平成19年(2007年)沖縄遺骨収集奉仕活動

2月14日(水) 南風原文化センターと南部戦跡慰霊巡拝

私が沖縄滞在時の朝一番にやる事!。それは散歩なんです。沖縄での朝の散歩は欠かさない習慣となっているんですよ。自宅では朝が弱いのでグズグスしているのに、沖縄に来ると朝はシャキッとしちゃうんですね~。

滞在中はいつも5時には起床します。夜明けの遅い沖縄は、まだ真夜中という雰囲気ですよね。でもその時刻であっても外に出てみると、本土では聞けない小鳥の鳴き声が聞こえたりしますし、昼間には感じ得ない沖縄ならでわの人々の動きなどを観察することが出来るのです。

今日は平和学習ガイドの松永氏と共に遺骨があるかもしれないという、民間情報を頼りに遺骨収集を行う予定でしたが、ホテルの玄関を出てみると雨でした~。

雨が降り続いたら調査&遺骨収集は中止となるかも~。とりあえず予定通りホテルで早い朝食を食べ、出発時刻直前に松永氏に電話を入れました。

やはり危険だから中止するという話でしたので、今日はお会いすることも無いと思ったら、あちこち見せたいところがあるからお会いしようと誘って頂きました。ラッキー。

松永氏は平和学習ガイドですから、私などよりもはるかに沖縄戦に関わる情報を持っており、色々と参考となる場所に案内してもらえるようなので、ルンルン気分で待ち合わせ場所となっている、南風原町役場近くにある「南風原文化センター」へと車を走らせました。

南風原文化センターがある南風原町も、日本の守備軍拠点がたくさんありましたし、陸軍病院も首里から移転してきましたから、米軍の激しい攻撃を受けたところでもありますよね。

現在は「黄金森公園」となっていますが、山裾などに当時20カ所~30ヶ所以上の(壕の数は確定できていないそうです)横穴壕が掘られて、それらが縦横に連結しており、陸軍病院として三千人以上の患者を収容出来る態勢となっていたようです。

陸軍病院として本院を南風原国民学校に置き、外科・内科・伝染病科がもうけられ、軍医・看護婦・衛生兵など四百名を越える人たちが看護を続けたといいます。

映画などで広く知られた「ひめゆり学徒隊」も南部撤退までここで看護活動をしていた事が知られていますよね。

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9時過ぎには目的地の南風原文化センターに到着しました。松永氏とは一年ぶりの再会ですが、相変わらずの笑顔で迎えてくれましたよ(^o^)。

しばし雑談をした後、南風原文化センター内にある展示室を案内してくれるというのです。

南風原文化センターは、公民館機能と共に「沖縄戦に関する展示」と「移民に関する展示」、そして「琉球文化に関する展示」などのコーナーがある事が判りました。

玄関にはいると、松永氏はやおら床を指さし「これが何か解りますか?」と質問してきました。

床は小さなタイルが敷き詰められ、白色と焦茶色のタイルの二種類が用いられ、なにやらデザインの為なのか、モザイク模様となっており、その敷き詰められたモザイクタイルが何に見えますかという質問らしい…。

結局何なのか理解できずにいると、松永氏は「沖縄を中心とした東アジアの地図なんですよ」と答えました。

「な~~るほど(^o^)」

私もかつて沖縄を中心にして地図を眺めた事なんて無いよね~。

フィリピンをはじめ東南アジアにこれほど近いのかと驚嘆しました。台湾も目と鼻の先にありますよ。また中国大陸も近いですね~(^o^)。

沖縄は、琉球王朝の時代から東アジア各国との貿易で栄えていたという事が、この地図の上に立つと納得できますね。

米軍は沖縄島を東アジアに睨みをきかす最も最適な場所として、開戦当初から中国などを含めた東アジア攻略の軍事基地を設けるという意思があったと言われていますが、こうして沖縄のポジションから東アジアを俯瞰してみますと、正に東アジアの要石といえるほどの最重要な位置に沖縄があると実感しましたね。

松永氏は続いて「南風原と沖縄戦」と題した沖縄戦の展示コーナーを案内してくれました。

主な展示品はみな黄金森の病院壕から掘り出された遺留品&衛生器具のようですよ。

また、病院壕の内部空間を再現したコーナーもありました。薄暗い壕内の木材などを使用して二段ベットが組まれ、そこに傷病兵が横たわっていたり…。陰湿な雰囲気と劣悪な設備環境がよく理解できました。患者さんはもちろん看護にあたる衛生兵や看護隊の方々もさぞや大変だったと思います。

沖縄戦に関する展示コーナーの次は、移民に関する展示コーナーがありました。私はまったく知らないことでしたが、かなり古くから沖縄では移民が盛んに行われていたようですね。

