平成18年(2006年)沖縄遺骨収集奉仕活動

2月16日(木) 摩文仁・糸満等で終日情報収集

那覇教会の林先生には前日の夜に、昨日の経過と無事であった旨の報告をしましたが、昨日実施した単独行の様子や問題点などを更に詳しく報告しようと、再度那覇教会を訪ねました。

摩文仁岳南斜面は、崖上から見るとそれほど広くはありませんが、ジャングルにはいると桁違いにそれは広大になります。

私も昨日は壕内に入る場合は、必ずリュックサックは入り口に降ろしておき、10メートルの長さのロープを入り口から伸ばしておき、遭難時に発見しやすくしておきましたが、結果としてはそれでもまだ不十分である事を痛感しました。

また自分の居場所を常に把握できるようにするには、何らかの表示をして前進しないと、元の場所に戻ってこれなくなるのを、どうやって防いだらよいかというのが課題として浮かび上がった等々…。これらを率直に林先生にお話ししました。

体もかなり疲労しているので、予定を変更して今日はジャングルには入らない事にしました。

「南部地域で沖縄戦を想起させる損傷した建物などがまだ現存する場所を御存知でしたら教えて下さい」と申し出たら、二カ所ほど行ってみたらどうですか勧められました。

一方、遺骨があるかもしれないという民間情報が林先生の元へ寄せられており、富盛にある八重瀬公園前の道路脇にあるお店のご主人から電話があったと言うことで、南部に向かう途上私が情報の収集をしてくる事になりました。

第24師団第一野戦病院壕

富盛にはお店が数軒しかありませんでしたので、調査は意外と短時間で終えることが出来ました。

閉店している店を除き、開店しているお店は全店訪ねて聞いて回りましたが、全て「電話してない」と言われてしまいました~(^^;)。

諦めきれないので、念のため近くにあった町役場の分室も訪ねて聞いてみましたが、残念ながらそのような情報は届いてないという話でした。

林先生に電話して、情報の発信元を突き止められなかったと伝え、これから林先生に教えて頂いた場所に向かう旨伝えました。

富盛に来ますと、八重瀬岳がもう目の前に展開していますよね。

現在八重瀬公園となっている園内には、第24師団第一野戦病院壕があったところで、県立第二高等女学校の生徒が白梅学徒看護隊として従軍した所でもあります。

かなり近いところに来たということで、壕内に立ち入ってみることにしました。

この壕は摩文仁に向かう途上にあることから、私はかなりの頻度で訪れては花を手向けたりしています。

この壕は二つの出入り口があり、全長100メートルよりは短い長さの壕です。掘って作られた壕のようで、高さは立って歩けるほどゆったり作られていました。

懐中電灯で照らしながら、当時の病院壕としての厳しい状況を想像しながら、ゆっくりと奥の方に入っていきました。

戦況の悪化と共に、傷病兵は激増し、壕内に入りきれない兵隊達は外に置かれたままとなっていたといいます。

ここで多くの傷病兵が生活し、また多くの人たちが故郷に帰ることも叶わず亡くなっていった…。
多くの病院壕で、逃避行の中重症患者は置き去りにされたり、青酸カリを強制的に飲まされたりと…。

第24師団第一野戦病院壕

遺骨収集の様子1

公園入口には病院壕の存在を示す石碑が建っています。

遺骨収集の様子2

沖縄の寒緋桜が満開でした。沖縄での桜の開花は北から南に進むのだとか。

遺骨収集の様子3

第一野戦病院壕出入り口です(出入り口は二カ所あります)。

遺骨収集の様子4

。中にはいるとすぐに左右の二手に分かれます。壕内は問題なく人が立って歩ける高さです。

遺骨収集の様子5

右側はすぐに行き止まりとなりますが、この空間は手術室だったようです。

遺骨収集の様子6

反対側の出入り口に通じる通路です。

遺骨収集の様子7

反対側の出入り口の様子です。こちらも人間が立って出入りできます。

ここ八重瀬岳のとなりには富盛の高地もあり、山上には『富盛の石彫大獅子』が設置されています。高さ1メートル程の大獅子ですが、沖縄戦では富盛高地に向けての激しい砲爆撃を耐え抜き、現在もしっかりとその姿を留めています。

