「バックナー中将戦死之跡碑」にも必ず訪れ献花し手を合わせていたと語っていました。

「バックナー中将戦死之跡碑」

遺骨収集の様子37

(昭和63年撮影)
「バックナー中将戦死之跡碑」です。石原さんは「米、琉、日戦没諸霊安らかにのメモリー」の、昭和61年6月18日建立にも尽力されました。

「砲兵山吹之塔」と石原正一郎さん

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石原正一郎さんです。「砲兵山吹之塔」は、昭和41年(1966年)6月22日建立されました。毎年6月22日に催される「萬華の塔」「砲兵山吹之塔」慰霊祭に、石原さんは毎年参列されるそうです。

沖縄戦を戦い抜き、南部視察中におけるサイモン・B・バックナー中将戦死に関わる砲撃の指揮を執った石原正一郎さんの新聞記事を、琉球新報記事から見つけましたので、ここに転載させて頂きます。

【沖縄に通い続け慰霊、収骨続ける/元砲撃隊長の石原さん】

「琉球新報」平成14年/2002年6月18日

【東京】1945年6月18日、米軍沖縄占領部隊総司令官サイモン・B・バックナー中将が糸満市真栄里の高台で日本軍の砲弾によって戦死した。

57回目の命日を前に、日本側の当事者である当時の野戦重砲第一連隊の中隊長だった石原正一郎さん(85)=東京渋谷区=が中将の死について明かすとともに、44年間通い続けた沖縄への思いを語った。

石原さんが隊長を務める同連隊・球第4401部隊はこの日、真壁村(現糸満市真壁)に配備されていた。昼すぎに「真栄里の丘に米軍幹部の車が集まっている」との報告を受けた。

「双眼鏡で方角と距離を確認し、14人の砲手が作業を進めた。残る砲弾は八発。すべて四キロ先の丘に向け発射。丘はがれきの山だった」と振り返る。

これまで中将は、歩兵銃で狙撃されたとの説もあった。しかし米軍側の戦死記録(米国陸軍省編/外間正四郎訳「日米最後の戦闘」)にも「日本軍の砲弾が観測所の真上でさく裂。吹き飛ばされた岩石の一つが中将の胸にあたり十分後に絶命した」と記されており、石原さんの証言と一致する。

使用されたりゅう弾砲は戦後、米軍が保管していたが、石原さんが「戦友の遺品」として返還を要求。現在、靖国神社境内に展示されている。

これまで事実を公にしてこなかったが、「私ももう85歳。事実を語り残すべきだと思った」と話す。

85年には中将が倒れた高台に慰霊碑を建立。「米軍人が戦友の墓参りをする場を作りたかった」という。またドキュメンタリー作家の上原正稔さんの仲介で現在は、中将の家族と手紙のやりとりも行っている。

体調を崩す2年前まで44年間、6月には沖縄を訪れ、遺骨収集を行い、慰霊祭に出席した。「尊い命を奪われた人々の無念さを思うとやり切れない。沖縄に通い続けたのは、生き残った者として当然やらねばならないことだから」と話す。

「6月23日は、国の慰霊の日にしなきゃいかん」と力を込めて語る石原さん。今年も沖縄へ行くことはできないが、自宅で静かに手を合わせ23日を迎える。

「琉球新報」から転載させて頂きました

「萬華之塔」近くにある 「アンガーガマ」 を調査

「アンガーガマ」 は「萬華之塔」からしばらく小道を進み、真壁集落の周縁部にあるサトウキビ畑など散在する場所にあります。壕入り口は公道から少し脇にそれた所にあります。表示はないので見つけにくいかも知れません。

「アンガーガマ」 は天然の洞窟壕でかなり巨大ですよ。

沖縄戦当時は、真壁村の住民や南部に撤退してきた住民、そして日本軍将兵が混在で使用していたようです。

「アンガーガマ」

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スロープのような小道を30メートルほど下っていくと壕の入り口があります。

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壕の内部から入り口付近を撮影しました。湧き水を今も地元の人たちが利用しているようです。

