令和5年(2023年)沖縄遺骨収集奉仕活動

2月19日(日) 第48回 金光教沖縄遺骨収集奉仕参加

今日の天気予報は「晴れのち曇り」です。予想最高気温24度、降水確率は10%、10%です。暑くなりそうですね~。今年の遺骨収集も、ついに最終日となりましたが、今日も昨日に続き第48回 金光教沖縄遺骨収集奉仕に参加する事になっています。(^o^)
(※申し訳ございません。金光教の遺骨収集参加中の記事はありません m(_ _)m)

本日朝の慰霊巡拝では、南風原町にある「飯上げの道」と「南風原陸軍病院壕群」と、八重瀬町にある「ヌヌマチガマ」を訪ねました。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

南風原文化センター敷地内に掲示してある「黄金森公園周辺図」です。緑色の部分が黄金森公園で、沖縄戦における陸軍病院の病院壕が数多く掘られた場所で、現在もその病院壕の一つであった20号壕が公開されている場所でもあります。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

南風原町にある「南風原文化センター」です。南風原文化センターは、南風原と沖縄に関する歴史資料展示が為されています。また沖縄戦に関する資料や遺品の展示、そして沖縄で長く続いた移民に関する資料展示されています。意外に意外に思うかもしれませんが、沖縄はハワイ、北米、ペルー、ブラジル、アルゼンチン、ボリビアへの移民が盛んだった歴史があるのですね。そして沖縄の古来からの人々の暮らしぶりなどの展示なども行っています。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

「南風原国民学校 学童集団疎開記念碑」です。南風原文化センターの正面玄関前の広場に設置されていました。碑文をテキストに起こしてみましたのでご覧くださいませ。

【南風原国民学校 学童集団疎開記念碑碑文】

昭和十九年六月の閣議決定を受け、第一次一二四人が、八月二十一日和浦丸で熊本県日奈久、坂本へ、第二次一四六人は、九月九日に一進丸で宮崎県高鍋、三財、上穂北、美々津へ学童集団疎開しました。引率教師、その家族合わせて総勢二七0人でした。

幼い学童達は、親元を離れ異郷の地で、「やーさん ひーさん しからーさん」、そして幾多の艱難辛苦を乗り越え二年余勉学に励みながら逞しく生き、昭和二十一年一0月頃に帰郷を果たしました。

ややもすると忘れ去られがちな、この「学童集団疎開」の実態と、それが「沖縄戦の一環で国策として遂行された」という歴史的事実を後世に伝え、戦争を拒否し平和を創造していくという強い意志をもって、南風原国民学校学童集団疎開記念碑を建立します。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

駐車場横に、飯あげの道や悲風の丘、そして病院壕の一つである20号壕に行く方向が記された案内板がありますので、道に迷う事は無いと思われます。写真に写されている背後の山が黄金森ですね。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

写真奥の右側に、黄金森の山肌を登って行く道が見えてきましたね。

沖縄戦に関心がある方なら、「飯あげの道」と言う言葉を聞いた事があると思います。沖縄戦当時ひめゆり学徒看護隊員や衛生兵らが烹炊場から南風原の陸軍病院壕群までおにぎりなどのご飯を樽に入れて、竿を二人一組で担いで行き来した道のりを指す言葉ですよね。

南風原の病院壕群に食事を提供する為の烹炊場は、南風原文化センター前の県道241号線の道路を挟んで反対側の、現在の喜屋武農村公園がある場所付近だと言われています。井戸があった為にそこに決まったようです。烹炊場から陸軍病院壕群までは直線距離で500~600メートルですが、全行程の途中に黄金森丘陵がある事から上り坂下り坂とがあり、竿を担いでの道中はかなりハードであったはずです。隠れる場所もなく砲撃に晒される道中となった事でしょう。ですから朝と晩の艦砲砲撃が静まったタイミングで一気に運搬作業が進められたかもしれません。いずれにしても、丘陵の木々もなぎ倒され丸裸の状態では、艦砲弾や敵戦闘機のターゲットななりやすかったのは間違いなく、多くの犠牲者も出した事でしょう。本日はその「飯あげの道」を一緒に歩いてみましょう。

「飯あげの道」

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

「写真に写されている樹林帯を黄金森と呼びます。そして眼前にあるのが飯あげの道」ですね。現在上り坂は石畳の道になっていますが、沖縄戦当時はあぜ道のような狭い土の道でした。山頂から降る部分には、そうした沖縄戦当時そのままの飯あげの道が残されていますので、往事の急傾斜であるが故に往来が困難な山道を体感する事が可能となっています。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

「飯あげの道」の説明です。具体的でリアルなので理解しやすいですね。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

「沖縄陸軍病院南風原壕群周辺案内図」です。図の下の方に、「陸軍病院の炊事に使用された井戸」と書かれている箇所があります。その付近が烹炊上場壕があった場所と思われますから、そこから黄金森の反対側に無数に掘られた病院壕まで、ご飯や味噌汁などを看護婦や従軍学徒が運んだのでした。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

「飯あげの道」を50メートル程登ると右側に「悲風の丘碑」があります。見落とす事は無いと思います。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

「悲風の丘碑」に立ち寄ってみましょう。

「悲風の丘碑」

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

「悲風の丘碑」です。南風原にあった沖縄陸軍病院で戦死した二千名余名が祀られています。初代の「悲風の丘」は、昭和28年に建立されました。写真のは昭和41年3月となっていますので、改装後の塔だと思われます。

御霊様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。m(_ _)m

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

「悲風の丘碑」の説明書きですね。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

「沖縄陸軍病院(球18803部隊)」と題する説明板です。読みにくいのでテキストに起こしましたのでご覧下さいませ。

沖縄陸軍病院(球18803部隊)

第32軍(沖縄守備軍)直属の沖縄陸軍病院は当初、那覇の開南中学校に本部・内科・伝染病科、済生会病院に外科、県立二中に兵舎を置いていました。病院長は廣池文吉軍医中佐で、軍医・看護婦・衛生兵など300人余の体制でした。

ところが、1944(昭和19)年10月10日の空襲によって施設が焼失したため、南風原分院のあった南風原国民学校に移動します。1945(昭和20)年3月23日に米軍の空襲が始まると、沖縄師範学校女子部・県立第一高等女学校の生徒および引率教員237人が、看護補助のために動員されました。彼女たちは戦後、「ひめにり学徒隊」と呼ばれます。

米軍の上陸を前に、病院は黄金森一帯に掘られていた30余の壕(通称:南風原陸軍病院壕)へと移動しました。外科は第1外科、内科は第2外科、伝染病科は第3外科へと改められたのです。

5月22日、首里城地下におかれた第32群司令部が摩文仁に撤退し、陸軍病院も南部へと移動することになりました。その際、重症患者に青酸カリが配られ、自決が強要された壕もあります。「南風原陸軍病院壕趾」碑には、「重症患者二千名余名自決之地」と刻まれていますが、この数字に確かな根拠はなく、犠牲者の数はいまだに明らかではありません。

1990年、南風原町は戦争の悲惨さを伝える証として、現存する第1外科壕群と第2外科壕群を文化財に指定しました。第二次大戦の戦争遺跡としては全国で初めてのことでした。

現在は、20号壕、24号壕の公開に向けての準備を進めています。その他の壕は入り口が落盤しているため、琉球大学考古学研究室の協力で、壕の位置を調査しています。

詳しくは、「南風原文化センター(電話098-889-7399)」「ひめゆり平和祈念資料館(098-997-2100)」にお問い合わせ下さい。

南風原文化センター 2002年 

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

「天つ日も おたしき光をそそげかし 傷負い眠る丘のみたまに」と詠まれています。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

「悲風の丘」碑から少し奥に進むと、ご覧のような「南風原陸軍病院壕趾」があります。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

ギリギリ読めますね。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

この説明板も古いのですが、清掃され綺麗になったので文字が読めるようになりましたね。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

「南風原陸軍病院壕趾」の背後に病院壕があったのだと思います。30年ぐらい前は壕口だけ樹木が無くて、むき出しの斜面に土砂を詰めて埋めた‥。みたいな雰囲気があったのですが、戦後75年を経た現在は斜面にある草木もほぼ同一となり、嘗てここに壕があったという雰囲気はほとんど無いという印象です。