今回は時間もないことから立ち寄らず先に進むことにしました。

糸満市真壁の小学校校門を探す

つぎの目標は、林先生に紹介してもらった糸満市真壁にある “小学校の校門” を探しに、真壁集落に向かうことにしました。

島尻に近い真壁も他の村落と同じように激しい砲爆撃を受けた地区です。学校の建物そのものは爆撃で消滅しましたが、校門だけは被弾を多数受けたものの、現存しているはずだという事で、これから探してみようという訳ですね。

ただ、数年前には現存するという話だったので、現在どうなっているかは不明だと林先生はおっしゃっていました。

目標地点である真壁の農協は容易に発見できました。農協横に車を止めて、さっそく村落の中を歩き始めてみました。そして行き交う地元の人に小学校の所在を尋ねてみたのです。

驚いたのはその説明が親切なこと~。少し歩き出して説明してくれたり、家族のものに問い合わせたりと…。いつもの事ではありますが、本当に沖縄の人々の穏やかで親切な対応には本当に感嘆してしまいます。

あちこち聞いて歩いているうちに、学校はすでに廃校となり、その敷地は何区画かに分割され住宅地として転売されたようです。

そしてついについに学校跡地を突き止めましたが、その場所には何軒かの住宅が立ち並んでいました~。

私は意を決して、学校敷地内と思われる一軒の住宅のドアホンを押してみました。中から中年のご主人が出てきたので、私は「小学校の校門は現存していますか?」と訊ねました。

ご主人の話によると、数年前まではあったが、自宅駐車場を作る際に邪魔だったので、撤去したという話でした~。

門柱は確かに被弾していたと、ご主人は語ってくれました。本当に残念でした。もう少し早ければ見ることが出来たのに~。

このように沖縄戦を想起させる建造物や場所も、年々消滅しているのでしょうね。

ところで、ご自宅の庭には立派な畑がありました。私も家庭菜園をやっている事から、つい野菜の話を切り出してしまいました。

そしたら、ご主人もかなり野菜栽培がお気に入りのようで、話は弾み1時間ぐらい野菜栽培の話をしたでしょうか。

ご主人ご自慢の畑の中を案内してもらい、沖縄での野菜栽培の特徴や苦労話などを聞くことが出来ました。

最近流行の「直売所」に出荷する為に収穫してあったフルーツトマトを試食させてもらいました。イヤ~結構な味でしたよ。今は2月ではありますが、間違いなく甘く美味しいトマトでした。