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よく観察していくと戦争遺品もチラホラ散見されます。

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沖縄戦当時の遺留品は、この写真のように少し高台になっている部分に置いてあるケースが多いです。

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天井からものすごい数のツララが下がっていますよね。基本的に壕の一番低い部分を水が流れています。この時期は流水量が少ないと思われます。

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あるツララの下の部分には、垂れ落ちる水滴によりカルシウムの固まりが出来つつありました。

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奥に進むにつれて空間がなんとなく狭くなってきていますね。右側のツララの先端部に、なにやらゴミが引っかかっているのが解るでしょうか。大雨などの時は、そのゴミのところまで水位が上がったという事を表していますよね。

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酸欠等の事故を防ぐために、50メートルほど進む度に、ロウソクに火を付け酸素の有無を確認しました。風は通っていないのか炎もあまり揺れません。帰る時にはこのロウソクを回収して出口に向かいます。

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。壕の空間が益々狭くなってきましたよ。立ったままでは通行できなくなりました。

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先頭に居るのは松永さんです。松永さんがついに前進を断念しました。入り口から何メートル奥へ進んだのか?。壕内の距離感はかなり狂っている事が多いです。もちろん正確には解りませんが200メートルぐらいか。

資料館関係者を摩文仁の壕に案内

19日に松永さんと一度入った、摩文仁で一番大きいと思われる壕(収容人員の多さという意味で)に、今日は平和祈念資料館関係者の方々をご案内する事になりました。

実はこの巨大壕の存在に関して、平和祈念資料館のHさんが私のホームページを見て知る事となり、私にメールで問い合わせて来られました。

「その壕に行ってみたい」 という事でしたから、メールや電話でその壕の位置や、平和祈念公園からの入り口などを説明させて頂きました。
Hさんも何度かジャングルにアタックしたそうですが、結局今日まで突き止められずにいたのです。

そして松永さんが19日にその巨大壕を見たあと、この際にHさんと皆でその壕に行けばよいのではないかと発案し、資料館のHさんとすり合わせをした結果、本日関係者を集めて下さるとの事で、壕を見たいという関係者が集まり見学しようと相成った訳なのです。

午後一時約束の時間に平和祈念資料館を訪ねますと、16人余りの人たちが参集しており、関係者の関心の強さが伺えました。

基本的に本日の調査の目的は、Hさんのお話によりますと、「資料館としても摩文仁に散在する 「壕を含めた戦跡」 について十分に把握しておく必要があり、またそれらの戦跡が平和学習に活用出来るかどうかを検証しながら、今後の展開を図っていきたい。」という趣旨の話をされていました。

これから訪ねる壕が、平和学習活用に耐えうるのか!。それはともかくとして、資料館関係者の方々が知っておく価値はあると思われますので、私たちも自信を持って壕をご案内するつもりです。

資料館関係者を壕に案内

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両手を指さして解説して下さっているのが資料館のHさんです。「島守の塔」の近くの道路上に居ますが、「島守の塔」前に壕入り口があったと説明しているところです。

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写真中央部分、「島守の塔」前の歩道部分あたりに壕入り口があったという話です。道路を造るに祭し、壕の上に鉄板を敷いて舗装等の工事を行ったそうですよ。入って見たかったな。

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「国立戦没者墓苑」前に移動し、ここで事故防止のためヘルメットや手袋等の装備を身につけました。

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壕へのアプローチは、少しジャングルに入ると表示してあります。白いヒモがそれです。この白いヒモは、金光教の篠原若先生が張っておいてくれたものなんですよ。

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途中何カ所かハードな通過点があります。

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往路ではここが一番厳しい所です。太っている方はより大変です。でも過去にここを通れなかった人は居ないので大丈夫ですよ!。

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この方はつなぎの服を準備されたのですね。さすがだと思いますよ。

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往路三分の二まで来たところに開けた場所がありますので、ここで小休止しました。沖縄戦を体験された方が、当時の体験談を色々と語って下さいました。 私も勉強になりましたよ。