因みに「悲風の丘」は、「埋没壕上の建碑運動」の流れで建立された慰霊塔の一つです。1972年(昭和47年)5月に、沖縄の施政権がアメリカ合衆国から日本国に返還されましたが、それまでは日本政府が琉球政府に直接、遺骨収集や納骨堂整備に関わる資金を直接交付出来なかったので、日本側は南方同胞援護会や沖縄遺族連合会が窓口となって推進されていました。

そうした南方同胞援護会や沖縄遺族連合会による遺骨収集や納骨堂整備、そして建碑運動の中で、沖縄遺族連合会による事前調査で、埋没壕について崩落等の危険があり、壕内での遺骨収集の実施が不可能だと判定された壕については、慰霊碑の建立をもって遺骨収集の代わりとするとされました。この様な埋没壕上の建碑運動により生まれた慰霊碑は、「悲風の丘」(南風原町)の他に、「真和の塔」「不抜の塔」「眞山之塔」(以上糸満市)の四カ所が挙げられます。

という事で、南風原陸軍病院壕趾の塔が立つ所の病院壕は、沖縄戦終結時もしくは戦後入り口や内部が落盤していたと考えられますね。即ち遺骨収集は為されていない状態のまま、壕内に入るのは危険とされたのだと思います。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

「悲風の丘」と「南風原陸軍病院壕趾」の慰霊巡拝を終えたので、ここからは「飯あげの道」を辿りながら、ひめゆり学徒看護隊や衛生兵の人達の体験した苦難を、可能な限り再体験してみましょう。

と言いつつ、ご覧くださいませ。「飯あげの道」は完全に遊歩道として舗装されたり階段まで設置されていますので再体験というにはちょっと無理がありますね。但し山上と言える稜線から降りて行くルートでは、まだ往事の「飯あげの道」がそのまま残存していますので、少なからず当時のご飯運搬の困難さは再体験できるはずです。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

まだまだ登っていきます。現在はコンクリート舗装となっていますが、土の道だと傾斜がキツいので雨の日なんかは滑りそうですね~。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

最後の階段の先は明るい事から、稜線に到達するようです。あと一息ですね。最後の階段辺りは、ご覧のように、かなりの急勾配であるのが解ります。沖縄戦当時は土の道でしたから、梅雨時などは極めて滑りやすい状態だったでしょう。そして沖縄戦当時は、樹林は全て砲撃で吹き飛ばされていたはずで、隠れながら前進するなどは不可能であったと思われます。艦砲弾が付近で炸裂すれば被弾は免れないという印象ですね。「飯あげの道」は、自分自身が丸裸であると認識せざるを得ない、極めて危険な場所に感じられます。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

稜線に到達しました。ここは五叉路と言って良いでしょう。まずは登ってきた「飯あげの道」ルートを除き、四つのルートを説明させて頂きます。まず最初に、写真のように「飯上げの道」を今度は下っていくルート。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

二つ目は木造階段のルートです。ここに木造階段を設置したのは、恐らく雨の日は土の道である「飯あげの道」は滑りやすく危険なので木造階段を設けたと思われます。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

三つ目は、黄金森山頂に向かうルートです。山頂まで50mぐらいかな? 山頂は「喜屋武(ちゃん)シジ」と呼ぶようです。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

四つ目は、黄金森陸上競技場へ抜けるルートで、途中「仏ぬ前(フトゥチヌメー)」があります。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

喜屋武シジの説明書きですね。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

まず最初に黄金森山頂(喜屋武シジ)に向かいましょう。50mぐらいで到達します。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

黄金森山頂(喜屋武シジ)に到着です。山頂の見晴らしはご覧の通り遠望は不可能です。何もありません。沖縄戦当時は、この辺りに監視哨を設けた可能性はありますね。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

枝の面白い樹木がありました。サルノコシカケ?

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

「飯上げの道」五叉路に戻り、今度は左側を見ています。「仏ぬ前(フトゥチヌメー)」と言う拝所がこの先にあるようです。行ってみましょう。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

「仏ぬ前(フトゥチヌメー)」がありました。こちらも五叉路から50mぐらいの所にありました。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

「仏ぬ前(フトゥチヌメー)」です。香炉も置かれ、歴史のある近隣集落の拝所のようですよ。「仏ぬ前」にまつわる言い伝えがあり、「その昔、地域には税金を徴収する係が悪者で、賄賂を渡さない人達には、勝手に税を増加するという酷い行いをしていたが、困り果てた人達が仏の前で手を合わせ拝むと、翌年真面目な人が税金徴収係に変わり、地域の人々は安心して暮らせた‥‥」との事ですよ。(^o^)

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

「飯あげの道」五叉路に戻りました。今日は雨は降っていませんが、どのみち往復する訳ですし、土の道での下り坂は滑りやすいので、まずは木造階段を降りて、帰りは登り坂となる本来の「飯あげの道」を歩きたいと思います。それでは20号壕を目指して出発です。(^o^)

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

それでは木造階段を降りて行きましょう。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

結構複雑な構造をしています。勾配を緩くする為でしょうか、階段は横にも伸びています。この辺りは床面の木材が濡れていますね。木材が劣化しているので吸水量が多く、雨が降った後も長く乾かないのだと感じました。と言う事で、この木造階段は思いのほか滑りやすい印象を持ちました。滑り止めとしてのノンスリップ部も無いので注意を要します。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

オッ床に穴が空いていますね。床材の劣化がかなり進んでいるようです。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

ベニヤ板での仮の補修が為されていました。樹林帯の中の木造階段は寿命が短いですね。話は飛びますが、摩文仁之丘の黎明之塔付近の北斜面にある木造階段も、直ぐに歩行が危険となり短命に終わり、現在はアルミ製と人工木材で作り替えられましたね。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

裾に公園内遊歩道が見えてきましたね。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

無事に山裾の舗装路面に出ました。案内板があちこち有るので道に迷う事はありませんね。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

「飯あげの道」入り口です。山稜まで土の道となっています。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

「陸軍病院の仮埋葬地」と書かれていますね。この辺りに遺体を埋めたと言う事でしょう。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

「陸軍病院の仮埋葬地」の説明書きですね。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

山裾にご覧のような建物があります。建物は20号壕の受付・管理事務所ですね。ここは裏口と言える場所ですから、道なりにそのまま前進しましょう。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

こちらが20号壕の入り口となっています。車で来られる場合は、こちら側に到着する事となります。それでは階段を上がって行きましょう。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

平成19年(2007年)に公開された20号壕です。左側の建物が受付・管理事務所で、右側のドーム型の建物が、20号壕入り口で、壕口はご覧のように、アルミ製の開閉扉が設けられています。

所在地ご紹介

「駐車場・トイレあります」

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

ご覧のように、壕口はアルミ製のドアが設けられています。扉を開けるとすぐに壕の坑道になっているのが解ります。アルミ製の開閉扉は、壕内の湿度や温度を可能な限り一定に保つ為に設けられています。もしも開閉扉が無かったら、壕内はあっという間に乾燥化が進み、壁面は剥落してしまうでしょう。将来的には落盤の可能性も高まってしまいます。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

壕内の展示物等を紹介している掲示板です。ギリギリ読めますね。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

ひめゆり学徒隊の説明書きですね。

振り返りますと、南風原(はえばる)は戦前から今日に至るまで、首里・那覇と島尻を結ぶ交通の要でした。現在の沖縄にはモノレール以外の鉄道はありませんが、戦前は南風原に沖縄県鉄道(軽便鉄道)の与那原線と糸満線が乗り入れていたのですね。

南風原の地理的な有用性を第三十二軍も注目し、昭和19年(1944年)3月に編成された沖縄守備軍である第三十二軍の司令部も、南風原の西側に位置する津嘉山に構築されたのです。突貫工事で進められた地下壕は総延長2キロメートルにも及び、天井や床には板がはめ込まれ、発電機による電灯設備も整い、まるで地下要塞であったといいます。

津嘉山を軍の拠点として一帯に各部隊を配置し整備を進めていた第三十二軍ですが、南部に布陣していた第九師団が同年12月に台湾に転進した為、第三十二軍は補充無しの主要部隊の転進に衝撃を受け、「戦略持久の方針」に切り替えざるを得なくなり、首里の地下に司令部壕を移すという決定が為されたようです。