沖縄の風景

遺骨収集の様子8

真壁集落に向かう途上では畑が広がり、レタスもご覧のようにこんなに生長しています。

遺骨収集の様子9

関東では「追越車線」が一般的でしょうか。「ゆずり車線」とは素敵な表現ですね。

遺骨収集の様子10

亀の形をしている事から亀甲墓と呼ばれるようになったそうです。人間の母体をかたどったともいわれ「人は死後、母の胎内に帰る」ともいわれています。

遺骨収集の様子11

あちこちの庭先に「ブーゲンビレア」の花が咲き誇っていました。

遺骨収集の様子12

家の前には目隠しと風よけを兼ねて沖縄独特の石塀があります。

遺骨収集の様子13

石塀の切れ間に敷地入り口がありました。お邪魔して門柱の件を訪ねてみました。

遺骨収集の様子14

沖縄では「石敢當(イシガントウ)」と呼ばれる碑があちこちで見られます。魂(マブイ)の力が災いをもたらすという信仰から、それを遮るために設置します。

遺骨収集の様子15

お住まいがある庭には、ご覧のように春たけなわという感じで草花が沢山咲き誇っていました。

遺骨収集の様子16

昨年10月に定植とのこと。茎の長さはすでに人間の身長を超えていました。今年初めてトマト栽培に挑戦してみたとか!初めてとは思えない素晴らしい成長ぶりです。

遺骨収集の様子17

ニンニク畑の端部に、鳥が種を運んだのか勝手にパパイアの木が生えてきたそうです。四季を通じて結実するパパイアを、沖縄の人は野菜として重用するそうです。

沖縄木造古民家での昼食

残念ながら小学校校門は、取り壊しとなっていましたが、これにめげず次の目的地である島尻の荒崎海岸を目指す事にしました。ただ時刻も12時を過ぎていることから、どこかで昼食を食べたいなと思いながら駐車場を目指していたら、「食事処」の看板が目に入ってきたので、車に戻る前に寄って食べていこうと思いました。

住宅街の中ですが、しばらく歩いていると目的の食べ物屋さんの前に到着しました。真壁の住宅街の中にあるそのお店は、およそお店らしくなく(^^;)、最初ホントかな~と思える雰囲気でした。だが、敷地内に入ってみると何人か客待ちが居るし、開け放たれた窓辺からはお客様の姿が見えました。

一瞬ためらいがありましたが、なんと一般の民家を改造して食事を提供するお店にしているようです。沖縄独特の木造家屋といえば、何となく一定のイメージが湧いてきますよね。お店に靴を脱いで上がり、「沖縄ソバ」の注文をした後に店員に聞いたところ、なんと115~6年は経過しているのではないかというお話でした。

まさに店内は木造古民家そのものであり、こうして中にたたずんで何だか沖縄県民になったような気分です。(笑)

沖縄ソバをいただきながら、気分もよろしく楽しい一時を過ごさせて居だたきました。

茶所『真壁ちなー』

遺骨収集の様子18

おそらく"ウチナンチュー"のチナーの部分だけ店名にしたという事でしょうか。

遺骨収集の様子19

すでに115~6年経過しているという沖縄木造民家です。

遺骨収集の様子20

沖縄ソバです。本当に美味しかったですよ~。

遺骨収集の様子21

高さは4メートルぐらいはあったでしょうか。暖かいとブーゲンビレアは巨木になるんですね。

遺骨収集の様子22

今は使われていませんが、人間の便所と豚小屋だったところです。つまりあの~わかりやすく言えば、人間の排泄物を豚ちゃんが食べて育つ…のかな。

遺骨収集の様子23

鋳型にはめられ釉薬を塗られたシーサーも悪くないですが、シーサーはもともと左官職人による素人芸の漆喰細工が一般的だったといいます。それでは、自由奔放な手作りシーサー四体をとくとご覧下さいね。

遺骨収集の様子24

遺骨収集の様子25

遺骨収集の様子26

県道7号線を南下して、国道331号線に出てしばらく走ると、『ひめゆりの塔』で有名な伊原に到着しました。この国道沿いにある『ひめゆりの塔』の敷地の横には、ドライブイン「でいご」というお店があります。金光教の沖縄遺骨収集奉仕でも、何年かこのお店の奥の駐車場部分に本部テントを設置させて頂いて、遺骨収集を行っていました。

また、この駐車場奥には『梯梧(デイゴ)の塔』(糸満市字伊原/昭和49年6月建立) があるのです。沖縄戦で戦死した私立の沖縄昭和高等女学校の生徒60人が祀られています。梯梧学徒隊は第六二師団(石5325部隊)に所属し従軍しました。

戦線の南下に伴い南部に移動したが、糸満市字伊原の自然壕で病院解散命令が下された以降、多くの犠牲者を出してしまったのです。ひめゆり学徒隊と同じ女学生を祀ったものでありながら、残念なことにこちらの塔はほとんど観光客は訪れません。国道331号線を通ったときには、私も出来る限り『梯梧の塔』には立ち寄るようにしています。

『梯梧の塔』で手を合わせ、歩きながら駐車場を通っていたら、たまたま社長さんがいらっしゃったので、しばしお話をしました。社長は「梯梧の塔の案内看板が出来ましたよ」と教えてくれました。予てから『梯梧の塔』の所在が分かるように、何らかの看板を出した方がよいですよねと話題にしていました。