日本は大正から昭和にかけて国策で海外移民を奨励していたようですが、ここ沖縄では大正時代「ソテツ地獄(飢饉の名前のようです)」の頃本格化したようです。最初は南洋群島が多かったようですが、日本軍の南方へ転進するにつれて東南アジアへの移住が増え、また満州などへの移民も多かったようです。

次のコーナーに進むと、琉球時代の民族の風俗や慣習を取り上げて、絵などを多用して解りやすく解説していました。

絵を多用して解説していましたので良く理解できましたよ。沖縄は琉球時代も含めて、生命誕生から死亡して埋葬されるまで、またその後についても本土とはかなり違った慣習がある事を知りましたね。

さすがに全部いっぺんに覚えられませんでしたが、ユニークな慣習もあることを知っただけでも良かったなと感じました。

南風原文化センター

遺骨収集の様子1

建物前には大きな文字で「南風原文化センター」と書かれていました。被爆二世と書かれた表示がありますが、すぐ横にある木がその二世の木だという話です。

遺骨収集の様子2

「南風原文化センター」の建物の様子です。2009年には移転を予定しているそうです。左隅に寒緋桜が咲いているのが見えます。こちらでは春の萌芽が始まっているのですね。

遺骨収集の様子3

床に描かれたアジアの地図です!写真中央の少し左の白いタイルが沖縄県の位置ですよ。その沖縄県の位置に立つと、沖縄が東アジアの要石であることが良く理解出来ましたね。

遺骨収集の様子4

「南風原と沖縄戦」の展示コーナー入り口です。
細長い鉄の棒は、米軍の高射機関砲と書いてありました。下は空から落とす爆弾かな?。

遺骨収集の様子5

「地雷」と書いてありますよね。地雷の現物を見るのは私も初めてです。奥左は日本軍が使用した手榴弾です。もちろん自決・自爆にも使用しましたね(^^;)。

遺骨収集の様子6

病院壕で使用されたご飯などを炊く釜みたいですね。説明板には「食べ残しが火炎放射器に焼かれている(勢理客壕)」と書かれています。

遺骨収集の様子7

第二外科20号壕から発見された顕微鏡と表示がありました。南風原陸軍病院壕には伝染病棟がありましたから、病名特定などに利用したのかな?。

遺骨収集の様子8

点滴液という表示がありました。これら医薬品は沖縄戦後半ではまったく無くなってしまったという話です。

遺骨収集の様子9

日本軍が使用した防毒ガス器具の濾過する部分です。水筒と同じぐらいの大きさです。日本軍が展開した場所や遺骨があるところでは一緒に見つかるケースが多かったです。

遺骨収集の様子10

南風原陸軍病院壕の内部の様子を再現したものです。傷ついた日本兵が病院壕で傷病を回復し、あるいは多くの兵員が亡くなっていきました…。

遺骨収集の様子11

地図や写真を用いた沖縄戦や戦争前後の南風原の様子などを紹介しています。右端にはいろんな大きさの砲弾が展示されていますね。

遺骨収集の様子12

ここは沖縄県の移民の歴史に関する展示コーナーです。「ソテツ地獄」という苦しい時代や国策移民政策などもあり、沖縄から海外に移住しました。

遺骨収集の様子13

【沖縄の風俗・習慣】生後1年目の子供に、並べた筆・算盤・道具などから好きなものを選ばせて将来の職業などを占ったという事ですよ。 (^^)

遺骨収集の様子14

【沖縄の風俗・習慣】何やら楽しそうですが、男女の交際の場だそうですよ。若い男女が野原などに集まり、三味線を弾いたり歌を歌ったりして出会いの場としたそうです。

遺骨収集の様子15

【沖縄の風俗・習慣】こちらも何やら楽しく飲み食いしていますね。「生年祝」といい生まれ年の十二支にあわせて13祝、25祝、37祝と祝うそうですよ。 (^^)

遺骨収集の様子16

【沖縄の風俗・習慣】死亡という文字がみえます。ここはあの世への道筋が書かれています。「洗骨」という文字が見えます。現在は行われていませんが、「風葬」儀式の一部ですよね。