また昭和19年「十・十空襲」と呼ばれる、米軍軍機延べ1,396機による激しい空爆により、旧那覇市街の90%が焼失し、飛行場や港湾施設などが壊滅的に破壊され、また県民の一ヶ月分の食糧30万の米俵を失ったりもしました。(米軍によるこの無差別爆撃は、完全に国際法に違反しており激しく非難されるべきものです)

この十・十空襲大空襲により、米軍の砲爆撃の破壊力の凄さを知り、津嘉山の様な土をくり抜いた壕では、爆撃に耐えられないと判断した事も、司令部を首里に移転する決定を下した要因ともなったようなのです。第32軍司令部は首里に移転しましたが、予想される米軍の上陸地点が中部か港川のどちらであっても、南風原の兵站基地としての利便性は変わらないので、南風原の各地に糧秣・兵器敞部隊や陸軍病院の各部隊が駐屯しました。

沖縄陸軍病院は第三十二軍の直属の病院部隊として、昭和19年6月に那覇にて編成されまして、十・十空襲により那覇市内が壊滅的な被害を受けたことから、その日の夜南風原の国民学校に移動してきました。

昭和20年3月には沖縄師範学校女子部と沖縄第一高等女学校の生徒ら222名が教師18名に引率されて、看護補助要因として沖縄陸軍病院に動員されました。4月1日沖縄本島に米軍が上陸し、地上戦が開始されると、負傷者が急増し次々と運び込まれ、外科を第一外科・第二外科・第三外科など組織替えして対応しました。

戦況の悪化と共に南風原も激しい空爆を受けるようになり、国民学校なども次第に危険になったので、黄金森一帯に掘られたおよそ30本の構築壕へ移動し、看護活動が継続されました。そして5月下旬第三十二軍司令部の首里撤退の決定に伴い、陸軍病院にも同月23日までに、南部へ撤退するようにと命令が届いたといいます。

撤退に伴い重症患者を搬送する余力もないことから、自力で動けない患者には青酸カリ入りのミルクを飲ませたりした壕もあったようですが、衛生兵の判断で青酸カリを廃棄したところもあったようです。この日の南風原からの撤退により、沖縄陸軍病院としての機能は尽きてしまったと言えるかも知れません。

南風原町では平成2年に、陸軍病院壕が「沖縄戦の生き証人であり、町民のかけがえのない共有財産である」との理由で戦跡文化財に指定しました。現存する第一外科壕群と第二外科壕群がその対象となったようです。平成8年には「南風原陸軍病院壕の保存・活用」の答申が発表され、第20号壕の考古学的手法による、発掘調査および一般公開に向けての整備が進められたのでした。

平成19年(2007年)に公開された20号壕ですが、その翌年に見学した記録がありますので、皆様にご紹介致します。当時は予約制となっていましたが、ダメ元で訪ねてみました。

黄金森公園に到着したのは午後の4時半過ぎでしたでしょうか。他の見学者は誰もいないようでした。二人の年輩のご婦人が、寒いのかコートを羽織り(私はちっとも寒くないのですが)待機所のような建物で本を読んだりして休憩していました。私は恐縮しながら挨拶をして、「予約無しでは見学できないのですか~」と訪ねてみました。

そしたらご婦人が「大丈夫ですよ予約が無くとも」と答えてくれたのです。そしてすぐに案内してくれるというのです。「あそこで入場券を買って下さい」と促され、チケットを購入したら、懐中電灯を手にしたりヘルメットを被ったりと、あれよあれよという間に見学の準備が整ってしまいました~。

と言う事で、十分に経験を積んだガイドさんによる案内で、20号壕内部の様子や沖縄戦当時の南風原の置かれた戦況など、詳しく解説していただきました。見学料は個人で300円、壕見学の所要時間は20分ぐらいだったと記憶しています。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子26

【平成20年(2008年)2月14日撮影】
平成19年(2007年)に公開された沖縄陸軍病院 南風原壕群20号壕の壕口や受付事務所の様子です。公開後まだ一年経過していないので、建物などの施設はピカピカです。

遺骨収集の様子27

20号壕の入り口です。壕口は二カ所ありますが、こちら側からの一方通行のようです。ご覧のように、壕内の乾燥を防ぐために開閉ドアが設置されていました。

※拡大表示出来ます

南風原20号

南風原壕群20号壕の解説板です。拡大して読んでみて下さいませ。

遺骨収集の様子28

南風原にある壕群は「構築壕」といいまして、人間が山の斜面を掘って作った壕なのです。沖縄戦当時は機械力もないので、このようなツルハシで一生懸命掘ったわけですね。

遺骨収集の様子29

5月下旬首里の第三十二軍司令部の南部撤退に伴い、沖縄陸軍病院も順次南部に後退しました。東側壕入り口に埋められてしたこれら医薬品は、撤退に際し持てない分を埋めたと見られます。

遺骨収集の様子30

壕内部の様子です。米軍の火炎放射攻撃により天井などがかなり黒ずんでいます。この20号壕の地盤は乾いていますが、水浸しの壕もあったようです。ひめゆり学徒の証言によれば、「壕内は絶えず地下水が滲み出て、まるで泥田のようだったが、その上に丸太が敷き並べてあって、生徒達はその丸太の上に、持って来た布団や毛布を置いて生活した」と述べています。

遺骨収集の様子31

米軍の火炎放射攻撃により焼けたとみられる坑木です。木材がこれだけ燃焼してしまうのは、相当長時間火炎放射を浴びたものと推測されます。

遺骨収集の様子32

坑木は半間(90cm)間隔で設置され、壕内空間は幅・高さ共に1間(1.8m)で、軍の標準的な構築寸法で掘られました。

遺骨収集の様子33

各壕は他の壕と連接していたりします。この先は19号・21号壕に繋がっているようです。ここから先は、現在落盤もあり危険なので立ち入り禁止となっています。

遺骨収集の様子34

壕の外に出ました。20号壕の東側出口付近ですね。この解説板の下に冒頭で紹介した医薬品が、写真のように埋められていたといいます。

遺骨収集の様子35

ガイドのお二人ですよ。20号壕を解説する登録ガイドは、南風原町だけで50人以上居られて、予約状況により交代で案内所に詰めているという話です。今回は右側の方に案内していただきましたよ。丁寧な解説ありがとうございました。(ホームページに掲載する旨の了解を得ています)

過去写真掲載はここまでです。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

「沖縄陸軍病院24号壕」があった場所です。完全に埋没し壕があった雰囲気さえもありませんね。ここは20号壕から50mも離れていない場所にありますから訪ねてみて下さいませ。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

「沖縄陸軍病院24号壕」の解説文です。ギリギリ読めますかね。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

門中墓があったので撮影させて頂きました。門柱から全部石造りですし曲線も多用しているので、お値段が高そうなお墓ですね~。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

それでは帰りましょう。(^o^)
帰路は本来の飯あげの道を通りますよ。ひめゆり学徒達は看護活動だけでなく、食料運搬もやりました。百人分の食料約14キログラムを、南風原村にある炊事班の壕から、この南風原の壕群まで運んだのです。食料運搬中にひめゆり学徒の二人が、至近弾を浴びて負傷したそうです。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

序盤から結構な登り勾配ですね。黄金森公園の樹林帯には、太い木があまりありませんね。激しい砲爆撃を受けて、ほとんどの樹木がなぎ倒されてしまい、今ある樹木は戦後育ちなのかも知れませんね。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

急勾配がずっと続いています。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

勾配が少し緩くなり歩きやすくなりました。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

稜線が見えてきましたよ。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

稜線にある五叉路に到達しました。直進すると南風原文化センターへ至ります。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

稜線からの石造階段です。上から見ると、かなりの勾配であるのが解ります。沖縄戦当時は、ここが土だった訳ですから、かなりの急勾配であるが故に、飯あげも本当に大変だったと思いますね。

令和4年(2022年)1月19日/沖縄遺骨収集の様子no.60

南風原文化センターと共に市街地が見えてきました。南風原陸軍病院の将兵や女子学徒、そして入院患者の食事は、写真の範囲内で、且つそう遠くない場所にあった炊事班の壕で烹炊されたものが運ばれていました。沖縄戦当時の南風原村喜屋武部落にその壕はありました。

次に目指すは八重瀬町新城にある「ヌヌマチガマ」(第24師団第一野戦病院新城分院)です。同壕は出入り口が2箇所あり、もう一方の出入り口は「ガラビガマ」と呼びます。二つの出入り口間の距離は、凡そ500メートル程に及ぶ巨大鍾乳洞です。二つの出入り口のうち、「ガラビガマ」がメインの出入り口であったようです。