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ここもちょっと厳しい所ですね。皆さんで協力しながら手を貸して全員無事に降りられました。

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ここからはもう危険な箇所はありません。ゆっくり周りを観察しながら進めます。

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壕の中に入ってまいりました。結構空間が広い事が実感できると思います。

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写真右側が入ってきた方向です。資料館のHさんが皆さんを誘導していました。

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このあたりが壕の中央付近です。空間も一番広いと言えるでしょう。
沖縄戦体験者がいらっしゃいましたので、その方の話を中心に色々と話が盛り上がりました。

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ここは入ってきた所の反対側の開口部になります。この壕は厳密には三カ所の出入り口がありました。

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外側から壕入り口を撮影してみました。壕の上に強固な岩盤がありますので、簡単には破壊出来ませんね。

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皆さんが思い思いに見たり会話したりして、一時をこの場所で過ごしました。

沖縄戦当時、12歳だったYさんという方が、当時の摩文仁の様子などを語って下さいました。Yさんは民間人として家族と共にここ摩文仁まで逃げてきたという話ですが、やはり実際に沖縄戦を体験された方の話というのは本当に凄まじい体験だったようです。

一番ビックリし、また信じられないような話がありました。それは「摩文仁の海岸の岩場を裸足で走って逃げたが、足裏は痛くなかった」というものです。

ヒェ~ッ。痛くなかった!!。どうですか皆さん、これにはビックリしました~。

那覇市内あたりから摩文仁まで逃げてくる間に、当然ドロンコの道や雨上がりの畑の中を歩いたり走ったりする訳ですが、砲撃などから逃れるために命からがら走ったりしていると、気がついた時には「靴が脱げて無くなっていた」という人が多かったそうです。

ですから摩文仁周辺では、靴などを履いていない裸足の人が結構居たそうですよ。それに、岩場をおそるおそる歩いたというのではなく、走ったというのですから驚きです。

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いかがですか皆さん。 この岩場を裸足で 「ヨーイ ドン」 で走れますか。(笑)

話は飛びますが、今年1月、イスラエルのパレスチナ自治区ガザへの空爆で、「非人道的」として批判の強い「白リン弾」を「人口密集地で使用した証拠がある」とする声明を、国際人権団体アムネスティ・インターナショナルが発表したのが記憶に新しいところです。

沖縄戦では「白リン弾」よりも更に強力で、骨に達する激しいやけどをもたらすとされる 「残虐な兵器」 とされている 「黄リン弾」 が大量に沖縄戦では使用されたのです。「黄リン手榴弾」 も残虐な兵器ですが、壕内に潜む日本軍に向けて投げ込まれ、多くの将兵が殺されました。

「黄リン弾」の炎が衣服についたら、すぐに振り払わないと激しく皮膚を燃焼させ、文字通り骨まで達し、人肉を焼き尽くし、ついには死に至るそうです。

また「黄リン弾」の白い煙を吸うと喉や肺が焼け、子供やお年寄りなど体力のない人たちは、白い煙を吸って死んでしまったといいます。

また沖縄戦では超強力な焼夷弾といわれる「ナパーム弾」も大量に打ち込まれました。

Yさんの話によりますと、「ナパーム弾」は別名「油脂爆弾」と呼び、広範囲の面積が一瞬に、そして見事に火の海になるそうです。摩文仁は岩だらけの場所ですが、その岩だらけの場所でも、ナパーム弾を投下すると長時間にわたり岩場が燃えていたといいます。

また「ナパーム弾」の超高熱の火炎を浴びると、薄い皮膚などは簡単にペロッと剥げてしまったそうです。話は逸れますが、料理でトマトの皮などを剥く時に、熱湯に短時間入れると剥きやすくなるそうですが、それと全く同じ理屈でしょうか。想像してみたくもないのですが…。