遺骨収集の様子17

【沖縄の風俗・習慣】説明板が無かったのですが、おそらく仏壇だと思いますね。
本土でも古い建物ではこのような雰囲気の仏壇はあったでしょうね。

遺骨収集の様子18

【沖縄の風俗・習慣】庶民の生活道具を展示しているようですね。飲食の道具や昔のアイロンなども見えますね。遊びの種類なども紹介しています。

遺骨収集の様子19

【沖縄の風俗・習慣】こちらも庶民の生活道具を展示しているようです。昔懐かしい道具や器具などがたくさん陳列されていました。

遺骨収集の様子20

【沖縄の風俗・習慣】ここはいろんな行事などで着用する衣服などを展示しています。いかにも沖縄といった雰囲気の衣装がたくさん並べられていました。

遺骨収集の様子21

【沖縄の風俗・習慣】こちらも行事などで着用する衣服などを展示しています。右側の獅子はハワイから送られたもののようですよ。

いや~~勉強になりましたね(^o^)。

そして松永氏の持つ知識の豊富さにも圧倒されました。

今日は訪ねてきて本当に良かったと感じましたね。遺骨収集だけでなく、やはりたまにはこのような見聞も必要なのだなと感じた次第ですよ(^o^)。

沖縄&琉球の風俗・習慣について、あまりにも一度にたくさんの情報が頭の中に入ってきたので、狭小なる私の脳みそにはすべて整理・収納は出来ませんでしたが、写真で紹介しましたように、本土にはない実にユニークな慣習があったのだという事を知っただけでも、とても豊かな知識を得たと感じました。

「南風原文化センター」での見学を終えると、松永氏は南部戦跡を案内しても良いよと語ってくれました。私も今回いくつかの壕を訪ねる予定でしたから、ラッキーという事で見学を希望する壕をいくつかお伝えしたところ、オッケーという事で案内して下さることになりました。ヤッター(^o^)。

建物の外に出てみると雨もほぼ上がって、見学&巡拝するには問題ない天候になっていましたよ。

南部戦跡の壕などを慰霊巡拝に出発!

県道82号線を南下し国道507号線に入ってから、私たちは富盛にある八重瀬公園を目指しました。

車は坂道を駆け上がり、八重瀬公園内にある山部隊(第24師団)第一野戦病院本部壕(白梅学徒看護隊之壕)を通過して、公園の裏手に進んでいきました。

ここいらあたりは、私もまだ来たことがなかったですね。付近には陸上自衛隊与座分屯基地もあると思います。

更に進んで民家がチラホラ現れてくる場所に出てくると、一軒の住宅らしき建物の横に車を止めました。

なるほど、住宅の横に壕があったのですね。

この地域は八重瀬岳と名がある通り、ちょっとした山並みが続いており、摩文仁の右翼を防衛する軍の前線帯が連なっていた所です。大勢の日本軍将兵が戦死した地域でもありますね。

壕内は全部見通せませんでしたが、かなり広いという印象がありました。

壕の上から爆雷などを投げ込まれ、大勢の将兵がこの壕で亡くなったのでしょうね…。

八重瀬岳裏側にある壕

遺骨収集の様子22

平らな地面にポコッと穴が空いており、そこが壕入り口となっていました。少し下っていくとすぐに壕に入っていくことが出来ました。

遺骨収集の様子23

壕の中は奥まで見通せませんが、かなり広いという印象を受けました。線香などが多く置いてあり、今も尚慰霊に訪れる人があるようです。

再び車を走らせると目の前には、人家や畑が多くある場所に出てきました。沖縄特産のさとうきびなども散在しています。そんな畑の中にひとつの慰霊塔が見えてきました。

かなり広い敷地の一番奥に「萬華之塔」が見えてきました。「萬華之塔」意外にも複数の部隊名が記載された慰霊碑が見うけられますし、個人名の慰霊塔も複数ありました。首里から多くの敗残兵がここいら周辺にやってきて、厳しい戦いの中で死んでいったのですね。

「萬華之塔」は糸満市真壁部落一帯に散在していた将兵の御遺骨一万九千柱あまりが合祀されているようです。昭和26年に建立されましたが、今の慰霊塔は立て替え後の塔のようですね。

ところで最初に建立された慰霊塔の頭の部分には、十字架がかけられていました。私も古い写真でその画像を見た記憶があります。なぜ十字架なのか?。その理由は驚くことに、米軍兵士が頭蓋骨を持ち去ってしまう事に理由があったようです(^^;)。

十字架があれば、米軍兵士も持ち去ることをためらうのではないか…。という事のようですよ。同じ意味で、「ひめゆりの塔」にも最初は十字架がかけられていたという話ですね。