因みに「ガラビガマ」は平成14年に閉鎖されてしまいました。表面上の理由は「落盤の危険性があるから」という事のようですが、伝え聞く情報によれば、壕口付近の地権者てある農家とのトラブルがあるという話です。糸満市伊敷にある「糸洲の壕」も同様のトラブルが露見しました。いずれにしても、畑に囲まれた狭い通路に観光バスがやってきて生徒が何十人も並んで出たり入ったり…。ちょっと厳しいですね。

「ヌヌマチガマ」は、沖縄戦が始まる前は第二十四師団(山部隊)歩兵第89連隊第2大隊の野戦病院として利用されていました。沖縄陸軍野戦病院の本部は、八重瀬町富盛の八重瀬岳にある第二十四師団第一野戦病院でしたが、米軍上陸後中部戦線である嘉数高地・前田高地等での激戦が続くようになると負傷者が急増した事により、新城・新垣・与座にある壕に分院が設けられ、「ガラビガマ」が新城の分院となりました。第一野戦病院新城分院では、県立第二高等女学校の学徒看護隊、つまり白梅学徒隊の生徒3人(最終的に5人)が看護に加わり、また地元の女子青年団員も大勢動員されるなどして看護体制を整えたと言われています。

「白梅学徒看護隊之壕」として知られる「ヌヌマチガマ」(第24師団第一野戦病院新城分院)の沖縄戦当時の様子をおさらいしておきましょう。

陸軍野戦病院の本部は八重瀬町富盛の八重瀬岳にある第二十四師団第一野戦病院でしたが、米軍上陸後中部戦線である嘉数高地・前田高地等での激戦が続くようになると負傷者が急増した為に新城・新垣・与座に分院が設けられ、「ガラビガマ」が新城の分院になりました。新城の分院は開設当初は軍医一人、看護婦一人、衛生兵、県立第二高等女学校の学徒看護隊、つまり白梅学徒隊の生徒3人(最終的に5人)が加わり、また地元から女子青年団員も大勢動員され、看護体制を整えたと言われています。

戦闘の激化に伴い、収容患者数はピーク時で千名にも及んだと記されています。これだけの数の重軽傷患者を、ランプやローソクなどのささやかな明かりを頼りに、野戦病院関係者は懸命に看護活動に邁進したのでした。包帯やガーゼ、消毒液、各種薬品なにもかもが不足しています。何よりも麻酔薬なしでの外科手術が行われたそうですから、その現場たるや…。言葉を失ってしまいますよね。

麻酔なしで手足を切断したという話がありましたが、その手足を埋めた場所は、現在でも把握されていないという話です。包帯などの洗濯も学徒さんや女子青年団員の仕事だったようで、ガラビガマ側の出入り口付近に地下水が湧き出すところがあり、そこで洗濯をしていたといいます。

「看護婦さん、看護婦さ~ん」と呼ばれてランプを頼りに、患者さんの元にたどり着くと、「痛い、痛い」というので、包帯を外して患部を見るとウジが一杯湧いているので、ウジを一生懸命ピンセットで取ってやったそうです。また呼ばれて患者さんの元に訪ねると、「隣の人の様子が変だ」というので隣の患者さんの様子を見ると、すでに死んでいてウジの住み家になっていた…。という事もあったそうです。

4月も後半になりますと、あらゆる物資が底をつき日本軍将兵や看護婦、そして患者さんの食糧確保も困難を極め、記述によれば一日で、小さいおにぎり1個しか配給されない日々が続いたとあります。患者さんは体力をつけて怪我の回復を計ろうにも、食べるものもないという事であれば、きっと怪我や病気の回復も遅々として進まなかったかもしれません。

治療や看護にあたる医師や看護婦さん達の、想像を超える困難さは容易に想像できます。戦争ですから、手や足を吹き飛ばされたり、内臓が露出していたり穴が開いていたり…。もちろん一人ではトイレや寝返りさえうてない重症患者も大勢居たかも知れません。重症患者は重傷と高熱で脳が冒されてしまい脳症患者となり、苦しみでのたうち回り、大声を出したり暴れ回るといった悲劇的な結末になっていくそうです。

また傷口からバイ菌が入り、脳に障害をもたらすという破傷風患者も大勢居たと言われています。治療する側とされる側の人数の圧倒的な乖離。空腹に打ちひしがれながらの各種看護作業。患者さんへの水や食料の配布などなど…。昼夜を能わず看護活動に明け暮れた、学徒看護隊や女子青年団員の方々に、本当にご苦労さまでしたと言いたいですよね。患者さんも看護する側の困難さが解っているから、患者さんは余計に我慢我慢の日々を送った事もあったかもしれません。優しい日本人ですから。

沖縄戦も二ヶ月が経過し、6月3日に米軍が「ヌヌマチガマ」から2キロほど離れた港川海岸から上陸するという情報がもたらされ、ここ新城分院は解散し八重瀬岳の本部に合流する事となり、その時に決定的な悲劇が訪れたのです。

解散に際し動けない重症患者には青酸カリが配られて、かなりの数の患者さんがこの壕内で亡くなったと言われています。手榴弾を持っていた人はそれを爆発させて自決しましたし、また拳銃などを持っていた兵隊さんは、自分の頭を拳銃で撃ったと言われており、実際に戦後の遺骨収集では、頭骨に穴が開いている御遺骨が複数発見された事からも、それが裏付けられています。

これはとても心の痛む問題です。その時身動きのとれない彼らは何を思ったか…。故郷に帰る夢が遠のき、無念の哀しみの中で息を引きとったのか…。ここで亡くならざるを得なかった五百名もの重症患者さんたちの思いがどのようなものであったのか。この地に立つと重症患者の悲痛な叫びが聞こえてくるような気がします‥‥。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

「ヌヌマチガマ」(第24師団第一野戦病院新城分院) 壕口に到着しました。10年ぶりの訪問となりますがビックリです。大きく様変わりしていますね~。昔は舗装もされていない駐車場(乗用車数台分の広さ)しかありませんでした。

所在地ご紹介

「駐車場・トイレあります」

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

道路を挟んで反対側には、大型バスが転回&駐車出来るように広いスペースが確保されています。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

「八重瀬町戦争遺跡公園」として整備されたみたいですね。案内板左手に「壕口」と書かれている場所がありますが、そこが「ガラビガマ」の壕口と言う事になります。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

トイレですね。昔はトイレがありませんでした。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

背後の樹林帯に「ヌヌマチガマ」の壕口があります。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

ギリギリ読めますね。読めないかな? (^_^;)

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

「白梅学徒看護隊の足跡めぐり」看板ですね。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

門扉が設けられていました。門扉が無かった頃も、ここから「ヌヌマチガマ」の壕口に向かいました。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

ご覧のように予約制になりました。登録されたガイド団体と同伴すると言う条件ですから、入壕には費用が発生する雰囲気ですね。

令和5年(2023年)2月19日/沖縄遺骨収集の様子no.

「白梅学徒看護隊之壕」の碑です。また碑の左側の通路を進むと壕口があります。同碑は昔から同じ場所にありましたが、入壕ルートは若干変わりました。

《過去の写真ご紹介》

遺骨収集の様子34

【平成21年(2009年) 1月撮影】
「ヌヌマチガマ」側壕入り口近くに「白梅学徒看護隊之壕」の碑が立っています。ここ新城分院では県立第二高等女学校の学徒看護隊「白梅学徒隊」の生徒5人が看護活動にあたりました。「白梅学徒隊」の生徒はこの壕では亡くなっていません。富盛の本部が解散された6月4日以降、戦野をさまよい犠牲となりました。

遺骨収集の様子20

【平成26年(2014年)2月撮影】
ここがヌヌマチガマのある場所です。写真ほぼ中央にある樹木の下に壕があります。駐車場はないに等しいので、道路に駐車する場合は、他の車両の通行に支障がないよう十分に注意したいものです。

過去写真掲載はここまでです。

「ヌヌマチガマ」の入壕が予約制になったと言う事で、個人が同壕を見学するのは難しくなりました。私達はこれまで三度「ヌヌマチガマ」に入りました。二回は「ヌヌマチガマ」「ガラビガマ」間の縦走。一回は「ヌヌマチガマ」でのゴミ清掃で、その中で二度ですが同壕内で遺骨収集を行いました。これらの写真群は壕見学が予約制になった今は貴重な記録となりました。壕内は驚くほどドラマチックであり変化に富んでいますから、お時間がある時に、ぜひ三回の全てをご覧になって下さいませ。(^o^)