そしてついに看板がお目見えし、よく見ると駐車場入り口端部に高さ2メートル程の看板が設けられていました。おそらく同窓会などが設置したのだと思います。これで少しでも、『梯梧の塔』に参拝する方が増えてくれれば嬉しいですよね。

ドライブイン「でいご」

遺骨収集の様子27

ドライブイン「でいご」の様子です。金光教遺骨収集でも大変お世話になりました。

荒崎海岸で『ひめゆり学徒散華の跡』の碑を探す

国道331号線から県道223号線に入り、魂魄の塔前を通り平和創造の森公園内を通過して、荒崎海岸を目指して車を進めました。舗装路も無くなって砂利道に入ってきて、かなり心細い道があるのみの状況となってまいりました。目の前には荒涼たる海岸線が連なり、砂利道も土の道になり、本当にこんなところに慰霊碑があるのかなと、心配になってきましたね~。

一般的には「ひめゆり学徒隊」は、第三外科壕での悲劇がよく知られているところですが、解散命令後に一部の学徒隊隊員は更に南下してこの荒崎海岸に逃げてきました。しかし、海岸線に来ても海上の米艦隊の激しい砲爆撃にさらされ進退窮まってしまったのです。こうしてひめゆり学徒隊生徒15名と教師1名は、更なる逃げ場を失い小さな壕内で手榴弾による集団自決を遂げたのでした。

林先生の話や資料などによると、荒崎海岸の何処かに「ひめゆり学徒散華の跡」という碑があり、碑文には「巖かげに ひとすじの黒髪乙女らの 自決の地なり 波もとどろに」
と書かれているそうです。

私も行きつ戻りつ、時間をかけてあちこちと探し回りました。それでも探しきれず、人に尋ねようとしても周辺部には民家も人影もありません。かなりの距離海岸線を移動しましたし、車を降りたり歩いたり調査を進めましたが、結局断念せざるを得ませんでした…。

荒崎海岸

遺骨収集の様子28

荒涼たる荒崎海岸の海岸線です。海上からは米艦艇が艦砲を激しく撃ち込んできたのでしょうか。ひめゆり学徒隊生徒15名と教師1名も、この海岸線の何処かで集団自決したのですね。

遺骨収集の様子29

荒崎海岸から摩文仁岳を望む。沖縄戦の後この摩文仁に至る海岸線には御遺骨がつながるようにたくさんあったそうです。

摩文仁で慰霊塔巡りをしました

「ひめゆり学徒散華の跡」の碑をどうしても探しきれず、ガックリしながら荒崎海岸を後にしました。車に乗り込み、元来た道を逆戻りに進み、県道223号線に出てしばらく走ると、『魂魄の塔』があるので手を合わせて行く事にしました。

この『魂魄の塔』は、1946年2月に沖縄で住民により最初に建てられた慰霊塔だといわれています。また戦争犠牲者35,000余柱を祀る大規模な慰霊塔です。

実際に目の前にある慰霊塔はかなり素朴で貧弱ですが、終戦直後で資材もなく人々が石を寄せ集めて、米軍払い下げの使い古したベッドの鉄骨などの資材を用いて何とか作り上げた慰霊塔ということで、手作り的な雰囲気と共に当時のご苦労も、その姿から偲ばれるというものです。

『魂魄の塔』横には、ささやかなお店があり、献花する花束などを売っています。『ひめゆりの塔』と平和祈念公園内の売店以外で、献花の花束を売っているところは、ここだけではないかと思います。

それだけに、この『魂魄の塔』には、今でも多くの方々が参拝に訪れるのかもしれませんね。

林先生にお聞きした場所はすべて調査し終えましたし、時間も3時過ぎでまだ明るいことから、摩文仁の『南冥之塔』などに行ってみることにしました。

国道331号線を平和祈念公園に向けて走ります。摩文仁岳西端の駐車場に車を止めて、石段を海岸に向けて下りていきました。

この『健児之塔』に至る階段も、少し前までは献花の花束を売るお店がたくさん並んでいましたよね。今ではすっかり人影もなく、人通りも絶えて久しい雰囲気ですね。少し悲しいですよね。