金光教沖縄遺骨収集奉仕に参加した米軍兵士も、頭蓋骨を持ち去ろうとしたという話を聞いています。

米軍兵士は大戦末期戦勝を誇示するために、日本人戦死者の頭蓋骨をさかんに本国の家族や知人に贈ったそうです。

頭蓋骨に電球を入れオブジェとしてリビングに飾ったり、切断して灰皿にしたり、歯をペンダントにして持ち歩いたりという行為が実際に確認されています。

この米軍兵士の蛮行を最初に指摘したのは、フィリピンに派遣されたローマ教皇使節団であったという記録があり、使節団はこの風習を極めて厳しく非難したという話です。

米国はキリスト教の国でありながら「相手国戦死者の頭蓋骨を部屋に飾っておく」という極めて悪質な蛮行は、人道上絶対に許すことの出来ない犯罪だと考えます。

遺骨収集の様子24

道路の両脇にはサトウキビ畑が散在していました。刈り取られたサトウキビが結束されています。トラックで製糖工場に運ばれるのですね。

遺骨収集の様子25

見て下さいこの野菜畑! 2月というのに沖縄はもう春なんですね。レタスがたくさん植えられていました。まもなく結球も始まりそうな雰囲気ですよ。

萬華之塔
遺骨収集の様子26

道路横の木々の茂る林のもとに「萬華之塔」がありました。部隊の慰霊碑などがたくさん建立されていました。

遺骨収集の様子27

真壁部落一帯で戦死した日本軍将兵や部落民一万九千余柱が合祀されています。最初に建立された塔には十字架が架けられていました。

遺骨収集の様子28

「弗(ドル)」という文字が複数見られますよね。戦後日本に返還されるまでは、米国の統治下であり弗が流通していたという訳ですね。 故大沢さんのお母さんが戦死した息子さんのために慰霊に訪れたと言うことでしょうか。

遺骨収集の様子29

金光教の遺骨収集で、驚くことにこの慰霊碑の横で御遺骨が発見されたそうです。まさしく戦場の中に慰霊塔が建てられたのですね。

一家全滅の家

首里からの日本軍の敗走で、南部地域では住民と軍隊とが混在してしまった事により、米軍の砲爆撃が民間人の上にも降り注ぎました。

南部地域では部落毎に激しい艦砲射撃を受け、民家もほとんど焼失してしまいました。と同時に部落民も逃げまどう中で多く死傷し、一家全滅という家族も少なくありませんでした。

国道331号線を車で走っているときに、そんな一家全滅の家の表示を見たという方もいらっしゃるかも知れませんね。

「萬華之塔」の次は、字国吉部落にあるそんな一家全滅の家に案内して頂きました。

以下の写真を参照して頂きたいのですが、一家全滅の家に対しとても心温まる慣習があったのです(^o^)。

一家全滅してしまった家の敷地に案内されました。すでに母屋は無くなっていましたが、敷地内に小さな建物が立っており、その中へと入っていきました。

建物奥には七つの御霊を慰霊していると思われる祭壇がありました。親子含めて七名の御家族が戦死してしまったようです。

これらの祭壇は、戦後60余年経過した今でも、近隣住民によりしっかりと管理されているという話です。

簡素な建物ながら、実際にこの建物内外はキチンと清掃が行き届き、日常的な管理が行われているという印象がありましたね。

 

一家全滅の家
遺骨収集の様子30

沖縄戦で一家が全滅してしまい、住む人のない家の敷地の様子です。
南部地域ではこのような"空き地"をよく見かけますよね。

遺骨収集の様子31

敷地の端に簡素な建物があり、中に亡くなった家族の祭壇が設けられていました。内外共に日常的な管理が為されている印象があります。

遺骨収集の様子32

七名の御家族が全滅してしまったと言うことでしょうか。松永氏と共にしばし手を合わせて、ご冥福をお祈りしました。 m(_ _)m

遺骨収集の様子33

寄進者リストが掲示されていました。ここでも金額は弗(ドル)表示でした。
大勢の善意で慰霊が継続されていることがわかりますよね。戦後60余年経過した今でも、このように慰霊の心が尽くされていることに本当に驚きました。

この部落では、立ち寄った所以外にも一家全滅の家が複数あると、それぞれ通過する毎にここがそうだというように教えて頂きました。

一家全滅の家の慰霊を終え、次は南部地域の壕に案内してくれるという話です。

南部に向けて車を走らせている途中で、米上陸軍司令官バックナー中将が第一海兵師団の戦闘状況視察をしている真壁で、日本軍の砲撃により戦死したという場所を教えてもらいました。

遺骨収集の様子34

沖縄守備軍の敗走が続く中で、意外にもあの丘の付近でバックナー中将は戦死したそうです。

轟(とどろき)の壕

しばらく車を走らせると、観光バスが何台も駐車している場所に到着しました。駐車場は比較的狭いので、前にある道路にも観光バスが停車していました。

バスの乗客はもちろん修学旅行生です。平和学習の一環としてこの伊敷にある「轟(とどろき)の壕」の見学にやって来たという訳です。

壕内外ではヘルメットをつけた学生で、歩行者天国のようにごったがえしていました(^^;)。

この「轟(とどろき)の壕」の名は、早くから知っていましたがなかなか訪れる機会がありませんでしたね~。今回の訪沖で見学しようと決めていましたが、幸いそれに先じて松永氏に案内して頂く機会を得たという訳です。