1回目 平成21年(2009年)1月23日 ヌヌマチガマ・ガラビガマ間往復
2回目 平成26年(2014年)2月11日 ヌヌマチガマでゴミ清掃と遺骨収集
3回目 平成26年(2014年)2月12日 ヌヌマチガマ・ガラビガマ間往復と遺骨収集

1回目【平成21年(2009年)1月23日撮影】

全長500m ヌヌマチガマ・ガラビガマ間往復

遺骨収集の様子35

「ヌヌマチガマ」 出入り口は道路脇にあり、周囲に農家のビニールハウスや畑があるという環境です。昔はこの付近に植生する「ぐわば」を摘むことができ、お茶や薬用で飲んだりしたそうですよ。入り口付近は坂が急ですから、雨の日は滑りやすいかもしれません。

遺骨収集の様子36

入り口付近を中から撮影しました。私を含め男性3人、女性1人の合計4人で、これから「ヌヌマチガマ」での平和学習&探検に出発します。本日外はかなり寒かったのですが、壕の中に入るとやはり暖かかったですね。壕は東西に貫通しており、基本的に酸欠の心配はないとされています。

遺骨収集の様子37

「かまど」跡です。以前と比べ小石がかなり減少しています。消し炭もほとんど文字通り消えてしまいました。「かまど」だと説明されなければ、気がつかないレベルの場所となってしまいましたね~。松永さんは「壊された」という表現を使いましたが、今も調査や遺骨収集に入るグループがあり、その人たちではないかと語っていました。こうなってしまってはどうしようもありませんが、もう少し防護策かなにかしておくべきでしたね…。

遺骨収集の様子38

壕に入ってまもない段階では、このように湧き水のある場所が何カ所かあるようです。当時この壕内にいた方々にとっても貴重な飲み水だったのは間違いないでしょう。また天井から水滴がしたたり落ちている区域がありました。それらも水受けで集水したそうです。

遺骨収集の様子39

まだあまり深く入っていませんが、ここいらはご覧のように地面は湧き水でグチャグチャの状態です。「深いところに重症患者が居た」という当時の情報があり、この辺にも当時重症患者が居たのではないか?という話です。(ご覧のように、この壕に入るには長靴・手袋は必需品であることを申し添えておきます)。

遺骨収集の様子40

壕内は登ったり降りたり、とにかくアップダウンが激しいですね~。重症患者は、戸板に乗せられて搬入されたといいます。坂道では滑り落ちる可能性があるので患者さん自身も落っこちないように必死だったという話ですよ。

遺骨収集の様子41

壕内で説明する松永さんです。修学旅行平和学習では、見学時間が1時間のケースが多く、往復20分ずつ、解説に20分のパターンが多いそうです。松永さんは修学旅行生と同等レベルの平和学習を私たちにしてくれました。ありがとうございました。

野戦病院として利用されたこの壕では、ピークの頃は患者さんが千名を越えたといわれています。壕内にワラや草などが持ち込まれ患者さんはその上に寝ていたといいます。(壕内では距離感がかなり狂ってしまいました、どれくらい入ったのかあまりよく解りません。)

遺骨収集の様子42

ここまで来ると地面は乾いた状態が続きます。それにしてもアップダウンが激しいですね。当時は灯りがあるかないかの状況ですから、このアップダウンはとても歩きにくかったと思います。ご覧のように、道を一歩間違うと崖から落っこちてしまうような状況なのですから。

遺骨収集の様子43

ここまで来るとかなり広い空間が広がっていました。その空間の広いことに皆がビックリしていました。壕内の天井から植物の根が垂れ下がってきています。壕の上はジャングルな訳ですが、それにしても岩に穴を開け侵入してくる根のパワーは本当に凄いですね。この付近で風を感じだ場所がありました。地上から見ても穴が開いているそうです。近くに牛舎があるそうですよ。

遺骨収集の様子44

壕内にはこれまで相当数の見学者が入ったと思われ、しっかり道が出来ている場所が多かったです。

遺骨収集の様子45

「この部分に患者さんが横になっていたのではないだろうか」というような会話をしました。学徒さんや女子青年団員の方々は、壕内で看護活動をしていると昼夜の区別がつかなったそうですが、絶え間なく続く看護活動のなかで、もともと決められた休憩時間というのは無く、タイミングを見ては、患者さんの間に潜り込み、ささやかな休息をとったといいます。ここで骨片が見つかりました。持ち帰り金光教の遺骨収集にご一緒させてもらおうという話になりました。

遺骨収集の様子46

ご覧のように壕内の空間は、かなり広くそれがずっと続きます。またアップダウンも続きます。この辺は完全に乾いており、この近くにいた患者さんはかなり水に苦労したと思われます。ただ南部掃討戦の時期は梅雨に入っていますので、この時期より水の確保は容易だった可能性があります。

遺骨収集の様子47

沖縄戦当時、この鍾乳石に針金を巻き付けランプを吊したのではないかと言われています。

遺骨収集の様子48

沖縄戦当時の遺品と思われますが、「数珠」かな? それとも女性の装飾品かな?。ただし見学者も壕内にいろんな物を落としていくので、よく調べないと断定出来ないそうです。

遺骨収集の様子49

かなり急な坂が多いので、靴底もしっかりグリップのきいたものでないと滑りやすいです。下りが始まると「ガラビガマ」側に近くなったという事が解るらしいですよ、実際風を感じるようになりました。この付近には天井に穴があり、時間帯によっては太陽光線が差し込むそうです。

遺骨収集の様子50

「ガラビガマ」側にかなり近づいてきたので、また人工的な構築物が目につくようになって来ました。壁面には黒くススが付着した場所がありますが、兵隊さんが手榴弾で自決した場所だといわれています。松永さんは「ヌヌマチガマ」側もそうでしたが、こちら側も何カ所か貴重な形跡が破壊されていると嘆きました。意図的か、または無知からか…。どちらにしても、沖縄戦当時の面影は少しでも多くそのままにして置きたいですね。

遺骨収集の様子51

大きなカマドがありましたよ。昔はサトウキビを煮詰めるこんな大きな鍋があったそうです。ただ調理の多くは「ヌヌマチガマ」側で行ったようで、鉄砲水などアクシデントがあった時にこちら側で調理したそうです。

遺骨収集の様子52

「ガラビガマ」側にかなり近い事もあり、「風葬」の場が三カ所ほどありました。写真に写されている頭骨については、明らかに銃弾が貫通したと思われる穴があいていますので、戦没者の御遺骨が含まれていると断定出来そうです。他の箇所についても、御遺骨が明らかに混在していると断言できる状況でした。

沖縄伝統の埋葬方法である「風葬墓」であるのが明白な場所では、安易に骨を持ち出すのは慎むべきです。また本来ならば、風葬の場に足を踏み入れるのにも慎重さが求められるという点を、遺骨収集奉仕活動に参加される方は十分認識しておく必要がありますね。

遺骨収集の様子53

鍾乳石の岩肌が苔むしているような色になってきました。
「ガラビガマ」側に出てきましたよ。一部ロープが設置され、田中さんがロープで降りようとしています。

遺骨収集の様子54

「ガラビガマ」側入り口の様子です。なにかおどろおどろしい巨大なツララがあり異様な雰囲気です。写真の中に石組みが二カ所ありますが、いずれも風葬の場となっています。風葬の場は基本的に石を積み上げ中が見えないようにするのが一般的です。

遺骨収集の様子55

「ガラビガマ」入り口付近で撮影しました。撮影はしませんでしたが、この下の方に地下水が流れており、飲用や包帯の洗濯をしたそうです。現在はポンプと配管が設置され、農家の灌漑用水として利用されているようです。またこの下の方に機関銃の銃座が現存しています。ここは森が深いのか、鳥がたくさん鳴いていましたよ。

※ 松永さんが、落盤した岩が落ちている場所を教えてくれました。
松永さんによりますと、昔はなかったといいます。つまり近年落ちた岩であり、色も明らかに差異が見られるので間違いないと説明してくれました。所轄する行政当局にも連絡済みだという話です。