そして「ナパーム弾」が炸裂した一帯は、いつまでも触れないくらい岩が熱くて、一昼夜経過しないと岩の温度が下がらなかったそうですよ。

素晴らしいお話でした (^o^)。

思いもよらず、「平和学習」の場にもなりました。ありがとうございました m(_ _)m。

沖縄戦を実際に体験された方の話というのは、実にリアルで生々しいですね。話すことにより「また思い出してしまった」という事があり、内心は辛いものがあるかもしれませんが、戦後世代の私たちに語り続けてほしいですね。

さて平和学習もひとまず終わりましたので、帰る事になりました。

先ほど来た道を帰るのも良いのですが、それでは面白くないと思いまして 、私は別ルートで帰りましょうとHさんに提案しました。

その提案が受け入れられ、違う道を帰る事になりましたよ。ルートの難易度は同等レベルですから、女性でも問題なく帰れるはずです。

ただ私としては、帰りのルートのほうが好きですね。エキサイティングですから。(笑)

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さあ帰りますよ。 帰りのルートも何カ所か難所がありますが、頑張って行きましょう。

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ここも難所です。這ってでないと潜り抜けられませんね。

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皆さん楽しそうな顔をしながら潜り抜けていきましたよ。やっぱり「冒険」は楽しいですよね。

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やっと壕の外に出ましたよ。ここは摩文仁海岸線の崖の "中段" に位置しますのでしばらく困難な岩場を通過していきます。

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すごく急な崖を登りますよ。 手足を掛ける部分が結構あるので、見た目よりは登りやすいです。ここでも皆さんが協力して、特に女性陣を手際よく登らせてくれました。

沖縄県平和祈念資料館のHさんをはじめ複数の方、沖縄戦を体験された方。それ以外にも、

「沖縄県平和祈念資料館友の会」
※沖縄県平和祈念資料館講堂における「平和講話」、平和記念公園・平和の礎のガイド、沖縄県内の小・中・高への平和講話講師派遣、県内戦争遺跡のガイドをしてくれる団体です。

「沖縄県観光ボランティアガイド友の会」
※沖縄修学旅行生を対象とした、ガマや戦跡、米軍基地を案内する平和ガイド、首里城など世界遺産や琉球の史跡を案内する歴史ガイド、壺屋などの琉球文化のガイドと、沖縄県内を幅広く案内することを目的としている団体です。

この二つの団体の関係者もいらっしゃったようです。初対面であるだけに、誰がどの関係者なのかは定かでありませんが、こちらも案内させて頂いて、思いもよらず沖縄戦に関する「平和学習」を拝聴させて頂きました。ありがとうございました。

今回は壕を探訪しましたが、それが皆様のお役に立つかどうかは不明ですが、これほどの困難なジャングル踏破は、初体験の方が多かったみたいで、その意味では普段味わう事のないユニークな体験になったと思いますね。

私はこれからも沖縄に通い続けます。その意味ではいつの日か再び、皆様には遺骨収集奉仕活動に関連してお世話になるかもしれません。その際には今回のようにまたよろしくお願いします。

「琉風(りゅうふう)の碑」を訪問

昨夜沖縄入りし本日から行動を共にしている吉井さんが、沖縄入りする前から「今回必ず訪ねたい」と語っていたのが、この「琉風(りゅうふう)の碑」の訪問と慰霊です。

吉井さんは、

「特攻に殉ず」

田村洋三著 中央公論新社 平成16年(2004年)初版

を読まれていたく感動し、「琉風の碑」を訪ねてみようという気になられたようです。訪問のタイミングとしては本日しか無いだろうという話になりまして、今から訪ねてみる事にしました。

平和祈念公園方面からですと、国道331号線を走り、「ひめゆりの塔」を過ぎて600メートルほど走ると右側の民家の塀付近に、「琉風の碑150m」 と書かれた小さな看板が見えて来ますよ。

そこを右折して住宅街の小さな道に入り、150メートルほど進むと左側にこんもりとした森が見えてきますが、その小さな丘になった森の斜面に「琉風の碑」がありました。

碑は白い色をしていますし、碑というよりは塔といえるほど大きいので見落とす事は無いはずです。周囲は畑が連なるような地域でした。沖縄戦当時もこのような野原のような畑のような一帯だったのではないでしょうか。