この壕は、一時沖縄県庁としても機能していましたね。那覇市内から撤退してきた警察警備隊と共に島田知事そして県職員は、この壕で県民のために避難民の誘導や県民の食糧確保という戦場行政を行うため、弾雨の飛び交う山野を駆け回っていたのです。

壕周辺部への激しい砲爆撃の中、6月14日に島田知事は荒井警察部長ら側近と共に、轟壕を離れ摩文仁に向かったとされています。

金光教那覇教会の林先生によれば、摩文仁の東側に位置する具志頭で島田知事を見たという目撃証言があるものの、島田知事の御遺骨はまだ発見されていないし特定もされていないという話です。

島田知事は県民保護に全力を挙げて取り組んだあげく殉職したとして、今でも県民から「島守の神」として尊敬されているという話を聞きました。

島田知事は、本土では誰も手を挙げることのなかった “最後の沖縄県知事” に、大阪府の内政部長の立場から、敢然と赴任したのでした。

沖縄戦戦況の悪化と共に、ここ轟き壕には続々と避難民が入ってきたようです。

そして日本軍敗残兵も十数人逃げ込んできて、壕内部の安全な場所を占有し、住民を脅して食糧を奪ったりしたようです。

6月中旬からは「伊敷轟(とどろき)の壕」も米軍に見つかり、爆雷や黄リン弾を投げ込まれたりと激しく攻撃を受けました。

敗残日本兵は壕にいる避難民が出て行くと、自分たちが壕内に隠れていることがばれてしまうと思い、食糧も窮乏する中で捕虜になる事を禁ずるために壕入り口から外へ出るものは殺すと脅し続けたようです。

米軍は最後には、この壕を埋めてしまうという作戦に出ようとしたようですが、この壕から出てすでに捕虜となっている人が、壕内外の連絡役を務めて生き埋めになることが避けられたという話です。

沖縄戦が始まる前に続々と兵員の補強がありましたが、従軍した将兵は中国大陸特に満州などから転進組も多く、彼らは戦いの続く日々の中で、すでに少なからず人間性を喪失していた可能性もあります。

また首里戦線防衛の激しい戦いの中で、極度の精神疲労者となっても後方に下げられることな、く南部戦線でそのまま戦い続けたケースもあったでしょう。

ごく一部の兵隊の話になるのでしょうが、そういった日本軍将兵が首里撤退と共に敗残兵となり逃げまどうとき、民間人を巻き込んでの不幸な行為が発生してしまったのかもしれません。

私は沖縄戦に関する書籍を40冊以上収集し読破していますが、日本兵の蛮行に多くの紙幅を割いている書籍が少なからずあることに、驚きを隠せないというのが心情です。

轟(とどろき)の壕

遺骨収集の様子35

「轟(とどろき)の壕」の地表面から階段を下りていくアプローチ部分の様子です。30メートルほど下っていくと、狭い壕口に入っていくことになります。

遺骨収集の様子36

「轟(とどろき)の壕」内部の様子ですが奥深くどこまでも入って行けそうな雰囲気ですよ。石で出来たすり鉢でしょうか。玄米をついたのかもしれませんね。

遺骨収集の様子37

通路部分はぬかるんでいる場所も多く、長靴で入るのが理想的でした。壕内には小川が流れており飲料水は問題なく確保できたようです。

糸洲の壕

「轟(とどろき)の壕」から国道331号線を車で5分も走らない所に「糸洲の壕(ウッカーガマ)」はありました。

331号線から脇道に入る場所には、大きな看板が掲示されており「山部隊第二野戦病院小池隊長最後の地/積徳高女学徒看護隊(糸洲の壕)」と書かれていました。

轟の壕が山裾の林の中にあるのと対照的に、こちらはいろんな野菜が栽培されている畑の混在するところの一角に壕入り口がありましたね。

この壕は地元部落民により10・10空襲以降から避難壕として使われていましたが、日本軍の前線後退と共に野戦病院壕として使うようになり、地元避難民は追い出されてしまったという話です。

第24師団第二野戦病院糸洲分院壕として5月下旬から使われました。部隊移動に伴い学徒動員された私立積徳高等女学校の学徒看護隊員も同時に入壕したようです。

結局この糸洲壕も米軍による馬乗り攻撃を受け、爆雷を投げ込まれるなど激しく攻撃されたようです。入り口からは火炎放射を浴びたらガス弾が投げ込まれたようですが、奥が深いので多くの人が生存できたようです。