「ガラビガマ」入り口付近に具志頭村長が掲示した、「ガラビ壕への入場者への注意」のなかで落盤の危険性があるので十分注意するように……。という警告は間違いではなく、入壕に際しては十分にそのようなリスクがあると認識する必要がありそうです。すなわち、この壕見学に際してはヘルメットは必須だという事ですね。

またこの付近の岩陰に地元の人たちが、"自然に対して祈る場所" がありました。そのような神聖な場がある場合は、その周囲では節度ある行動を心がけたいものですね。

松永さんの説明では、この「ガラビガマ」入り口に立っただけで泣き出してしまう学生さんがいるそうです。また、カメラや取材のテレビカメラなどが、先ほどまで使えたのに一時的に壊れたように使えなくなってしまうという事例が結構あるのだそうです。

神聖な場では、人智を越えた何かが存在するようですよ。神聖な場においては、"謙虚に行動する" 事が要請されているのではないでしょうか。

今来た道を帰ります

遺骨収集の様子56

松永さんの平和学習を受けながら、ここまでの往路は約50分かかりました。ここでユータンして再び「ヌヌマチガマ」 入り口に向かいますよ。松永さんは、途中から別ルートで帰ると話していましたが、私たちはひたすら付いていくだけです。ここまで来て感じたのは、壕内はとても複雑で一人では絶対に入ってはいけないという点ですね。壕内に何度か入っているという経験者を同伴させるべきという事は申すまでもありません。

遺骨収集の様子57

「ガラビガマ」入り口付近です。通路の左右には重症患者さんが横たわっていたのではないでしょうかね。それでは、いま来た道を戻っていきましょう。

遺骨収集の様子58

「ガラビガマ」入り口付近も急な坂が複数あります。重症患者さんの移動や、治療活動や食事や下の世話などでここを行き来した看護側の人たちも大変でした。

遺骨収集の様子59

どうです。このおどろおどろしい岩肌は…。地獄の入り口に近づいているという印象です。

遺骨収集の様子60

この写真もこの世の物とは思えませんね。地獄世界に迷い込んでしまった気分です。

遺骨収集の様子61

ある洞窟内の天井を撮影しましたが、コウモリのコロニーが写されています。コウモリは極めてデリケートな生物であり、冬は基本的に冬眠するそうです。洞窟内に住むコウモリを撮影したのは、今回が初めてでしたが、このコウモリを撮影した後、松永さんにこっぴどく叱られました~。
コウモリが、フラッシュの強烈な光に驚いてしまうので、フラッシュをコウモリに向けるのは厳禁だそうです。それでなくとも、沖縄のコウモリの生息数は激減しており、その観点からもコウモリの撮影時には絶対にフラッシュを使用しないようにとの警告を受けました。
この大厳罰を教訓に、これ以降はコウモリを撮影することはしない事にしました。ごめんなさ~い。

遺骨収集の様子62

コウモリのコロニーの下には、大概糞の山がありますね。コウモリの糞はご覧のように、焦げ茶色のツブツブといった雰囲気です。ちなみに糞を餌にするゲジゲジ?(節足動物)が居ましたね~。

遺骨収集の様子63

凄い風景でしょう~。一人なら怖くて ギャー と絶叫してしまいそうですよ。吉井さんが、ユニークな岩を見つけて「観音岩」に命名しましょうなんて言ってましたよ。それくらい、あちこち感動的な岩肌の鍾乳洞風景が続いています。

遺骨収集の様子64

この辺にも大勢の患者さんが居たのではないか? というような会話をしました。ほとんどが傾斜や坂道の道中で、広く平らな部分が現れるとその様に想像してしまいます。探すつもりもなく、何気なく地面を見て、結局合わせて数個の御遺骨が見つかりました。御遺骨は私が責任を持って、明日から始まる金光教遺骨収集奉仕団のお清め班にお渡しします。

遺骨収集の様子65

そろそろ別ルートに入る段階となってきたようです。

遺骨収集の様子66

往路とは別ルートに入りました。この様な狭い空間が続くようになりました。「ツララ」をたたくとコーンコーンという高い音がします。つまり中は空洞のようですよ。写真にも欠けて落ちているツララが散乱していますが、空洞のものや細いのは意外ともろいそうですよ。風を感じますので、酸欠の心配は不要のようです。

遺骨収集の様子67

かなり狭い部分が続きますよ。離れたら怖いのですぐ続いて前に進みます。やっと通れる部分もありました。またなぜか暖かくなってきました。所々に通過点を示す紐やマーキングが施してありました。以前調査で入った団体が施工したものでしょう。

遺骨収集の様子68

多くを掲載できませんでしたが、この付近では芸術作品と思えるような壮大な鍾乳洞が続きました。光が見えだしたようで「もうすぐ出口だよ」と松永さんの声が、前の方から聞こえました。

遺骨収集の様子69

直径70センチほどの穴が開いていました。ここが出入り口となります。この穴はごく限られた人しか知らない秘密の出入り口らしいですよ。通常の地図では、三カ所入り口が書いてありますが、ここは記載されていないそうです。周囲は完全にジャングルの中です。「ヌヌマチガマ」出入り口に近いことは間違いないと思われます。この穴の下には床面が平らで素晴らしい空間がありますが、その空間についての証言はないそうです。
この穴を出た段階で、「ヌヌマチガマ」入壕から2時間30分経過していました。

遺骨収集の様子70

かつてここも出入り口の一つでした。ここは「ヌヌマチガマ」出入り口の近くにあります。戦後地元住民がゴミ捨て場として利用していたので、ネットを張りゴミ捨てを防いでいます。

2回目【平成26年(2014年)2月11日撮影】

ヌヌマチガマでゴミ清掃と遺骨収集

遺骨収集の様子20

ここがヌヌマチガマのある場所です。写真ほぼ中央にある樹木の下に壕があります。駐車場はないに等しいので、道路に駐車する場合は、他の車両の通行に支障がないよう十分に注意したいものです。

この付近には「ぐあば」が自生しており、沖縄戦当時も飲用されたという話ですよ。ところで、ヌヌマチガマに向かう途中では、ツバメが驚くほど沢山飛んでいました。2月の沖縄は正に春なんですね~。

遺骨収集の様子21

ヌヌマチガマの経緯が詳細に書き記された掲示板です。

遺骨収集の様子22

「ヌヌマチガマ」入り口横には「白梅学徒看護隊之壕」という碑が立っています。この壕は八重瀬岳にある第24師団第一野戦病院壕の分室、新城分院として使われ、白梅学徒看護隊員も配属されていました。6月3日湊川方面から米軍が迫ってきているとの報により、分院は解散となり八重瀬岳の本部に合流することになり学徒らは移動して行き、この壕では亡くなっていません。

遺骨収集の様子23

この壕の全容を表示している掲示板です。壕の出入り口は複数ありますが、主に左側のヌヌマチガマ、右側のガラビガマの二カ所が一般的に使用されています。この地図では高低差が記載されていませんから、比較的単純な壕にも見えますが、実際に中に入ってみますと、高低差がかなりありますので、この地図よりも相当複雑な壕と言えるでしょう。

遺骨収集の様子24

ここはヌヌマチガマの入り口です。平和学習でも頻繁に利用される出入り口です。ちなみにガラビガマ側は現在地主との交渉がまとまらず、立ち入り禁止となっています。もちろん、ヌヌマチ側からガラビガマ出入り口に立つのは一向に差し支えはありませんよ。

遺骨収集の様子25

一番下に居る人のところが、出入り口では一番低いところです。松永さんは、そこでまず最初の平和学習の講話をするそうです。

遺骨収集の様子26

ヌヌマチガマに入って20メートルほど進んだところで振り返り入り口方向を撮影しました。入り口付近は少しかがまないと入れないという状況です。

遺骨収集の様子27

40メートルほど入った所です。入り口付近はかがまないと入れませんが、ご覧のように立ったままで歩けるほど広い空間になります。

遺骨収集の様子28

ヌヌマチガマ入り口から目測60メートルぐらい入った所でしょうかね。目的のゴミの山が見えてきました。

遺骨収集の様子29

これまで日曜日などに皆さんが集まって継続的にゴミ片付けの作業を継続しているといいます。あと何人工投入したら作業を終えられるのか見通しも立たないほど、これからも作業を続けなければならないようです。