70メートル程階段を下ってから、横道にそれてしばらく歩くと『南冥の塔』が見えてきます。資料によれば、ある米兵が日本兵掃討作戦中に、この『南冥の塔』付近で死んだ母親にすがって泣く2、3歳の女の子に目を奪われたという。「このままではこの子は死んでしまう。助けたい…」と思いつつも、米兵はその場を通り過ぎていったという。

戦争も終わり9年後の1954年秋、その米兵は沖縄にやってきて、少女が居たと思われるこの付近で遺骨収集を開始したといいます。付近の住民も手伝って、12,000余柱もの御遺骨を『南冥の塔』と命名して墓標を建てたといいます。その元米兵は日系二世で「タツオ・ヤマモト」という名だそうです。

塔の横には、少し大きめの壕などもあり、ここいら一帯では想像も出来ない程多くの人々が殺傷されたと思われます。実際に金光教の遺骨収集でも『南冥の塔』周辺部で、大量の御遺骨を発見していますね。

『南冥の塔』にしばしたたずんでいると、見たことがある人がこちらの歩いてきました。ハテナとよく考えてみると、先ほど慰霊に立ち寄った『魂魄の塔』でも、見かけた若者でした。二度見かけたことから、とても他人とは思えず、こちらから声を掛けてみました。

話をしてみると、今春卒業予定の大学生だそうで、一人で南部戦跡巡りをしているのだとか!エライ!。あまり深く理由を探ることも出来ませんが、南部戦跡を巡っているという事だけで、一定の慰霊のお気持ちがある事は明らかですよね。ここで出会ったのも何かの縁。「帰り道沿いに慰霊塔がありますので一緒に歩いてみませんか」と誘いました。

『健児の塔』を案内し、巨岩の下に降りていって、壕の様子や御遺骨を見ることの出来る場所を案内しました。この壕からは、地表に持ち出すのも大変だと思われるほどの、おびただしい数の御遺骨が発見され、結局壕の中に納骨堂が設けられたのでした。その納骨堂内部が見える場所があるので、そこから中を見てもらい御遺骨の様子を観察してもらいました。

私も久しぶりに見ましたが、御遺骨の量がかなり少なくなっています。やはり、年月の経過と共に熔けて無くなっているのですね。雨に当たらない場所の御遺骨でさえ、このように消えていくのですから、雨露にあたる場所の御遺骨はすでに消滅しているかもしれませんね…。

摩文仁頂上へと至る階段を上っていくと、6月23日未明に第32軍牛島中将と長参謀長が自決を遂げた壕が現れます。6月13日にすでに海軍部隊は玉砕しており、この23日をもって第32軍の組織的戦闘は終結しました。

鉄柵で仕切られた壕入り口に立ち、懐中電灯で奥を照らすとかなり詳細に見ることが出来ます。摩文仁頂上に立ち展望台にて太平洋を望むと、緑豊かな海岸線と太平洋の大パノラマに感激の声すら上げたくなりますが…。

摩文仁岳の最も標高の高い場所には『黎明の塔』が建立されています。沖縄を含む南西諸島の守備に任じた第32軍司令官牛島満中将と参謀長の長勇中将を祀っています。

私は『南冥の塔』からガイドのような気分で、若者に解説しながら歩みを進め、知っている範囲の情報はほとんど伝えました。そして摩文仁北側の木造階段を下りて、下の駐車場の所で挨拶をして分かれました。それにしても、あのような若者が南部戦跡に関心を持ってくれるのは嬉しいものですよね~。