「琉風の碑」が設置されている場所は、大きな樹木が繁茂して全体像はつかみにくいのですが、ちょっとした小山程度のこんもりとした丘といった印象です。

沖縄戦当時は、ここいらはすでに砲撃で木々などはほとんど吹き飛ばされ、岩肌が露わになっていたと思われますので、もしも壕が無かったとしたら、大勢が隠れるような場所はあまり無かったのではないかと推測されます。

実際に少しジャングルに入ってみましたが、壕があるというような雰囲気ではありません。もちろん、これは小山全体を回ってみないと断定は出来ないことですが…。

碑文にも"岩陰"という言葉はあっても、"壕"という表現はないので、もしかしたら壕は無かったのかもしれませんね。

私も意外に思ったのは、田村洋三著「特攻に殉ず」 という題名からもお解りのように、気象台職員の方々は日々の気象状況を懸命に沖縄守備軍に報告し続け、彼らの計測した気象情報が、鹿屋や知覧など本土からの特攻攻撃の発進に際し活かされていたという事になるのですね。

確かに考えてみれば、特攻隊発進に際し、沖縄近海あたりが快晴なら、特攻機も早くから米軍に発見・補足され多くが沖縄にいる敵艦船に到達する前に攻撃を受けて甚大な被害を受けるでしょう。

また一方で前線通過時や雷雲が発生しているような気象状況だと、飛行機の飛行自体がとても危険な行為となってしまいますし、まず雷雲の中で敵艦船そのものを発見できない恐れが高まります。

こうして見ると、今まで気づかなかった事ですが、沖縄戦とくに特攻における、沖縄から発信される気象情報は、とても大切だったのですね。

ここで「琉風の碑」の碑文をご紹介したいと思います。

【慰霊碑碑文】

沖縄戦も集結に近い昭和二十年五月下旬、選局は小禄村鏡水の沖縄地方気象台近くまで前線化した。

職員は近くの壕内で業務を続けていたが、ついに五 月二十七日には壕を放棄し南へ後退せざるを得なくなった。

この一団は、豊見城村饒波をとおり、六月三日真壁村真栄平につき、そこで首里石嶺から軍気象隊とともに撤退してきた同隊への派遣職員と合流し、一体となってさらに南下をつづけ、この伊原の地にたどりついた。

約一か月にわたる苦難の道をたどり、死闘を重ねて多くの同僚は戦没し負傷し、いまや全く力つき果て、六月二十二日に至り生存者僅かに十二名となり、この岩陰に集り最後の解散をしその後それぞれの悲しき運命をたどった。

ここに、この地を元沖縄地方気象台職員の終焉の地として、戦没者七十柱の御霊を祀るため、全国の気象台職員の芳志により、昭和三十年十二月十五日琉風の碑が建立された。

いま御霊の三十三年忌にあたり、哀切新たなる?見え碑建立の概要を記し昇天の霊にささげる。

昭和五十二年六月二十三日

沖縄気象台職員は、軍隊への派遣職員をも含めて、身を守る銃器などは携帯していなかったかもしれませんね。

そうしたなかで、彼らは戦争に必要な、特に特攻隊にとって極めて重要な気象情報を収集し発信し続けていた訳です。身の危険を常に感じながら、身を挺して見事に職務を全うした気象台職員戦没者に、私たちも手を合わせ心から哀悼の意を表しました。

沖縄気象台戦没職員を祀る「琉風の碑」

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樹木に覆われた小高い丘に建つ 「琉風の碑」 の全景です。繁茂する木々が当時無かったとイメージして見渡すと、ちょっとした小山程度の岩山である事が解ります。米国の施政権下の1955年12月15日に全国の気象台職員の芳志により建立さました。

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沖縄戦で戦没された沖縄気象台職員70柱の名前が刻まれています。

遺骨収集の様子73

ちょっとジャングルに入って見ただけですが、山上付近には壕などは無い印象です。「六月二十二日に至り生存者僅かに十二名となり、この岩陰に集り最後の解散…」。悲しい結末が待っていたのですね。

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