遺骨収集の様子30

皆さん手慣れたもので、到着するとすぐにゴミの片付け作業を開始しました。

遺骨収集の様子31

あらゆるゴミが混在しているようです。全てのゴミは仕分けして袋詰めされるようです。

遺骨収集の様子32

タイヤも多いですね。これだけ多いと恐らく業者が捨てたのでしょう。

遺骨収集の様子33

 

遺骨収集の様子34

雑多なゴミが交じっていますね。これなんかも分別が大変そうですよ~。

遺骨収集の様子35

 

遺骨収集の様子36

生活用品も沢山あります。写真上の開口部からゴミが投げ落とされたようです。

遺骨収集の様子37

その問題の開口部は、現在はご覧のように電柱が何本も掛けられて、かつ写真では解りにくいのですが、10センチ程度のマス目の鉄製ネットが掛けられて、大きなゴミは落ちないようになっています。

遺骨収集の様子38

ご覧のようにゴミの種類に応じて分別されています。

遺骨収集の様子39

これはすでに集められ外部に搬出されるのを待っている粗大ゴミ群です。

遺骨収集の様子40

本日の作業している範囲の全景です。オレンジ色に光っている場所が二三カ所ありますがロウソクが灯されています。ロウソクを灯して作業場所が少しでも明るくなるように配慮しています。

遺骨収集の様子41

昼食のために出入り口に戻る際に、ご覧のように出入り口のすぐ近くに脇道があるので、そこを通って出ようという話になりました。一人の人がすでに登っていきました。開口部は大きいですから、誰でもその脇道には気づくと思いますので、ヌヌマチガマに行かれた際は、帰るときにでも入って見て下さい。

遺骨収集の様子42

少し怖い雰囲気ですが、そのまま進んで下さい。

遺骨収集の様子43

少し奥に入ると、脇道はご覧のように立って歩ける状況になります。

遺骨収集の様子44

脇道の内部の様子です。自然洞窟ですが、若干空間を広げたようにも思えました。ヌヌマチガマ内部もそうですが、鍾乳石のツララは顔に当たると怪我をしやすいなど、危険だという意味もあるでしょう。ここは病院壕ですからね。ツララはことごとく欠かれているのが見てとれます。

遺骨収集の様子45

人が壕の中に入ろうとしていますが、脇道の外から入る場所です。ヌヌマチガマの出入り口の右側5メートルほど離れた場所にあります。

遺骨収集の様子46

ここは脇道の脇道という表現が適切かもしれません。枝分かれしている部屋です。

遺骨収集の様子47

ご覧下さい。ランプを灯すために、針金でツララ部分に固定したと思われる、当時からそのままの針金が残されていますね。

遺骨収集の様子48

全員ヌヌマチガマ出入り口から出ました。一番左の方は沖縄戦の時、5歳の少年だった地元の人です。沖縄戦当時の様子を皆さんが熱心に質問していました。この方は長男という事で(長男は強制的に疎開させられたそうです)、早くから疎開していたそうですが、当時守備軍は子供達からも信頼され、沖縄戦に突入するまでは、地元の子供達は荷車に乗せてもらうなど、よく兵隊さんに可愛がられ、よく遊んだという話がとても印象に残りました。

また米軍が占領後、米軍の車のボンネットには、頭蓋骨が飾ってあるのを時折見かけたという話もしてくれました。ひどい話ですね~。プンプン

お昼ご飯ですよ (^o^)

遺骨収集の様子49

ご存じソーキそばですよね。動いた後の昼食は最高です。とても美味しかったですよ。

午後はヌヌマチガマで遺骨収集

遺骨収集の様子

さあ午後はヌヌマチガマの出入り口付近で遺骨収集です。松永さんが、出入り口付近は高さがないので、壕の下を掘り下げたら、平和学習の生徒が通行しやすいのではないかと考え、一部掘り下げてみたらご遺骨が出てきたそうです。そうした経緯があり、今回皆で掘ってみようという話になりました。

遺骨収集の様子50

さあ遺骨収集作業開始です。

遺骨収集の様子51

掘り始めてすぐに骨片が続々出てきましたよ。

遺骨収集の様子52

こんな大きな鉄の塊が出てきました。皆さんの意見を聞きましたが、何かはついに解りませんでした。これは何だと思いますか?。

遺骨収集の様子53

ご遺骨が含まれていない事が確認された土砂は、バケツなどに入れて10メートルほど離れた、通行の邪魔にならない場所に積み上げられます。

遺骨収集の様子54

あまり移動せず、同じ場所でひたすら収骨作業が続けられました。

遺骨収集の様子55

虫歯を発見。(^^;)
沖縄戦当時の人は歯が丈夫だったと思います。私も何百本もの歯を見ているはずですが、これまで虫歯を見た記憶がありません。多分そう断定して良いと思います。それだけに非常に珍しく、皆さんも珍しいという意見で一致しまして、ひとしきり虫歯の話題で盛り上がりました。

遺骨収集の様子56

かすがいですね。坑道を木材で補強するときなど使用される金物ですが、ヌヌマチガマでは不要な印象ですが、ヌヌマチガマのどこかで使用されたのでしょうかね。

遺骨収集の様子57

医薬品のアンプル、茶碗、石鹸箱などが出てきました。

遺骨収集の様子58

沖縄の今年は雨が多いと言う事で、土が結構べたつきます。遺骨収集では特に骨片について言える事ですが、土はサラサラの方が探しやすいですね。水分を含むほどに骨片を探すのは困難になっていきます。

遺骨収集の様子59

本日最終的にこれだけの骨片が収骨されました。ヌヌマチガマ出入り口の幅約15メートルぐらいのうち、まだほんのさわりを収集しただけでこれだけ出てきたのですから、これからも継続して収集に当たらねばなりませんね。

3回目【平成26年(2014年)2月12日撮影】

ヌヌマチガマ、ガラビガマ間往復と遺骨収集

遺骨収集の様子15

さて本日はベテランさん揃いのご覧のメンバーで、野戦病院として利用された、ヌヌマチガマ、ガラビガマ間の往復をしようという話になりました。私は複数回往復していますが、なかなか順路を覚えきれません。壕内があまりに複雑怪奇であるからなのですが、今回も冒険心を持って取り組んでみたいと思います。それではレッツラゴー。(^o^)

遺骨収集の様子16

さあ入っていきましょう。最初は少し狭いので身体をかがめて入ることになります。

遺骨収集の様子17

鍾乳石の一つです。珍しい形です。水が滴り落ちていましたから、今なお成長を続けているのでしょうね。鍾乳石は本当にいろんな形があります。

遺骨収集の様子18

最初の広い空間です。今年はいつになく雨が多いのでしょうか。床面がとてもぬかるんで歩きにくいです。沖縄戦当時もこんな床面では、病院壕とは言え、看護もままならなかったでしょうね。

遺骨収集の様子19

急な上り坂になりました。壕に入ってからまだ100メートルは過ぎていないと思われますから、この坂を重症患者を運び上げたのでしょうか~。身体を動かせない人の介護をやった経験がある方なら、この坂道を、身体を動かせない重症患者を運び上げる事が、如何に困難な作業であるかご理解いただけると思われます。しかも照明もほとんど無いような状況下ですよ。本当に当時の看護される方々のご苦労が忍ばれますね。戸板に乗せられた患者さんにしてみても、落っこちないように必死でしがみついていたのかもしれません。

遺骨収集の様子20

またまた広い空間に出ました。天井から木の根が垂れ下がっていますから、以外と地面に近いところに空間があると言えるかもしれません。

遺骨収集の様子21

登ったり降りたり、起伏のある場所が続きます。

遺骨収集の様子22

平らな場所がありました。松永さんの話では、こうした場所に患者さんが寝ていたという話です。重症患者は、一番多い時で5月20日頃千人を超えたという証言があるそうです。この辺りは、地面も濡れていなくて、比較的快適に過ごせる場所ですね。壕内ではこうした比較的快適に過ごせると思われる場所は、思いの外少ないですね。

松永さんの話では、修学旅行平和学習では、見学時間が1時間のケースが多く、往復20分ずつ、解説に20分のパターンが多いそうです。松永さんは修学旅行生と同等レベルの話をして下さったようですが、野戦病院として利用されたこの壕では、ピークの頃は患者さんが千名を越えたといわれています。壕内にワラや草などが持ち込み、比較的平らな部分に敷いて患者さんはその上に寝ていたといいます。