記録によりますと6月26日に病院としての解散命令を発した小池隊長は「決して死んではいけない。必ず生きて家族の元へ帰りなさい……」と語ったと言われています。

この壕では学徒看護隊員の犠牲者は無かったようですよ(^o^)。

壕内に降りてみると、かなりぬかるんでいるのが印象的です。小川も流れており、飲料水には不自由しなかったと思われます。

糸洲の壕

遺骨収集の様子38

糸洲を通る国道331号線沿いに掲示されている看板です。この壕にも動員された学徒看護隊員が居たようですね。

遺骨収集の様子39

写真奥の柵が国道ですから、国道から入ってすぐの所にありました。周辺部は畑となっており、見学者が多いことから農家との間でトラブルもあるようですね。 (^^;)

遺骨収集の様子40

狭い通路を降りていくと少し広い場所がありました。まだ光が射しています。修学旅行生でしょうか。生徒さんがガイドの話に耳を傾けていました。

遺骨収集の様子41

。床面はかなりぬかるんでいいますね(^^;)。長靴で入ることをお勧めします。水量も豊富な小川が流れています。農家はここから農業用水を取水しているようです

遺骨収集の様子42

水上の方向を撮影しました。人が通る道は無いようです。それにしても凄い水量の水が流れています。

ヌヌマチガマ

隣接した二つの有名な壕の見学を終えると、今度は少し離れた具志頭村を目指すことになりました。

具志頭村役場を通過し少し進んだところから、国道331号線を脇道に入ります。具志頭村運動公園を過ぎるとすぐに目指す「ヌヌマチガマ」に到着しました。

「ヌヌマチガマ」入り口は、道路からすぐ横30メートルほどの所にありました。ただ大型のバスなどが駐車するような広い駐車場は無く、観光バスでのツアーにはかなり厳しいかもしれません。

壕の周りは畑や民家が散在していますね。

この壕は入り口が二つあり、「ヌヌマチガマ」は西側の名称であり、東側は「ガラビガマ」と呼ぶそうです。

東側の「ガラビガマ」は2002年9月に閉鎖されてしまったようです。

表面上の理由は「落盤の危険性があるから」という事のようですが、伝え聞く情報によれば、基本的に壕に隣接する農家とのトラブルがあるという話です。

「糸洲の壕」もそうであったように、畑に囲まれて壕がありましたが、そんなところに観光バスがやってきて生徒が何十人も並んで出たり入ったり…。

農家の気持ちになってみれば、その弊害はよく理解できるところです。他の壕についても同様ですが、隣接する地域の方々の利害に出来る限り配慮しないと、壕見学そのものが立ちゆかなくなるおそれもありますから、見学する立場の人たちは単なる観光地という捉え方でなく、地域の人たちが住んでいるところに入っていくという気配りが求められているのかもしれませんね。

「ガラビガマ」側にも廻ってみましたが、畑の横の細いあぜ道のような所が出入り口となっていますので、これでは……。と私も思いました(^^;)。

話を戻します(^^;)

「ヌヌマチガマ」入り口横には「白梅学徒看護隊之壕」という碑が立っていました。

この壕は八重瀬岳にある第24師団第一野戦病院壕の分室として使われ、白梅学徒看護隊員も配属されていました。

壕の解説図を見る限り、かなり奥深く一人だと迷子になってしまうのではないかと感ずるほど、迷路のようになっているみたいですよ。

野戦病院壕として使われていたとき、内部の移動では電気は無いのでローソクなどを灯して移動したようです。

6月3日湊川方面から米軍が迫ってきているとの報により、分院は解散となり八重瀬岳の本部に合流することになったそうですが、その時に一人で歩くことの出来ない重傷の患者は手榴弾や青酸カリが配られ自決を迫られたようです。

この壕で亡くなった傷病兵は500名以上と言われていますので、その多くが自決したという事でしょうか…。

壕内はかなりぬかるんでいます。他の壕もそうでしたが南部戦跡の壕見学時は長靴は欠かせないグッズですね。来年は私も長靴を車に一足入れておくことにしました。

ヌヌマチガマ

遺骨収集の様子43

第24師団第一野戦病院壕分室として使われ、白梅学徒看護隊員も看護活動してました。壕入り口は狭いですが、壕内部は東西で500メートルの長さがあるようです。

遺骨収集の様子44

壕に降りるところはかなり急傾斜となっていますので注意が必要です。雨が降ったりすると、昇降はかなり危険ではないかと感じましたよ。 (^^;)