戦争を知る。歴史を知るというのは、まずフットワークが軽くないとね。いつの日か、あの若者と再会できる日を楽しみに…。

摩文仁岳西端部にある戦跡

遺骨収集の様子30

『南冥の塔』に至る道から見える風景です。付近の壕や岩陰に避難民が押し寄せ、砲爆撃によりたくさんの人たちが亡くなりました。

遺骨収集の様子31

『南冥の塔』横にある壕内の様子。あまり奥行きはありませんでした。

遺骨収集の様子32

『健児の塔』に至る道すがら野生の「トランペットリリー」が咲き誇っていました。

遺骨収集の様子33

『健児の塔』直下にある壕内に設置された納骨堂です。内部を見ることが可能です。私も久しぶりに見ましたが御遺骨も激減していましたね。

遺骨収集の様子34

この壕の中からも数えきれないほどの御遺骨が発見されました。

遺骨収集の様子35

6月23日未明、第32軍牛島中将と長参謀長が自決を遂げた壕です。

レストラン『Cure Heart』での夕食

夜は林先生と大庭先生と私の三人で、林先生の息子さんが経営するレストランに出向いて食事をすることになっています。夜7時過ぎに、私と林先生は大庭先生が宿泊されている「ホテルタイラ」を訪ね、三人でタクシーで国際通り南端の横にある那覇市役所を目指しました。

タクシーを降りて、市役所の横を少し歩くと目指すお店がありました。『Healthy Dining Cure Heart』( ヘルシーダイニングキュアハート)。店名の前に「癒食同源」というキャッチフレーズをつけていました。素敵なコンセプトですよね。この四文字の持つイメージは、それとなく理解できるのではないでしょうか。おそらく店主の、料理への取り組みの全てがこの四文字に表出されているのではないかな…。

店内で出された数多くの料理は、間違いなく美味しかったです。「自家栽培のハーブを使った低価格で体に優しい手作り料理」 確かにその通りの素敵な料理をたくさん頂きました。食事を楽しみながら楽しく会話することが出来ましたが、話題の多くは林先生の那覇に着任して、今年2月で40周年を迎える話が多かったですね。5月28日午後1時から那覇教会40周年行事も開催されるそうです。

林先生は40年前に九州から単身、24時間以上船にゆられ沖縄に渡って、手探りの布教活動が始まったそうです。当時は、想像をこえて「ヤマトンチュー」への反感と嫌悪があったそうですよ。正に逆風の中を耐えに耐えてコツコツと道を切り開いていったのですね。林先生自身も、並々ならぬ苦労があったと色々と具体的に話しをしてくれました。

そんなご苦労な話の中で、私が最も驚いたのは、“教会の外に出て布教活動はやらない” という点でした。つまりは、沖縄県民が訪ねてくるのをひたすら待つ…。これは大変な忍耐力と精神力が必要だと感じました。並の人間には勤まらないと感じましたね。改めて耐えて待つことの本質を垣間見た思いがいたします。

食事の途中から、仕事の関係で沖縄に出張で来て、沖縄が気に入りそのまま移住してしまったという女性が、林先生にご挨拶するためにテーブル横に現れました。最近は沖縄へ移住するのが、静かなブームになっていることは知っていました。実際本屋さんにも、沖縄へ移住するにはどのようにしたらよいかといったマニュアル本も、結構見かけるようになりましたね。実際そのブームの影響で、沖縄の不動産価格は少しずつ高くなっているそうですよ。ただ、沖縄で仕事を見つけるのは、かなりハードルが高いと、その女性も語っていました。

私の妻も引退したら、夏は関東で暮らして、冬の間だけは沖縄で暮らしたいな…。なんて言っています。私も可能なら沖縄に住みたいと考えていますので、その女性の話には注意深く聞き入りました。

こうして、楽しい食事会は時の流れと共に、お腹もいっぱいとなり会話も弾んでいきました。大庭先生、林先生ありがとうございました。

「ヘルシーダイニング キュアハート」

遺骨収集の様子36

「癒食同源」という素敵なコンセプトでおもてなし。"自家栽培のハーブを使った低価格で体に優しい手作り料理" が食べられますよ。

遺骨収集の様子37

お店の外観と店内の様子。食事中は他の席もほとんど満席状態でした。

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