遺骨収集の様子23

また登りがありました。通路も身をかがめないと入れないぐらい狭いですね。

遺骨収集の様子24

ここから落ちたら…。壕内といえども、こうした危険な場所は至る所にあります。

遺骨収集の様子25

お、今度は下り始めましたよ。ガラビガマ側に近づいてきたと言う事ですね。

遺骨収集の様子26

ガラビガマ側に近づくと、ご覧のように下り坂が多くなります。

遺骨収集の様子27

天井が高く、ここもかなり広い空間になっています。この辺りでは時間帯によっては、天井から光が差し込むという話です。

遺骨収集の様子28

ヌヌマチガマ側にかなり近づいて、沖縄戦当時のいろんな構築物も増えて参りました。そのひとつひとつを松永さんが説明して下さいました。

遺骨収集の様子29

かまどですね。沖縄ではサトウキビを煮詰める時に使用する大きな鍋があるので、ご覧のような大きなかまどになったそうです。複数のかまどが設置されていました。ガラビガマ側は水は潤沢にありましたから、その点は楽で合ったと思われます。ただ調理は基本的にヌヌマチガマ側で行われていたそうです。何かアクシデントがあった場合のみ、ガラビガマ側でも調理が行われたという話です。

こうした遺構はロープを張ったりして進入禁止にしても、少しずつ触ったり、石を動かしたりして、年ごとに少しずつ損壊しているという話です。

遺骨収集の様子30

ヌヌマチガマ側に近づいてきました。風を感じますね。

遺骨収集の様子31

ガラビガマ側の開口部が見えてきました。

遺骨収集の様子32

沖縄戦当時はこの窪みから湧き水が出たそうです。学徒隊の生徒らが、ここで包帯などを洗ったという話です。

遺骨収集の様子33

ガラビガマ側出入り口に達しました。ヌヌマチガマから入壕してから、約45分が経過していました。

遺骨収集の様子34

ガラビガマ側には「風葬墓」が複数箇所存在します。沖縄伝統の埋葬方法である風葬墓であるのが明白な場所では、遺骨収集といえども安易に骨を持ち出すのは慎むべきですね。また本来ならば、風葬墓の遺骨が安置してある場には足を踏み入れるのも慎重さが求められるという認識はしておく必要があります。もしどうしても足を踏み入れ調査してみたいという場合は、御霊様にお断りしてから入らせて頂くというのは申すまでもありません。

遺骨収集の様子35

【過去の写真】
この写真は今から5年前の平成21年にヌヌマチガラビ間を往復した際に撮影したものです。沢山散乱しているとても白い風葬骨の中に飴色を下頭骨が五個あるのが見てとれます。一個には銃弾が貫通した穴が開いていましたから、間違いなく沖縄戦戦没者のご遺骨に違いありませんが、当時松永さんの判断で、風葬骨と混在している場合は安易に持ち出してはならないという事でそのままにしてきました。

遺骨収集の様子36

風葬墓の入り口です。開いているので中を見せてもらいましょう。

遺骨収集の様子37

瓶が二つありますね。その間に風葬骨が見えます。

遺骨収集の様子38

ガラビガマ側の出入り口の様子です。左側の石組みは風葬墓です。一切破壊されていないことから、戦後積み上げられたものではないかと思われます。

遺骨収集の様子39

鍾乳石のツララなのでしょうが、凄い形を為ていますね。

遺骨収集の様子40

ちょっと解りにくいかもしれませんが、写真中央にあるのは銃眼です。外側から見ているわけですが、米軍に真っ先に破壊されてしまう構築物のはずですが、こうして無傷で残っているのですね。

遺骨収集の様子41

銃眼から外部の見ているところです。目の前の樹林はほとんど無かったでしょうから、沖縄戦当時どのような風景が見えたのでしょうかね。

ヌヌマチガマ、ガラビガマ間の復路調査

遺骨収集の様子42

写真中央の岩、動物に見えたりして、何か印象的ですね。

遺骨収集の様子43

さあ来た道を帰りましょう。と言いつつ松永さんの話では、少しコースを変えると話していました。

遺骨収集の様子44

右上ライトで照らされている部分が、鍾乳石のツララ部分に針金でランプなどを吊したとされる場所です。

遺骨収集の様子45

アップしてみますと、こんな感じで針金の錆のようなものが、現在も付着してありますね。

遺骨収集の様子46

松永さんが持参した壕の地図ですが、一つの指針にはなり得ますが、全てを表しているとはとても言えない状況ですから、ベテランガイドと同伴でなればこの壕には入ってはいけないと思いますね。痛感するのは、地図よりも実際の方が数段複雑な構造をしていると言えるでしょう。

遺骨収集の様子47

皆さんが、「ここはトイレ跡ではないか」と言っていましたが、本当にそう思えるほど、トイレっぽかったですよ。穴にお尻を向けて…。試した人も居ました。

遺骨収集の様子48

鍾乳石化した岩盤が圧倒的に多いわけですが、ご覧のように、比較的脆いと思われる部分も少なくありません。ガラビガマ側開口部では、大規模な崩落があったのは記憶に新しいですが、壕内移動中にいつ落盤が起こるとも限りません。壕内でのヘルメット着用は必須ですね。

遺骨収集の様子49

コオロギのようなそうで無いような…。少し解りにくいですが、二匹写っていますね。真っ暗な洞窟の中で、何を食べて生きているのでしょうか。

遺骨収集の様子50

凄く巨大なツララですね~。自然の造形とはいえ感動的です。

遺骨収集の様子51

なにやらおどろおどろしい雰囲気になってきましたよ。

遺骨収集の様子52

怖い雰囲気ですし、勾配も急になってきました。慎重に降りましょう。

遺骨収集の様子53

ギョエ~~。怖いですね、一人では絶叫してしまうかも。

遺骨収集の様子54

一段と勾配が険しくなりました。空間も狭いです。

遺骨収集の様子55

ヒョエ~。

遺骨収集の様子56

ここも怖いですね~~。(^^;)

遺骨収集の様子57

やっと広い空間に出ました。冒険もそろそろ終わりかな。

遺骨収集の様子58

ヌヌマチガマ側に近づき、再び沖縄戦当時の生活用品が目につくようになりました。これは石臼ですね。

遺骨収集の様子59

オ~~。出口が見えてきました。何かホッとしますね。

お昼ご飯ですよ (^o^)

遺骨収集の様子60

探検は思いの外疲れるものです。疲れた身体には肉が一番ですね。と言うことで今日は肉ソバにしました。アッ名前は、肉ソバではなく「中身ソバ」でした、なぜそう呼ぶのかは不明です。(笑)

午後はヌヌマチガマで遺骨収集

遺骨収集の様子61

午後は昨日に続き、ヌヌマチガマ出入り口付近で遺骨収集を継続しました。

遺骨収集の様子62

スコップを入れてみて初めて解るのですが、土から昨日よりも大幅に水分を含んでいるようです。ヌヌマチガマ入り口は、奥に進むほど下り勾配ですから、大きなヌヌマチガマ開口部に降った雨は確実にガマ入り口から壕内部へと浸透してくると言う事ですね。

遺骨収集の様子63

ご覧のように鍾乳石のツララ部分が折られています。おそらくこれは戦後の遺骨収集の時に折られたのではなく、沖縄戦の時に中に居る人が怪我をしないようにという事で折られたのだと思います。

遺骨収集の様子64

錆を落とせばまだ使えそうな、状態の良い銃弾が出てきました。誰かが99式とか言ってました。

遺骨収集の様子65

皆さんが思い思いの場所で遺骨収集をしていますが、土中水分が多く粘土のようになっています。昨日とは違う別の場所を掘っているような錯覚を覚えますが、昨日と同じ場所なんですね~。という事で、遺骨収集はさらさらの砂のような所から掘り出す場合と、粘土状の場所から掘り出すのとでは、格段にその成果に差が出てしまうと言う事ですね~。これにより骨片を見つけるのが昨日よりも格段に難しくなっています。

遺骨収集の様子66

書きましたように、土に水分が多く本日は粘土状態になってしまいましたから、たったこれだけの骨片しか見つかりませんでしたが、困難な状況の中でそれぞれよく頑張ったと思いますよ。皆さんお疲れ様でした。パチパチ(^o^)

日中は、第48回金光教沖縄遺骨収集奉仕活動に参加しました。(^o^)

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