遺骨収集の様子45

壕内部の様子です。長さ500メートルの壕ですからね、まだまだ先は長そうですよ。

遺骨収集の様子46

道はしっかりと出来ていますが、かなりアップダウンがあったり、ぬかるんでいるので、歩行には慎重さが求められますね。

遺骨収集の様子47

進んでも進んでも先は長いようなので、100メートルほど前進し引き返しました。

遺骨収集の様子48

東側の「ガラビガマ」入り口は、02年にご覧のように立ち入り禁止となりました。地主さんの気持ちもよく理解できるところです。

遺骨収集の様子49

村当局が設けた「ガラビガマ」の案内看板です。壕の長さは東西500メートル。巨大さがこの図からも解りますよね。

いや~~沢山の壕を一気に廻ることが出来ましたよ。

松永氏は、轟の壕からはじまって、私が見学&巡拝したいと予定していた壕を全部案内してくれました。もちろん全て詳細な解説付きでした(^o^)。

一人では探しながら移動するために、こんなにスムーズに見学することは不可能だったでしょう。

本当に感謝しきれないほど感謝の気持ちが沸いてきました。

敗走する日本軍将兵と避難住民が混在してしまった南部においては、米軍の激しい砲爆撃による死傷と共に、日本軍敗走兵による悲劇も多く発生してしまったことが良く理解できました…。

首里の陥落以降は指揮系統の混乱から、部隊の再編成もままならない状況の中、敗残兵として一人あるいは複数人の集団となって南部に逃れた逃避行の中で、共に戦う同胞であるはずの沖縄県民が避難していた壕や洞窟から “軍の戦闘の継続” を理由に、追い出してしまう事例が頻発したようです。

また、米軍は「音」を収集する最新兵器を持っているというデマが兵士の間に広まり、兵士と避難民が混在している壕内では、子供や赤ちゃんの泣き声に対し神経質となり、殺害を指示したり自ら殺害してしまうケースもあったようです…。

沖縄特根司令官だった大田実少将の自決前に発信した海軍次官宛ての電文は有名ですが、そこには沖縄県民の軍への献身ぶりがあますことなく表記されていますよね。電文の全文を現地海軍司令部壕や本などで読んだ方も多いと思います。

沖縄県民は、陣地構築や地下道などの穴掘りなどの労働力の提供、耕作していた土地を軍用地として提供したり、農産物・家畜などの供出要求に文字通り最大限答えてきたのですが、軍首脳の沖縄県民への対応は、決して暖かなものではなかったようです。

日本軍の現地司令部のそうした姿勢と対応が、末端の兵士まで浸透していったのではないでしょうか…。

沖縄は元々移民が盛んに奨励されたこともあり、敵国である米国やハワイ、オーストラリアなどに親族が居たり、移民帰りの人も多かったりで、日本軍には寝返るかもしれないとして「防諜に厳に注意すべき」という雰囲気が日本軍将兵全般にありましたし、言葉そのものがかなり違っているというのも軍の疑心暗鬼を増長させてしまったようです。

言葉が通じないが故に「スパイではないか」という疑心暗鬼は、米国によるベトナム戦争の時も、米国兵は神出鬼没のゲリラに対する恐怖心から、守るべき存在は南ベトナムの人たちなのに、自分たちには理解できない言葉を話す南ベトナムの人たちを敵の協力者ではないかと疑い、銃などで殺害する事件が多発しました。

いずれにしても、戦争の持つ本質的不条理さが、敗残兵というのっぴきならない逃避行の中で、善悪の理性を完全に失わせ、獣欲をさらす兵士が戦野を俳諧した事実を私達は直視しなければなりません。

圧倒的な火力を持つ米軍に対し、私達児孫を守るために尊い命を投げ打って戦い抜いてくれた、より多くの勇士達の尊厳を矮小化するのは避けなければなりませんが、一部敗残兵の無慈悲な悪行によって、「軍隊とは体を張って国民を守るもの」という軍隊の本源的存在理由が大きく傷つき、沖縄の人達の持つ忘れがたい強烈な不信感と共に、日本国民の意識の中に広く「軍事アレルギー」として定着してしまった事を、私達は重く受け止めなければならないでしょう。

そして戦後60有余年経過しているというのに、軍事作戦を展開するなど有事の際に軍隊と一般市民との関係をどのように位置づけるか、それらの議論がほとんど為されていない事実があります。

サイパン陥落時や沖縄戦による軍民混在の戦場の中で、一般市民の犠牲を強いられた過去の貴重なる経験を、困難ではあっても将来に生かす努力無くして国防を語っても、なにより国民の支持は得られないのではないでしょうか。

糸満市や具志頭村での壕内巡拝を終え、車は再び南風原文化センターへと帰って参りました。

当初予定していた、御遺骨があるかもしれないという市民の情報提供に関わる所は、後日一緒に訪ねてみることになりました。

松永氏はこれから仕事があるとの事で、これでお別れとなります。

今日一日本当に多くの戦跡を巡ってきましたね。南部戦跡が今まで以上に身近に感ずるようになりました。

松永氏に丁重に感謝の意を述べて、私も南風原文化センターを後にしました。

私もこのまま那覇市内のホテルに戻っても、夕食にはまだまだ早いし、せっかく南風原町に来ているのだから、黄金森公園の近くにある「南風原陸軍病院壕跡」を訪ねてみることにしました。

南風原文化センターから車で5分ほどで、駐車場に到着しました。目の前には小高い山があり、雰囲気的な山裾に進めば目的の壕跡はあるなと直感で感じました。

幅は狭いですが一応舗装された小道を山の方向に少しずつ登りながら5分ほど歩いて進むと、目指す「南風原陸軍病院壕跡」がありました。

病院壕跡とはいっても、この黄金森一帯に掘られた壕は20本以上あったと言われています。

資料によっては30本はあったという記録もありますが、実際にどれくらいの壕が掘られていたのかは、現時点でも確定できていないようです。

激しい砲爆撃で吹き飛ばされたり落盤して崩れ去ったり、ブルトーザーで生き埋めにされてしまった壕もあるでしょう。

目の前には「南風原陸軍病院壕跡」という碑が建立されていますが、数多くの壕のなかでどの様な位置づけがされたものなのかは、残念ながら把握できませんが、碑の裏手には埋め戻されたと思われる壕入り口が見えました。

壕跡の解説板を見ますと、私が立っている場所は第一外科壕群のようです。すぐ近くに第二外科壕群があり、現在の南風原村役場があるあたりに第三外科壕群と呼ばれているようです。

昭和19年の10月10日の大空襲で那覇市内は壊滅し、それに伴い第32軍直属の沖縄陸軍病院は南風原に移動しました。当初は南風原国民学校に入りましたが、米軍上陸と共に空襲も激しくなってきたので、この黄金森一帯の掘られた壕に移動したようです。

沖縄師範学校女子部・県立第一高等女学校の生徒および引率教員合わせて237名が看護補助などで戦時動員され、彼女らが戦後「ひめゆり学徒隊」として注目されるようになりました。

黄金森一帯に掘り抜かれた壕内は、残材を寄せ集めて二段ベットが設けられていました。戦況悪化に伴い傷病兵は足の踏み場もないほど増える一方なのに医薬品はまったく不足し、病院とは名ばかりの粗末な治療態勢により、多くの傷病兵がここで亡くなっていきました。

「ひめゆり学徒隊」の生徒達も、負傷兵の包帯などの取り替え、糞尿の処理、死体の埋葬と壕内外での必死の看護を続けました。

壕の外は生死を分ける極めて危険な情勢下、彼女らは飯上げ(兵隊や患者の食事分を外部の炊事部隊から持ち帰ること)や水くみもやっていたようです。

「南風原陸軍病院壕跡」での悲劇は、戦況悪化に伴う南部撤退に際し、自分で歩くことの出来ない重症患者は、青酸カリが入ったミルクを飲まされ、自決を強要されたという話ですよね。

これはもちろん南部地域の他の病院壕でも、退去時に繰り広げられた悲劇でもあります…。

南風原陸軍病院壕

遺骨収集の様子50

駐車場から少し歩くとこのような林の中の小道となります。南部へ撤退する頃には、爆撃でほとんどの木はなぎ倒され禿げ山となってしまったようです。断定はできませんが、もしかしたらこの道は「飯上げ」に使った道の可能性があります。

遺骨収集の様子51

山の中腹に南風原陸軍病院壕はありました。この日は風が強く、写真でお解りのように木々の葉がかなり揺さぶられています。

遺骨収集の様子52

沖縄陸軍病院の解説板です。黄金森の航空写真がありますが、広い範囲におよそ30もの壕が掘られたのですね。

遺骨収集の様子53

南風原町が設けた壕の前にある解説板です。壕は沖縄戦の生き証人であるとして、町は全国で初めて文化財に指定したとあります。

遺骨収集の様子54

病院壕の前に設けられた石碑です。供えられて間もない千羽鶴と花束が添えられていました…。

遺骨収集の様子55

写真中央の陰になっている部分が壕入り口です。壕としての穴はほとんど無く、落盤などの危険性からか埋め戻されているようです。

遺骨収集の様子56

黄金森の一番標高の高い所に登ろうとしているところです。森はかなり深いです。写真は露出補正で明るくしていますが、夕方になり森の中はかなり暗くなってきた事もあり、風も音を立てて通り過ぎていくし、心なしか不安な心理に…。

遺骨収集の様子57

黄金森の山頂付近です。埋葬場所が特定できた方もいらっしゃるのですね。手を合わせてご冥福をお祈りしてから、黄金森の山を下りました。

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